国際情勢を適当に分析してみる(1) ~偶像崇拝にみる世界史の潮流~
特にターゲットにする読者層を決めず、徒然なるがままに筆を走らせている、このエッセイ。
今回もまた微妙な題材を選んだなと思いつつも、あえて偶像崇拝を選んだのにはそれなりに理由がある。
先日、新聞を読んでいたところ興味深い記事が載っていたからだ。
サウジアラビアの北部で雪が降ったため、子供が雪だるまを作りたいと言い出したらしい。
親はハタと困った。
これは宗教的に問題ないか? と。
判断に困った親はイスラム神学者にツイッターで相談したようなのだが、その答えが「ゆきだるまを作る行為は偶像崇拝にあたるためNG」だとか。
共同通信社から配信されているため、恐らく事実なのだろう。
そこまで生活に介入しなくてもという意見もあるようだが、いくつか考慮しなければいけない点がある。サウジアラビアはイスラム教スンニ派の国であり、厳格なイスラム教国。しかもスンニ派の一派であるワッハーブ派の教えが国を動かしている。ワッハーブ派は厳格な教えが有名であり、戒律が緩いトルコや北アフリカ辺りのイスラム諸国とは大違いなのだ。
という前提で考えれば、雪だるまが偶像崇拝に繋がるとファトワ(宗教見解)を出したのは当然の帰結かもしれない。
僕はこの話に賛意も批判もしないが、一つ疑問が浮かばないでもなかった。
同じく厳格なイスラム教国であるイラン――あの国はシーア派だが、今回の疑問に支障を与えないので無視する――確か、イラン革命の指導者ホメイニ師の写真がでかでかと壁に貼ってあったのだが、あれはOKなのか?
イスラム教は信仰対象としての像を作らず、わざわざモザイクで表現している。
イランにとって偉大な宗教指導者だったとしても、あれだけデカイ写真を掲載するのは偶像化の対象となるような気がするのだが……
偶像とは木・石・土・金属(などの具体的なモノ)で作った像のようなのだが、写真の定義は曖昧らしい。
その辺の曖昧さが厳格なイスラム国であるイランに存在する点も興味深いが、本来イスラム教は厳格であるが曖昧さを認める宗教だから有り得る話なのだろう。
ちなみに偶像とは木・石・土・金属(などの具体的なモノ)で作った像であることから、サッカー界では神のように扱われているディエゴ・マラドーナ氏が偶像崇拝の対象になり得るという理由で入国拒否されることはありえない。まあ、マラドーナ氏は色々物議を醸し出す人物なので、別件で入国拒否される可能性は十分あるのだが……
イスラム世界で大きな像というと、もう一つ思い浮かぶ。
最近の出来事なので皆様も覚えているかもしれないが、イラクに存在していた独裁者 故サッダーム・フセイン氏の巨像だ。第二次湾岸戦争でフセイン氏の巨像が、民衆により引き倒される光景をニュースで見た事があるのではないだろうか。
あれは明らかに像であるため、ホメイニ師の写真と違い偶像ではないと言い訳が出来ない。
引き倒された映像を観る限り内部が空洞だったような気がするため、建築資材が石ではなく銅か何かで鋳造したのだろう。石でないとしても金属を用いて建造されている以上、どう考えても偶像だと僕には思える。
にもかかわらずイスラム圏のイラクで、何故か巨像は存在し得た。それは敗戦前のイラクは世俗的国家だったのが大きいのだろう。宗教的縛り緩いため建造出来たのだろうが、なんとなくフセイン氏が強引に押し切った気がしてならない。
独裁者の面目躍如といったところ。
そのような巨像も敗戦時に引き倒されたため、現在は存在しない。
ところで巨像を引き倒す群衆の様子を独裁者に対する不満の爆発した象徴的事例としてマスメディアは扱ったのだが、それは少し違うのかもしれないと思わないでもない。
敗戦前のイラクは世俗的国家だったとしても、イスラム教を信奉する民衆は偶像が存在するのを快く思っていなかったのでは?
証拠は一切存在しないが、そのようにも考えられる一例であろう。
偶像崇拝禁止と聞くとイスラム教の専売特許のように思えるかもしれないが、それはちと違う。
上げ出すと切りがないためキリスト教と仏教に限定するが、共に偶像崇拝の禁止をしてみた。
キリスト教『新約聖書』の第一コリント 八章には、偶像崇拝に否定的な記述があるらしい。
典型的な例は東西にキリスト教世界が分裂した時代。
ローマ・カトリックは比較的未開な人々を教化しなければいけないため、明確な信仰対象を必要としていた。
有意義で有難い教えを説いたところで聖書やロザリオだけでは人々は愛着を持てず、マリア像やキリスト像を彼らが必要としたのは無理もないだろう。
一方、文明圏に存在するビザンツ皇帝とコンスタンティノープル総主教には、そんな事情は関係ない。神学論争の結果、ある時期、木版の聖像画であるイコンを礼拝することを偶像崇拝であるとして禁止している。
キリスト教世界も明確にやることはやったのだ。
まあ、長続きしなかったけれど。
どれだけ文明化しようとも、民衆は明確な信仰の対象を求めるらしい。
仏教においては、仏塔がそれに当たる。
仏塔は小乗仏教によく見られるが、あれは仏像を作ると偶像崇拝になるので、その代わりとして仏塔を作るようになったらしい。他にも理由はあるのだろうが、僕が不勉強なのと、ここで宗教論争してもしょうがないので話題を単純化するのは許してほしい。
結構、長く仏塔中心でやったようなのだが、それも限界あった。
大乗仏教として伝播していく中で、仏像が作られていく事となる。
仏教の良いところは仏塔そのものが否定されたわけでなく、仏像を作りつつも五重塔や小型の宝篋印塔や五輪塔という形で残した点だと思う。
良くも悪くも原理主義ではないのだ。
さて、話題が再び戻るがイスラム教である。
ほかの世界宗教が挫折したにも関わらず、イスラム教のみが偶像崇拝禁止を貫き通している。
ユダヤ教や神道などでは偶像崇拝禁止を成し遂げているが、概ね特定の民族や地域に限定される。重要なのは世界宗教で、偶像崇拝禁止をやり遂げている点である。
何故、それが可能だったかだ。
イスラム教が厳格な宗教という面も勿論あるのだが、僕が思うに重要な経典であるコーランの教育が子供の段階からしっかり行われていたためではないかと思えてならない。
他の世界は新約聖書や般若心経を子供の段階から、全ての階層を対象に教えてこなかったのではないか。
それも、多分、無料である。
ニュースか特集かで見たのだが、コーランの教育とは音読だけではなく模写もあるらしい。
識字率が上がるし、教育機関としての役割もこなすだろう。
キリスト教は新約聖書を一生懸命教えたのかもしれないが、識字率が左程高くなかったという点から熱心さという面でイスラム教よりも劣っていたのではないだろうか。
まあ、ローマ・カトリックは宗教画やマリア像やキリスト像を熱心に導入した宗派なのだから、途中で偶像崇拝を禁止出来る筈もない。
そんな彼等にとって、信仰の対象であるキリストが人であるというアリウス派やネストリウス派の思想は何かと都合が悪かったことであろう。
世界史を振り返ると、ある段階までイスラム教世界はキリスト教世界を圧倒している。
イスラム教世界が武力で優れていたというだけではなく、文化水準の上でも隔絶していた。
コーランの教育という基礎が、効率的な組織を創り上げることを可能としたのではないだろうか。
ゆきだるまという存在一つをとっても民衆は疑問を持つ。
疑問は思考を生み、思考は回答を求めて走り出す。
彼等を習慣に縛られた人々と考えるのは、些か早計ではないかと僕には思えてならない。
僕達は日常生活でどれだけ思考するのであろう。
思考した結果ではなく、習慣に縛られてはいないか?
「ゆきだるまを作る行為は偶像崇拝にあたるためNG」という記事は、僕にそのような感慨を抱かせた。