僕の好きな十二使徒は誰か?
特にターゲットにする読者層を決めず徒然なるがままに筆を走らせる、このエッセイ。
今回の御題は「十二使徒」である。
使徒といっても新世紀エヴァンゲリオンのではなくキリスト教の使徒のことである。知らぬ人はいないと思うが所謂十二使徒のこと。僕はキリスト教徒ではないし、彼らがアメリカ大陸到達時に行った蛮行を反吐が出るほど嫌っている。仮に異星人とのファーストコンタクトが行われたとして、平和的交渉が如何に困難なのかをあれほど端的に証明した歴史的事例は他にないだろう。
とはいえ、僕はキリスト教そのものを嫌っているわけではない。
今回は僕みたいな人間でも興味を抱き、この人物は好きだなと思ってしまう十二使徒の一人について書いていこうと思う。
尚、僕は神学者ではないしキリスト教の歴史に造詣が深いわけでもないので、誤った解釈は「これだから、とうしろうはっ」と笑いながら流してもらうと助かります。
十二使徒の説明を一からしてもいいのだが、それでは長くなるし論点からズレてしまう。なので今回は天下の名画『最後の晩餐』を用い、自己流で十二使徒について説明します。ミラノにあるこの名画は仕事を仕上げられない発明家が――失礼、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが書き上げた数少ない作品である。
「ダ・ヴィンチ・コード」の題材になったこの名画は色々なメッセージが隠されていると指摘されている。画家の意図は兎も角としても、僕みたいな異教徒にも分かりやすいにように十二使徒達の特徴を描きだしているように思う。
「あなた方のうち、ひとりが私を裏切るだろう」
キリストの発言に対しキリストの左側に位置する6人は驚きを隠さない。彼らの名前は左からバルトロマイ、アルファイの子ヤコブ、アンデレ、ユダ、シモン・ペトロ、ヨハネ。逆に右はじに位置する3人はなにかを相談しているが、彼らはマタイ、タダイ、熱心党のシモン。残る三人はキリストの傍でなにか発言している。
神学的説明は知らないが、僕はこの構図から十二使徒には大きく分けて3つのグループが存在していたのではないかと理解している。
今回、僕が取り上げようとしているのはキリストの隣りで発言するグループになる。
左からトマス、大ヤコブ、フィリポ。
大ヤコブは驚き怒りの感情を露わにしているようにみえ、フィリポはなにか情に訴える発言をしているようにみえる。一方、トマスの目の色に驚きが感じられず指を一本立てているだけ。
この構図に無理はないが、僕には少し奇妙には見えてならなかった。
皆様はどうだろう?
主の爆弾発言に驚きもせず冷静に問いかけている姿はある意味人間的であるが、宗教家としてはどうなのだろう?
「えっ、驚かないの?」
僕がキリストならその態度に対して驚いただろう。空気を読まない感が半端ない。
使徒トマス。
彼は僕が好きな使徒でありイエスの復活を唯一信じなかったらしい。宗教家としては疑問がある行動だが、現代人である僕達からみれば共感を覚える行動ではないだろうか。「疑い深いトマス」とも呼ばれることもあるようだが、それは無理もないだろう。
このような行動をとる理系的思考の人物のキリスト教世界における評価を異教徒である僕は知らないが、少なくとも聖ヨハネや聖ペトロより高いとは思えない。
さて、このような前提を踏まえて使徒トマスが指を指す意味はなんだろう。
この指は天を指し示してるともいわれるが、同時に「それは一人ですか?」と訊ね返しているともいわれる。
もし後者の解釈が正しいとすれば中々に興味深い。
彼は理系的思考で「ひとりが私を裏切る」という意味を、「一人だけ裏切るとは言っていない」と理解していることになる。デスゲーム的なトリックを回避する主人公的行動。カイジやアカギとかの歴史版漫画が出版されたら高確率で主人公ないしライバル的存在になる気がしてならない。
伝説によれば使徒トマスはキリストの復活後、インドへ宣教に赴いてその地で殉教している。史実的な裏付けはないが、中世ヨーロッパの人々がインドに辿りついたとき、現地にはキリスト教徒が既に存在していたのは事実のようだ。
彼の思考と行動は宗教家の視点を超えており、歴史的ロマンを感じさせずにはいられない。
少なくとも僕にそう思わせる使徒トマスが好きだ。
キリスト教徒の方が今回の話題を読まれたら、このような解釈によって聖書の世界へと興味を持つケースもあるのだと、寛大な心でどうか許して欲しい。
今回のところは、この辺で。




