小説の書き方(4) ~前後の文章を読めば理解できる?~
特にターゲットにする読者層を決めず徒然なるがままに筆を走らせる、このエッセイ。
今回の御題は「小説の書き方」である。
大した文章も書けない癖に、同じ御題を4回も取り上げているのは、下手な鉄砲も数を撃っていれば、見えてくるモノがあるからなのかもしれない。まあ、あくまで考察にすぎないので、この書き方が正しいというわけでない点を御理解して頂けないだろうか。
僕は誰からも小説の書き方を習っていないため、正しい書き方など知らないのだ。
無知であるが故に考える。
それだけの話なのだ。
先日、とある方の作品に対する感想で興味深い指摘を見かけた。
「前後の文章を読めば理解できるという描き方は、プロの編集者からは受け入れられない」と。
この感想を書かれた方のプロフィールを知りたいと思うのかもしれないが、御迷惑になる可能性があるのでどうか割愛させてほしい。重要な点はプロフィールではなく、「前後の文章を読めば理解できるという文章は問題がある」という点なのだ。
耳に痛い指摘である。
似たような議論を散々嫁さんとしたため、この指摘を受けた作者の気持ちを多少分かるつもりだ。嫁さんから「この意味分からないのだけど?」と指摘されれば、「ここの文章で書いているだろう」「この文章から読み取れない?」と回答したことは、正直結構あった。
自分の恥を晒すようだが、一つ実例を披露しようと思う。
とある作品で、僕は作中で描く登場人物を――仮に彼をAとしよう――Aという名前と彼という三人称代名詞を併用していた。この併用がかなり不味く、Aが誰か分からないと指摘されたのだ。
僕は冒頭かどこかで名前を記述しており、以降の文章では彼という三人称代名詞で描写していた。指摘された回では男性キャラがAと他にもう一人だったか二人いたのだが、普通に話み進めれば彼はAしかあり得ないだろうと僕は考えていた。
ところが、嫁さんから「彼」が誰か分からないと指摘を受けたのだ。
僕は読み解けばわかるだろうと反論したのだが、彼女は誰から見ても分かるように描写した方が良いと主張する。今なら彼女が言わんとした指摘を理解出来るのだが、当時の僕にはどうしても理解できなかった。
人は納得できない事には妥協がしにくいものだ。結局、自分の意見を押し通したが、作品を公開してみると同じような指摘を何度も受けることになる。
この件に関しては、彼女の主張の方が正しかったのだ。
全てを知っている作者にしたら分かり切った内容でも、読者にしたら意味不明な内容はあり得るのだ。「前後の文章を読めば理解できる」というのは、結局のところ作者のエゴに過ぎないのだろう。
だとしても、どうにもやりきれない面は確かにある。
心情的に受け入れにくい面は置いておくとして、とりあえず答えに至る過程から少し考え直してみよう。
「前後の文章を読めば理解できる」という書き方は、詰まるところ読者が前後の文章を認識できなかったということになる。読解力とも受け取れるが、とりあえず認識と定義させてほしい。
文章に限らず、人は目で物事を捉えるが、人は見たものを見たものを見たままに認識していない。脳が視界に入った映像を認識して、初めて情報として認識する。
極端な例になるが、視界に入っているが認識しにくいケースもあるだろう。
結果、その対象は存在しないのと同義になる。
推理小説で探偵が細かな点に気付くが、他の登場人物はまったく気付かないのも、多分同様のケースだろう。人は視界に入っているモノを、あるがままに認識できないのだ。
文字の海を前にしたときも、多分同様のケースが発生するのだろう。
結果、歯抜け状態で文章を読み解いてしまう。
小説を二度読みすると、最初と印象が随分違ったと感じたことはないだろうか?
多分、それは読み飛ばしてしまった文章から、新たな情報を読み取ったために起きる現象、かもしれない。
少し話しをかえるが、皆様は小説を手に取ったとき、流し読みをしないだろうか。
僕はする。
最初の数行で興味を引けば、数ページから数十ページをなんとなく流して読む。作品の本質は分からなくとも、流し読みで大雑把なイメージを掴もうとするのだ。
流し読みでイメージを掴めるということは、その作品は「前後の文章を読まなくても――或いは読み飛ばしても――ある程度イメージをつかめる」文章で描かれているのではないだろうか。
一概に言えないが、イメージが掴みやすい作品は会話や思考シーンが多いような気がする。長文で描かれるケースもあるため読みやすいかは何とも言えないが、前後の文章と段落分けがされているため目には付きやすい。
会話文や思考シーンを多用されるだけでは、誰が話しているのかは理解しにくい。作者はキャラクターを書き分ける能力を要求されるため、会話文が多い作品が流し読みでも楽しめる作品とは、一概に言えないだろう。
作者は全てを知っている、読者は知らない。
この前提を、作者は忘れがちなのだ。
自分は知っているので当たり前と考えていると、他の人には何が言いたいのか分からない文章が完成してしまう。全てを知っているが故に、書いてあれば読者は分かる筈だと思い込んでしまうのではないだろうか。
「前後の文章を読めば理解できる」というのは作者のエゴかもしれないが、言葉のやり取りで発生しがちな齟齬ともとれる。まあ、理解しやすい文章を記述すれば良いだけなのだが、言葉を尽くせば解決するという問題でないのが難点である。
読者の印象に残らない記述は、存在しないのと同義なのだ。
重要な要素を認識しやすいように記述するのが、思った以上に難しいのだ。大雑把にイメージをつかめれば、詳細な描写を理解できなくても事足りる。問題は、詳細な描写をせずとも大雑把なイメージを掴めるかと問われれば、否と答えなければいけない点である。
書いているのに欠いているのだが、それでも読者には描いている、と認識される。
これが小説の書き方の妙ではないか?
最近、そんなことを感じ始めている。
叙述トリックを使用するミステリーや専門書。あるいは抽象的に描くことで独特の雰囲気を醸し出すことを目的にする作品などは例外だろうが、通常小説とは読みやすさを重視すると思う。読みやすさは文章の認識しやすさと相関関係があり、作品で描かれる情景をイメージしやすさに繋がる。
流し読みでイメージを掴める作品は典型であり、そういった作品に面白い作品が多いのは、読者が理解しやすいように考慮された結果かもしれない。
文字の海を前にした時、人は歯抜け的に情報を読み取る。
「書いているのに欠いている」とは、なんとも皮肉な現象だが、だからこそ面白い作品は二度読みしてしまうのかもしれない。




