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国際情勢を適当に分析してみる(3) 民主主義、それはパンドラの箱を開ける行為なのか?

 特にターゲットにする読者層を決めず徒然なるがままに筆を走らせる、このエッセイ。

 今回の御題は「民主主義」という御大層な御題目をすえてみた。

 誤解して頂きたくないのだが、僕は別に独裁政治の信奉者ではないし、民主主義そのものを否定するつもりは毛頭ない。 

 アドルフ・ヒトラーはレーニンと異なり民主主義により誕生した独裁者であるが、民主主義が独裁政治を抑止してきた面は確かにある。民主主義=普通選挙という定義が成立していれば独裁政治が誕生しないという意味ではなく、無制限の出馬を憲法で可能するならば、普通選挙を実施していても実質的独裁政治が誕生する。

 それは旧ソ連圏の独立諸国やアフリカの実例が証明しているだろう。

 独裁的手法を取られていた国々で民主主義が採用されたとき、国家が分裂気味になるのは何故なのだろうかと、僕は常々考えてきた。

 今回はそんな僕の考えをああでもない、こうでもないと取りとめもなく書いていこうと思う。結果として行き付いた結論が妥当かは僕も確信が持てないし、そうとも捉えられるという内容にすぎない。

 素人ゆえの浅学菲才だな、と馬鹿にしながら読んで頂ければ非常に助かります。



 東西冷戦崩壊後、アメリカやヨーロッパを中心とした民主主義的政治システムは世界に広まりつつある。中国やキューバのような例はあるが、概ね、その傾向があるのは否定される方はいないだろう。


「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」


 これはイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの言葉らしいが、彼の想いは別にして、アラブの春と呼ばれた民主化?――あれが本当に民主化を求めた運動なのかは、正直疑問があるのだが――やタイやミャンマーの政治的混乱を見ていると、民主主義が国家の安定に対して本当に帰依するシステムなのかは疑問がないではない。

 民主主義とはつまるところ、選挙により有権者の意思を国政に反映させるシステムだと思うのだが、その前提には個々人のレベルで物事を考えることが必要ではないだろうか。

 民主主義が上手く機能しない社会には、部族、縁故、宗教、宗派の縛りが多いように思える。それらの縛りや価値観に振りまわされずに個々人の考えを持つのが難しく、結果として部族、縁故、宗教、宗派の価値観が選挙に反映されてしまうため、民主主義というシステムが機能しにくいとも言えるだろう。


 近代民主主義の歴史は、政教分離を実現するための闘争の歴史とも言いかえられる。政教分離がある程度進んだとき、闘争する対象が階級へと変異していったにすぎない。

 日本に住んでいると部族、縁故、宗教の縛りに対して無頓着になりがちだが、コミニティーとしての影響力を過小評価してはいけないだろう。そのような社会では中央政府の影響力が地方に及びにくい。やたらテロが起きまくるのに未だ制圧できないパキスタン等はその典型。

 部族、縁故、宗教、宗派のコミニティーは、厳しい世の中を生きていく中で仲間同士助け合っていくための編み出したシステムであり、故に発想はコミニティーに限定される。

 ある意味、国家という巨大な組織と対象的な、ミクロ的な集団とも言い変えられるかもしれない。

 このミクロ的集団はコミニティーであるが故に結束力が高く、その傾向は選挙においても同様ではないだろうか。


 選挙で選ばれる政治家は国家という単位で思考し、政策の判断を迫られる。より高い次元で判断するという意味で、マクロ的な思考をする集団と言えなくもない。

 民主主義というシステムが抱えるジレンマは、政府を運営するマクロ的な集団を選ぶ選挙において、ミクロ的な思考をする複数の集団が大票田を持つ点にあるだろう。

 ミクロ的価値観で思考し判断する集団は、マクロ的な価値観を受け入れる――妥協とも言えるだろう――土壌が成立しにくい。特にミクロ的な集団の価値観に――例えば同性愛や異教徒を受け入れないなど――抵触するようなケースでは尚更だ。


 政府はどちらかの側に立てば中立性を失う。

 デリケートな問題であり、その辺は考えれば誰でも理解できる問題であろう。

 しかし、それだけで問題を回避できるのだろうか。

 僕は否だと思う。

 マクロ的な集団で政府に対して、ミクロ的な集団であるコミニティーは干渉されること自体に忌避感を覚える。政府は盟主という程度の認識なのだかもしれない。ミクロ的な集団の力が強い国で普通選挙をしたとしても、勢力図を再確認するだけ。

 最初は物珍しさで上手くいくとしても、勢力図に変化がないことから発生する膠着化から不平不満が生まれる。対応策としてはブミプトラ政策――マレーシアにおけるマレー人などを優遇する政策――は典型的な再配分制度であろう。

 政府はミクロ的集団に配慮することで時間を稼ぎつつ、マクロ的な思考をする国民を育成することを迫られる。

 教育こそが国家を成立させると思うのだが、兎角、教育には時間がかかるものだ。にもかかわらず、欧米諸国は馬鹿の一つ覚えのように「普通選挙の実施」を唱える。その結果がどのようになるかの責任を持たないし、理解できないのかもしれない。

「民主主義、それはパンドラの箱を開ける行為なのか?」とタイトルに記述したのは、このような理由からである。


 反論はあるだろう。

 日本やトルコは民主主義や議会政治の導入に成功した例だと、ニュースで放送していたと。

 間違いではないが、ニュースの報道は重要な事実を意図的に暈している。

 トルコは知らないが、日本においては最初から普通選挙形式で行われていない。1889年(明治22年)に満25歳以上の男性で直接国税を15円支払っている人物にだけ選挙権が与えられた。納税条件はブルジョアに対する妥協と特権の付与ともとらえられるが、一定水準の教育を受けている人間はこの程度の納税が行われていると推測したのかもしれない。

 まあ、僕の推測なので、学術的根拠はないのだが。

 いずれにしても納税条件撤廃が行われたのは1925年(大正14年)であり、36年もの年月を要している。

 男性限定とはいえ政府が普通選挙を導入に36年もの年月を要したのは、選挙民の分類の変化を恐れたのもあるだろうが、時期が来ていないのに導入を早めることで社会が混乱することを恐れた面もあるのだろう。

 もし仮の話だが、自由民権運動華やかなりし頃に普通選挙を実施したら、アラブの春などと呼ばれる動乱と同程度の混乱が起きたかもしれない。

 物事には時期と準備というものがあるのだ。にもかかわらず、それぞれの国々の状況を無視して初期から普通選挙を実施しろと主張する欧米や国連の言い分は、無責任ではないだろうか? と僕には思える。或いは提言の失敗に対して、実は僕等の知らないところで賠償金が支払われているのかもしれないが、少なくともそんな話は聞いたことがないのだが……

 エジプトで軍部が登場して政権を握るのも、この辺に理由があるかもしれない。


「民族自決の罠」の繰り返しになるのだが、普通選挙も否定できない価値感である、

 なにより選挙は民主主義システムの根幹を成す。根幹を成すからこそ国の抱える矛盾を炙り出すのだ。まるでパンドラの箱を開けるかのように。

 最後にもう一つ、指摘させてほしい。

 民主主義というシステムは西欧社会が生み出したシステムであり、民主主義の導入は西欧化を意味する。ミクロ的な集団は西欧化そのものに忌避感を覚えるケースがあるため、民主主義の導入そのものが問題とされることも忘れてはいけないだろう。

 イランにおいては選挙が存在するものの独自の社会システムを構築している点は、独自にアレンジする必要があったからかもしれない。それは現在進行形で改良が重ねられているのだろう。

 他国から社会システムを導入するとき、自国のアイデンティティーとぶつかるかる可能性を忘れてはいけない。


 僕達は、その苦労を知っている筈なのだ。

 日本においてすら、最初から普通選挙を導入できなかったのだから。

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