歴史の目撃者(3) ~祖父と元ロシア貴族との交友の痕跡~
特にターゲットにする読者層を決めず徒然なるがままに筆を走らせる、このエッセイ。
早速ではあるが、今回の御題は「祖父と元ロシア貴族との交友の痕跡」である。
元ロシア貴族とは、前回触れた方々。
皆様は前回の話を読んだ時に、こうも思われたのではないだろうか?
あの話はただの出任せではないか。証言ばかりで証拠は存在しない。出任せでいいのなら、俺でも書けるぜ、と。
誤解してほしくないのだが、どなたから指摘されたわけではない。そうとも取れるというだけであり、それも決して悪い意味でない。疑問はあらゆる思考の原点であり、疑問の余地があること自体は、悪いことだとは僕は思わない。数学や科学の公式ではないのだ。
本エッセイの目的は推理と推測を駆使して、仮説という大義名分名の元に妄想を膨らませることを目的にしている。
客観的に考えて、本エッセイを執筆している僕でも疑問に感じてしまうのだ。他の方がそのように感じられたとしても仕方がない。そもそも祖父の話を補足できる客観的資料を、僕は読者に提示していないのだ。
満洲国にロシア人が逃れてきたのは事実だが、その方々と祖父が交友があった証拠にはならない。よくて、辻褄が合う程度でしかないのだ。
本当にそうだろうか?
実のところ、祖父と元ロシア貴族との交友の痕跡、を伺わせるものは存在する。
その点に触れる前に、いくつかに事実を元に僕なりに多少調べてみた。
祖父は満州鉄道職員であり、最終的にはどこかの駅長になった。元ロシア貴族と交友出来た経済的背景もこの辺にある。元満州鉄道の方々が書かれていた資料を調べてみたが、あまりに資料が膨大で挫折してしまった。どうか笑わないでほしい。祖父は駅長だったが大人物ではないのだ。そんな人物の足跡を辿ろうとしたら、2,3年は気合いを入れて調べなければならないだろう。
僕のライフワークにはなるだろうが、エッセイで書くために軽く調べて分かる次元ではないのだ。
我が家には痕跡はないだろうか。
祖父は終戦時に全財産を失った。いや、どうにか帰国出来たのだから何にも持っていなかったとは思えないのだが、祖父が残したアルバムには彼等は写っていなかった。
興味を惹いた一枚がある。丁寧に説明が添えてあるので分かるのだが、昭和14年9月にハルピン市奉天街6-3で新居を建てた、とある。その場所がどのような地域なのかは、残念ながら調べられなかった。
いずれにしても祖父と元ロシア貴族との交友を示す、物的証拠は残っていない。
生きている方の記憶はどうであろう。
祖父と祖母は既に亡くなっているが、父と叔母――父からみれば姉に当たる――に確認してみたときがある。父の方が幼すぎて覚えていないが、叔母は元ロシア貴族の方々からロシア語を習っていたと聞いている。イギリスのおいては貴族階級は他の階級と異なるアクセントの言葉を使う。同様の事例は、ロシア帝国でも有り得るのではないかと考えたのだ。
結果から言えば無駄であった。
既に戦後70年である。
70年前には覚えていても、その後の人生で使用しなかった言語を覚えている、というのは無理な話しなのだ。
祖父と元ロシア貴族との交友の痕跡を見付けるのは不可能なのだろうか。
いや、ある。
それは意外にも、我が家の食卓に存在していた。
本エッセイの「我が家の餃子の作り方」の回を読み直してほしい。
僕は、次のように記述している。
「我が家の餃子は他とは大きく異なる作り方をしています。食材を刻み、その食材とひき肉をフライパンで炒め、味を付ける。その後、少し冷ましてから皮で包みこみ、再び餃子を焼くのです」
餃子の皮こそ使用しているが、なにか別の料理のレシピに似てはいないだろうか?
そう、ピロシキのレシピにそっくりなのだ。
ピロシキは、食材と挽き肉をフライパンで炒めた後、味を付けてからパン生地に入れて揚げる。まあ、揚げない手法も存在するが、この際置いておこう。我が家の餃子は、パン生地を使用せず餃子の皮を利用しているのだ。
満州では、この手法で創る餃子が一般的だったのではないか?
もっともな疑問だが、この点はある人物の証言から否と言える。
それは僕の奥さんが、奥さんの祖父から聞いた話である。
僕の奥さんの祖父も、まったくの偶然ながら満州鉄道職員だったのだ。話しによれば、現地では水餃子を食べていたそうで、その味を懐かしがっていたと僕に教えてくれた。
餃子の製法は千様万別であるが、普通は肉汁を閉じ込めることを主眼とする。それは焼き餃子であろうと、水餃子であろうと同じだと思う。
我が家に伝わる餃子は肉汁をまったく利用しない。利用せず捨ててしまうのだ。他の餃子のレシピからは余りにかけ離れた、異端のレシピなのだ。
誰からこのレシピを教わったのだろうか。
これもまた「我が家の餃子の作り方」で記述している。「我が家の餃子は、そのとき現地の方から教わった料理方法だそうです」と。「そのとき」とは満州滞在時であり、祖母が教わり、その後、父と結婚した母が祖母から教わっていた。
「我が家の餃子の作り方」を執筆したときは想像もしなかったが、祖母が教わった人物は元ロシア貴族の方々だったのではないだろうか。そう思わせるほどに、ピロシキのレシピに良く似てはいないだろうか?
証拠はない。
単なる偶然である可能性は否定できないが、「現地の方から教わった料理方法」という点は注目すべきであろう。
日本に住んでいると気が付かないかもしれないが、海外では家に伝わるレシピというものは決して他人には教えないものらしい。
文字通りの家族の味であり、秘伝のレシピなのだ。母から子に、或いは嫁いできた娘にだけ伝えられるらしい。このような連綿たる連続性が家族の価値を高め、家独自の味であるレシピは守られていく。
スーパーやコンビニの食料品店で冷凍食品を買い、TVやネットで料理番組が氾濫する現在においては多少縛りが緩んでいるかもしれないが、いまから70年以上前ならば易々と教えないのではないだろうか。
もう一度、よく考えてみよう。
祖父は元ロシア貴族の方々と親友になった。
それも財産の隠し場所を明かされる程の新密度である。そのような関係ならば、本来、家族以外に明かされる筈のないレシピを教えられても不思議ではない。証拠はないが、飛躍と言えるほど突飛な発想ではないだろう。
まあ、元ロシア貴族の方々が自分で料理をしたのか? という疑問はあるが、いくら財産がある貴族でも、所詮は元と但し書きが付くのだ。安定した生活に至る過程で,世間の荒波に揉まれて手料理をする気になったのかもしれない。或いは故郷の味に懐かしさを覚え、自分で再現する気になったのかもしれない。
この点は説得力に乏しく、弱点であることは認める。
いずれにしても、あくまで僕の推測であり証拠は一切存在しないのだ。
だが、一つだけ言える事がある。
70年の月日が人々の記憶を薄れさせ、時間が無情にも過去へと押し流そうとも、痕跡を全て消し去ることは出来ないことを。
数々の情報や知識を点と捉え、それらを憶測と想像という線で繋ぎ合せることで、仮説という名の面に至る。
「我が家の餃子の作り方」は、僕に忘れかけていた記憶を想起させる出来事だった。




