99話 「早すぎた邂逅」
「シーザー! 幕をあげるぞ!」
「はーい!」
道化師シーザーはとある劇場の舞台に立っていた。目の前には暗幕がある。
――午前中の舞台にボクが駆り出されるってのもまた、珍しいな。
シーザーは道化師として、いくつもの舞台劇の幕間のためや、場合によっては開幕の余興のために、さまざまな劇場に呼ばれることがあった。
ときには咄家のように近頃のちょっとした話題をおもしろおかしく語ったり、ときには奇術師のように種も仕掛けもある奇術を披露して観客の熱を煽ったり。
しかし、そんなシーザーも、午前中の舞台に呼ばれることはあまりなかった。
芸術都市の午前中の劇は比較的おだやかなものが多い。
朝のさわやかさに見合った静謐な喜劇。はたまた、ゆったりとした歌や、ハープの音色をメインにした歌劇。
いうなれば、夜と比べておしとやかで、上品なものが多いのだ。
そうしたものを上演するときには、かえってシーザーのような道化師は蛇足だった。
シーザーの道化師としての腕はたしかで、開幕の一演技で観客を沸かせ、一気に客の興味を劇のはじまりへと引き込む。
されど、午前中の劇では、その熱狂性が静謐さの邪魔になる。
シーザー自身それをわかっていた。
だから、今日の仕事は異例だった。
自分の仕事の性質をわかっているからこそ、この仕事をもってきた劇場の主にしつこく「自分でいいか」と訊ねたが、彼はすべてに大仰なうなずきで答えた。
そして彼は、口を開いてこう言った。
『ジュリアナ嬢がお前の開幕を必要としている。むしろ観客にではなく、彼女のためにお前の開幕が必要なのだ』
ジュリアナ。
――〈ジュリアナ=ヴェ=ローナ〉
シーザーはそのとき、「なるほど」と胸中でこぼした。
あの〈魅惑の女王〉が、自分の開幕を必要としている。
おそらくそれは、自分の道化師としての手腕うんぬんが関係したのではないだろう。
至極個人的なつながりによって、彼女は自分の開幕を必要としたのだ。
――……そろそろ堰が壊れるかな。
彼女の冷静さを支えている堰が、今にも不安の波によって決壊しようとしている。
周りのさまざまなプレッシャーに、耐えられなくなってきているのだ。
ここのところも、彼女は渦中で苦しんでいた。
サイサリス教国に『保護』されている〈魔王〉。
彼女はそうしてサイサリスに身を守ってもらうかわり、自分も『あること』をしなければならなかった。
いわば――対価だ。
だが、そのあることは、自分の理性を強く揺るがす。
本当はやりたくない。――そういうものだ。
しかしやらねば、野に放り出されて孤立無援に陥る。
この時代は魔王にとって優しくない。
ムーゼッグの名が耳に入ってきている以上は、放り出された道の向こうに死すら見るだろう。
そうした諸々の不安と緊張が、今日昨日でピークに達した。
だから、唯一会話をこなせる程度に近い場所にいる自分に、心の安息を求めてきたのだ。
シーザーはその予想に、確信を抱いていた。
――ボクとしたことが、少し感情的になったかな。
シーザーは内心に自分をいましめた。
『近づきすぎた』と思った。
――ここが限界だ。どうせ、ほかの場所にいってももっとつらい状況が待っているだけだ。
ならばきっと、彼女のためにもここは心を鬼にする必要があるのだろう。
彼女がその魔王としての力に目覚めなければ、きっとすべてはうまくいっていた。
めぐまれた容姿と清らかな心。
引く手あまた、やりようによっては純真な傾国の美女にさえなれただろう。
しかし彼女の魔王としての血が、いまになってその運命を呪った。
――っと。
途中まで考えたところで、シーザーは目の前の暗幕があがっていくことに気づいた。
考え事はここでおしまいだ。
まずは自分の仕事をしなければ。
――最初で最後だ。
自分の開幕がその心のいやしになるのなら、今だけは君の道化師になろう。
でもきっと、この次から君は――
暗幕の向こう。大きく開けた視界に、シーザーは多くの観客の姿をとらえた。
そしてすぐに、道化師として最高の笑みを顔に乗せる。
それから彼は――快活な開幕台詞をつむいでいった。
すべてを忘れるように。
ただ楽しく。
明るい言葉の数々を――
◆◆◆
朝の魅惑の女王も、夜とはまた別の趣があって、やはり魅力的だった。
歌劇は盛況のうちに終わった。
歌劇場の主がうれしげな顔で閉幕の挨拶をしている。
その舞台裏で、魅惑の女王と道化師が会話をしていた。
「次の舞台は?」
「午後、お昼過ぎに」
「そうかい。忙しいね。先日の夜の舞台であれだけ話題になったからかな」
「歌と踊りを買ってくださるのはうれしいのですが――」
「あまりそれ以上のことを考えない方がいい」
「……」
道化師シーザーは彼女に言った。
そのときのシーザーの顔には、彼女にはあまり見せない、真面目な表情が浮かんでいた。
「歌と、踊りと、そしてその容姿が観客の熱狂を誘うから、キミは呼ばれる。引っ張りだこにされる。もちろん中心となるのはレーヴ=オペラ座での公演だけれど、ほかの舞台で歌うこともけっして悪いことではない。レーヴ=オペラ座に仲介料も入るし、雇い主としても一石二鳥だろう」
「あの劇場の今の主はあなたでしょう?」
「違うね。それこそボクは仲介をしただけさ」
「サイサリスの」
「……」
シーザーの沈黙のあと、魅惑の女王は眉をひそめた。
しかしすぐに、その美麗な顔に困ったような笑みを浮かべる。
「いいえ、意地の悪いことを言いました。あなたにも理由があるのでしょう。それでいてあなたは、私のことをよく気にかけてくださいます。それだけで……十分です」
「……ジュリアナ」
魅惑の女王――ジュリアナ=ヴェ=ローナは、おもむろに自分の片目の上に手をおいた。
まぶたを押さえるように優しく添えた白い手が、少し震えている。
「いいえ、もう大丈夫です。今日の夜には、――『使います』」
「……そうかい」
シーザーはその言葉を聞いて少し胸がちくりとした。
対するジュリアナは、手にかかった、宝石のようなきらめきを放つ髪を払って、まっすぐにシーザーを見る。
薄い水色を下地に、虹色石のような不思議なグラデーションを滲ませる至高の髪が、舞台の幕の裏で照明の光をきらきらと反射した。
シーザーはその美しさに思わず見とれるが、すぐに意識的に視線を切った。
「では、私は午後の公演があるので、早めに食事をとって移動します」
「ボクもついていくかい?」
シーザーは思わずそんな言葉を口に乗せていた。
ジュリアナは最後にハッキリとした目と口調でものを言ったが、なぜかその強さすら見て取れる目が奇妙に不安を駆りたてた。
この次にはもう一軒、ちょっとした仕事がつっかえている。
それに、午後にはメレアたちを芸術都市に案内する約束もしていた。
ここで時間が押すと、メレアたちを待たせることになるかもしれない。
そうわかっていてもなお、つい言葉が出てしまっていた。
「いいえ、ひとりで大丈夫です。あなたにはあなたの仕事がございますでしょう?」
そういってジュリアナは笑った。
それのみで心を魅了する笑みだ。
男なら通りすがりにそれだけでオちるだろう。
「――そうだね」
シーザーは前に踏み出そうとしていた足を踏みとどめた。
ギギギ、と。肉体の動きを統制する歯車のひとつが、かみ合わせ悪く引っかかったような感覚が、シーザーの身体の中にあった。
その間に、ジュリアナは軽い一礼を残して舞台裏から去っていく。
まるで自分を追わせないように、そそくさと。
シーザーは身の内の、小さく、それでいて無視できない大切な歯車に悪態をつきながら、
「……やっぱりこの世はろくなもんじゃない」
ぽつりとそんな言葉をもらした。
◆◆◆
魅惑の女王――ジュリアナ=ヴェ=ローナは、午前の舞台を終えたあと、首にその長い髪をマフラーのように巻きつけ、外に出た。
芸術の街は昼時。
中天にさしかかろうとする太陽がまぶしい。
しかし、心地の良い陽光だ。
「今日はひときわ盛況ですね」
目の前の路地を見る。
劇場に面した路地では、今の舞台を観終えた観客たちがぞろぞろとたむろしていた。
劇に対する論評や賞賛を、楽しげな表情でそれぞれの口に乗せている。
――ありがとうございます。
ジュリアナは内心で彼らに礼を言いつつ、その路地とは真逆の方向に歩いて行った。わざわざ彼らの目を盗むために裏口から出たのに、表通りにいっては意味がない。
さいわい、裏口付近には人の姿がなかった。
頭の上から装飾用の布を巻き、顔の下半分も首巻を浅く巻くことで軽く隠す。
シーザーにもそうしろと言われていた。
どうやら自分の容姿は、芸術都市では目立つらしい。
うわさが立っているから人に囲まれたくなかったら気をつけろ、と。
自分はただ舞台に立っていられればそれでいいと思っていたが、有名になる弊害というのもあるらしかった。
有名になろうとしていたわけではないが、これが食い扶持でもあるので、ありがたいことではある。
「すみません、通ります」
次の舞台の劇場へは、ヴァージリアの中央通りをまたがねばならないので、歩を進めるごとにどんどんと人の波が荒々しくなってきていた。
加え、ここのところは外から入ってくる旅人や貴族たちの人数もやたらに多くて、日に日にその影響も受けている気がする。
今日も今日とて、中央通りは人だらけだ。
目の前にいる紳士たちの隙間を手で縫い、どうにか身体をすべり込ませる。
が、すぐに弾かれてしまった。
――困りましたね……。
どうにも今日の人波は、今までと一線を画すほどに荒々しい。
踊るために身体を鍛えてはいるが、もはやそれだけではどうしようもないレベルだ。
すると、そうやって惑っている間に、近場にいた商人が自分の胸のあたりを指差してけらけらと笑っていることに気づいた。
どうやら自分が人波に弾かれていたさまを、目ざとく観察していたらしい。
その商人の眼光は変に鋭くて、あまり良い印象を抱かなかった。
「そんなたいそうなもんを胸にぶらさげてるからだ」
商人がけらけらと笑ったまま言った。
ジュリアナはその馬鹿にするような言い草と、品のない言葉に、少しかちんとくる。
気づけば口を開いてしまっていた。
「べつに、好きでぶらさげているわけではありません」
おそらく、眉尻は逆立っているだろう。
シーザーにも「キミっておしとやかそうな顔して結構派手に言い返すよね」と皮肉のように言われたことがある。
わりに激情家なところがあることは、自覚していた。
演者としては長所でもあるし、もちろん一方で――短所でもあるだろう。
「へえ、世のご貧相な女性方が聞いたら卒倒しそうなセリフだねえ。――まあ、それはともかくとして、あんたが好きじゃなくてもほかの男どもは好きかもしれねえ。特に今はシーズンだ。金のあまった貴族連中があんたみたいなのを買いたいっていうかもしれねえ。俺、そういう『商売』もやってるんだが――」
なるほど、それが目当てか。
内心に思って、もう無視して行こうとまた前を向いた。
人の波。
この商人の近くにはいたくないので、どうにか乗り越えたい。
そう思っていると――
「シャウ的にこういう誘い文句って何点?」
「二点です」
「内訳は?」
「遠回しに下品すぎる」
「矛盾してる表現な気がするけど、ニュアンスはわからないでもないな……」
ふと、その商人の隣にあった路地から、世にも奇妙な白髪赤眼の男が現れた。
一目見て、その超俗性に引きこまれる。
珍しい色合いという以外にも、彼には独特の雰囲気があった。
そんな超俗的な容姿の男の隣には、金髪の背の高い男がいる。
小奇麗な身なりをしていて、顔もかなり整っているが、不思議と男性的な香りは立っていない。これはこれで、また奇妙だ。
「まあ、私自身は、そういう商売があること自体に是とも非とも言いませんが、こういう誘い文句はどうにも好みませんね」
「俺もだ。まあ、ともかく――」
と、その男たちの後ろから、さらにぞろぞろと数人の人影が現れた。
先頭の白髪赤眼の男だけでなく、そのほかの面々もいろいろな意味で目立つものが多い。
メイド衣装。全身鎧。よく似た容姿の少女までいる。双子だろうか。
さらにあとから、足先にまで完璧に意識の行きわたったような、おそろしく整った姿勢と動作で歩く黒髪の女が出てきた。
――とても綺麗ですね……。
同じく身体を動かす者として、その美しく凛とした女に関してはより強い驚嘆の念を抱く。
まともな鍛え方ではあんなふうにはならないだろう。
それから砂色髪の男と美しい銀眼の少女が現れて、いったん人影は途切れた。どうやらこれで全員ということらしい。彼らは一団だった。
と、ジュリアナが商人ともども唖然としていると、ふいに白髪の男の赤い瞳がこちらを向く。
「そこ、越えたいの?」
男は自分の後方を指差していた。
相変わらずそこにはまるで途切れる様子のない人の波がある。
「え、ええ」
少しびっくりして反射的に答えていた。
答えを受けて、男は「うーん」と唸る。
そして、
「少し、失礼してもいいかな。ほんの十秒くらい、抱えさせて欲しいんだけど。そうしたら越えられるよ」
「え?」
男はなにかを持ち上げるような仕草を見せた。「どうする?」と首をかしげて問いかけてきている。
こちらはこちらでなんのことかと首をかしげたあと、まあよくわからないが、ここを越えられるというのならうなずいておこうかと思って、素直にうなずいた。
ここで人波が途切れるまで商人にいびられ続けるよりはマシだし、彼からは商人と違って下心が見えない。
「まあ、べつに構いませんが……」
「よし、じゃあちょっと行ってくる」
「お気を付けて。シーザーとの待ち合わせ場所は覚えていますね?」
「ああ、覚えてるよ」
「ではもしなんでしたら、待ち合わせ時間まで勝手に都市内を視察に回ってもいいですよ。あなたの足なら簡単に回れるでしょうし、全員での視察は午後からでも特に問題はないでしょう。――なによりあなた、基本的に一匹で放し飼いにしていたほうが動きは速いですからね」
好奇心の獣だから、と最後に金髪の男がため息まじりにつけ加えた。
――シーザー?
ふと、ジュリアナは聞き慣れた名前がその男からこぼれたことに気づいて、思考をめぐらせようとする。
だが、そのときには、
「じゃあ、失礼して」
自分の身体が、ひょいと持ち上げられていた。まるで、軽い石でも持ち上げるかのような仕草だ。
しかしそこには確かな丁重さも感じられて、不思議な安心感を覚える。
誰かに抱きかかえられるなど幼少のころをのぞけばほとんど初めてだが、恥ずかしさを覚える一方で、ちょっとした嬉しさのようなものを感じてしまっていた。
しかし、
「それじゃ、跳ぶからね。ちゃんとつかまっててね」
次の瞬間。
視界が揺れた。
と同時、視線が異様に高くなった。
気づいたときには、男に抱きかかえられながら近場の建物の屋根へと飛びあがっていた。
「えっ? えっ!? ――ひゃっ!」
芸術都市の高い場所を流れる風が、頬を打つ。
それからすぐに、すさまじい勢いで景色が流れはじめた。
――なにがどうなって……!
ジュリアナは言葉にならない悲鳴をあげながら、男にしがみついた。
今はこの身体のたしかさだけが、頼りだった。





