98話 「嵐の前の静けさ」
次の日。
目覚めると窓辺から朝日が差しこんできていた。
日の位置から考えると、早朝だろうか。
昨日の夜よりは、芸術都市の喧騒は静かな気がする。
路地を一つ離れた程度では静謐とは言えなかったが、朝に関して言えばかなり静かだ。
――夜遊びにふける人が多いんだろうな。
なんとなく、そんな予想をする。
街の雰囲気的にもそうだろうと思った。
メレアは起き抜けに軽く身支度を整え、ほかのみなが起きているかどうかを確かめに行く。
自室の扉をくぐり、廊下に出る。
廊下の空気は少し肌寒い。
と、腕を摩擦であたためるようにこすったところで、ある声が耳をついてきた。
「ふわぁ……、超ねみぃ」
「おはよう、サルマーン」
「おう、メレアか」
サルマーンが隣の部屋の扉から出てきては、大きなあくびをかましていた。
砂色の髪は少しぼさぼさになっていて、まさに今起きたばかり、という感じだ。
「あの金の亡者、日付変わる前に帰るとか言ってたが、マジでぎりぎりにしやがった。『ほら! 三秒前です!』って、千年亭の玄関口をくぐった瞬間に嬉々として言いやがった」
その光景が容易に脳裏に浮かぶ。
「なにか収穫はあった?」
「さあな。込み入った話をしてたようだが、俺は離れたところで適当に飲み物飲んでただけだ」
「なら、シャウ本人に訊けばいいか」
「ああ、そうしろ。俺は顔を洗ってくる。ちなみにあいつ、もう起きてるけど朝から金勘定してるから、もう少し経ってからの方がいいと思うぜ。呪文のような数字の羅列を聞かされたくなかったらな」
たぶんサルマーンは聞かされたのだろう。
サルマーンは「あいついつ寝てんのかわかんねえんだけど」とまたあくびをしながら呟いて、一階への階段を下りていった。
一階に給水所があると部屋の案内にも書いてあったので、そこに向かったのだろう。
「といっても、俺もさしてすることないしな」
外に出たはいいが、まだ女性陣の部屋は扉が開いていない。
無断で開けるわけにもいかないだろう。
そう思って、メレアもサルマーンの背を追って給水所へ向かうことにした。
◆◆◆
給水所に到着すると、すでにそこにはサルマーン以外の先客がいた。
シーザー。
あの妖艶な道化師である。
服装は昨日の夜と比べておとなしい。
きらきらとした装身具は外されていて、どことなく貴族然とした雰囲気を感じさせる小奇麗なシャツとベスト、そしてタイトなハーフパンツを着ている。
ハーフパンツの下には黒いタイツをはいていて、素足は見えない。
しかしそのほっそりとしていて、なおかつしなやかさを呈する足元には、女性的な美しさがあった。
――道化師というものは中性的なのが売りなのだろうか。
芸術都市におけるそのあたりの文化はいまだにメレアにはわからないが、このシーザーという男を見ていると性差があやふやになる。
と、そのあたりで、給水所の洗面器前で顔を洗っていたシーザーが顔をあげた。
「あ、メレアじゃないですか。おはようございます」
シーザーは顔をあげてようやくメレアの存在に気づき、透明の水が滴る顔を斜めに傾けながら、メレアに声をかけた。
服に水滴がこぼれないように、腿の間に挟んでいた布をサっと取り出して、顎の下に差しこみながら続ける。
「あはは、ちょっとタイミングが悪いね。今化粧してないから、見苦しいものを見せちゃうよ」
「いっそ皮肉のような謙虚さだよ」
見苦しい。
とんでもない。
化粧を取ったシーザーは、誰がどう見ても美男である。
――美男、というよりも、美少年、といった方がいいかもしれない。
メレアは内心に訂正した。
「だって、傲慢な道化師って嫌じゃない?」
何色かで染め上げたグラデーションのある長髪を、その顔横にまとめて垂らしながら、シーザーが笑った。
一番目立つ色は地毛のような金色だが、毛先に向かうにつれて赤みがかって、途中には紫系の色も見える。
「そういうものかな」
「メレアは芸術都市ははじめて?」
「そうそう、だからいまいちどういうものが芸術の常識なのか、わからないんだよね」
「あはは、芸術に常識なんて求めたってダメさ。酔狂な人が多いからね。魅力ってのはわけのわからない方向に飛ぶことが多いんだよ」
シーザーは顔を布でふきながらメレアに言った。
メレアは給水所の壁に背をもたれながら、シーザーの言を受けて思案気な表情を浮かべる。
「そういうシーザーはやっぱり芸術都市にくわしいの? 芸術都市と、この街にある芸術そのものに」
「まあ、それとなくね。たまに世間話をして観客を喜ばせなきゃいけないこともあるから。それなりに真面目に流行を調べてはいるよ」
「じゃあ、もし時間があったら、付き合ってくれない?」
「え?」
メレアは思案気な表情をいつの間にか引っ込めて、代わりに、なにかを閃いたような表情を浮かべていた。
目はきらきらと輝いていて、思わずシーザーをたじたじとさせるほどだ。
「道化師としてでもいいし、そういう立場を抜きにした小金稼ぎにでもいいから、芸術都市を案内してくれるとうれしいな。もちろん、相応の報酬は払う」
メレアの言葉を受けたシーザーは、ほんの数秒の間、時間が止まったかのように固まるが、そのあとで声をあげて笑いはじめた。
「あは、あははは! メレアってあの金の亡者と気が合うんだねぇ。なんか意外だなぁ」
「シャウ?」
「そうそう」
シーザーが顔をぬぐっていた布をたたみ、脇に抱えながら言った。
「実は昨日、あの金の亡者にもそうお願いされてたんだよ。『芸術都市を案内してやってくれ』って。――まあ、実際はそんな下手に出た言い方はしなかったけど」
その言葉を受けたメレアは、困ったように笑った。
「本当にシャウは手が早い。動きに無駄がなさすぎて怖いくらいだ」
「まったくだね。――で、午前中はちょっと劇場での仕事があるから案内できないんだけど、午後から夜までは空いてるから、正午の鐘がなったあとにメレアたちを芸術都市に案内するよ」
「ホント? 助かるなぁ」
メレアは莞爾とした笑みを浮かべる。
その少年のような無邪気な笑みに、シーザーはつい口から言葉をこぼした。
「昨日から思ってたけど、本当に、ラルバスさんをあそこまで怖がらせた男だとは思えないなぁ……今のメレアを見ていると」
「ん? ラルバス?」
「ああいや、こっちの話さ。……じゃあちょっと、ボクは身支度を整えなきゃいけないから、そろそろお暇するよ。結構化粧に時間がかかるんだよね」
「その様子も見たいね」
「やめてよ、さすがのボクでも恥ずかしいから」
そう苦笑で言って、シーザーはメレアの横を通って給水所から出ていった。
「ぶはあ!」
そのころになって、サルマーンが洗面器から顔をあげる。
「死ぬかと思った」
「なんで?」
「いやだってよ、なんかお前ら話してるじゃん。ここで俺が顔をあげたら話が途切れるかと思ってよ」
「変なところで気を遣いすぎだろ」
「自覚してる」
前髪から水を滴らせながら荒く呼吸をするサルマーンを見て、またメレアは苦笑した。
◆◆◆
その日の午前中は魔王たち全員で芸術都市を見て回った。
本格的に動く前に、せっかくだからそうしておこうとメレアが提案したのだ。
全員起きてから手短に身支度を済ませ、芸術の街に繰り出した。
「飴!」「飴!」
「なに? なんなの? お前らなんでそんなに飴に対する嗅覚が鋭いの?」
「飴は人間の英知の結晶なのです……!」「なのです……!」
「おおげさすぎるだろ……。あとどこでそんな言葉覚えてきやがった……」
「もじゃーが昨日お客さんを褒めるときの見本って」「ぺらぺら喋ってた」
「おまっ、幼女に商売手法叩き込むんじゃねえよ!」
「いやぁ、ついつい。この子たちはそこいらの貴族令嬢が膝をつくほどには可憐ですから、今のうちからいろいろと学んでおけば、食い扶持に困ることはないだろうと――乳母心をですね、発揮してしまいましてね」
「……本当か? お前こいつら売り子に活用しようとか考えてねえか?」
「――――考えてませんよお」
「なんだ今の間……!!」
昨日通ってきた中央通りを足早に越え、さらに二本奥の街路を歩いていた。
〈絵画通り〉と呼ばれる街路だ。
「ちょっとそこの御嬢さん、一枚描かせてはいただけないでしょうか」
と、一団となって歩くメレアたちのところへ、一人の壮年の男が歩み寄って来た。
どうやらその壮年の男はこの絵画通りに数いる『画家』の一人であるらしい。
脇に抱えた白いキャンバスと、腰に回した絵画道具入りのベルトがまっさきにメレアの視線を惹く。
この絵画通りは、こうした画家たちがモデルを探す通りでもあり、彼らが傑作と称する絵画が数多く飾られる通りでもあった。
「どの御嬢さんだろう?」
壮年の画家の問いかけに、まずメレアが首をかしげながら答えた。
一言に御嬢さんと言われても、ここには数人の女性がいる。――約一名はごつい鎧姿だが。
「そこの、メイド衣装の御令嬢です」
すると、壮年の画家は、マリーザの方へ優しげな視線を向けた。
「わたくし、でございますか?」
画家の選択を予想だにしていなかった、とでも言わんばかりの様相で、マリーザが少し目を丸めて問い返す。
「そうです。あなたほどその衣装が似合う方を見たことがございません」
「っ!」
――はは、この画家は殺し文句がうまいな。
メレアは思わず内心で笑った。
画家たちもモデルを頼むことを慣れているのか、その人物の喜ぶ言葉を的確に突いてきている。
これはどちらかといえば商人的な技能だろう。
ときおりシャウに教えられる商人の極意と照らし合わせても、どこか似ている。
とにかく、この場において、殊、彼女に関して、その褒め言葉は絶大な威力を持つだろう。
と、メレアが胸の内で感心していると、そうやって画家にモデルを頼まれたマリーザが、メレアの方をちらちらと窺うように見上げてきた。
いつもの冷然とした雰囲気は残っているが、意外とまんざらでもなさそうだ。
基本的に外部の人間に対して冷然としているマリーザをここまで迷わせるのは、完璧なメイドを目指すという彼女の夢を絶妙に刺激した画家の手柄である。
「いいんじゃない?」
「そうお時間は取らせません、ぜひ一筆、描かせてください」
壮年の画家も、その顔に誠意を乗せて再度頼んできた。
すると、ついにマリーザが観念したように、
「……メ、メレア様がそうおっしゃるなら」
と、すまし顔で言った。
「ありがとうございます。旦那様の寛大なご許可にも、最大の感謝を」
画家が嬉しげな顔で今度はメレアの方を向く。
メレアはとっさに掛けられた言葉に、やや遅れて反応した。
「――あ、旦那様って俺のことか」
「だんなー」「だんなさまー」
隣では双子がその言葉を復唱しながら楽しげに飛び跳ねている。
メレアはようやくはっきりと画家の言葉を認識して、困ったように頭をかいた。
「いざ面と向かって外部の人間に言われると、まだ戸惑うな」
「慣れてくださいまし。あなた様はわたくしの主人なのですから」
画家に案内された椅子に座りにいくマリーザは、すまし顔を浮かべ、ややツンとした声音でメレアに言った。
その言葉に、またメレアは困り顔を浮かべる。
しかし、そうやって言葉を紡いだマリーザが、振り向きざまに頬を緩ませていたことに、主に女性陣だけが気づいていた。
「マリーザ、うれしそう」
「そうだ、ね。きっと、メレアくんのメイドって、ほかの人に認められたのが、うれしかったの、かな?」
シラディスが兜の中からこもった声を鳴らし、アイズがそれに笑みで答えた。
「あの緩んだ顔を素直に主人に見せないあたりが、どうにも面倒な女だがな」
「恥ずかしいー」「はずかしー!」
腕を組んでため息をつくエルマと、そのエルマの周りを二人してくるくると回る双子の声が、最後に小さく響いた。





