94話 「剣魔の一閃」
「……ほかを当たってくれ」
それでもメレアは、手を出したりはしなかった。
商人の言葉のいくつかは、間違いなくメレアの神経を逆撫でしていたが、それのみで激情を暴発させるほど、メレアとて稚児じみてはいない。
そもそも、いちいちこんなことで自分の怒気を制御できないでいたら、先が持たない。
――それに、『奴』との感情の応酬に比べたら、まだ……
一瞬、メレアの脳裏に〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉の顔がちらついた。
あの灰色髪の男と戦場で交わしたやり取りを、メレアは忘れていない。
こんなところで感情をコントロールできないでいたら、いずれその隙をあのしたたかな男に突かれるかもしれない。あの男との戦いも、まだ終わってはいないのだ。
――偽譚は偽譚だ。
商人の紡いだ剣魔の偽譚は、メレアにとって看過しがたいものであったが、もともと謎の多い剣魔がこうして良くも悪くも話の題材にされるのは、メレア自身予想していたことでもあった。
実態が十分に知られていないのだから、ある意味それもしかたのないことなのだ。
――いずれ、しかるべき方法で『真譚』を広めてやる。
それでも、いつかは必ずそんな偽譚が蔓延しないよう自分がなんとかしてやる。
決意するような言葉を内心に浮かべ、メレアはついに、みずからの怒気をなだめきった。
そうして、そのまま商人の身体を優しく押しのけ、前へ進もうとする。
その光景を後ろで見ていた魔王たちは、ようやく詰まっていた息を吐いた。
吐かれた息には、安堵の色が混ざっていた。
が――
「な、ならっ! そちらの御嬢さん――」
商人の方が、愚鈍だった。
彼はすかさず別の、『踏んではいけないもの』を踏んでいった。
商人はメレアに商談を断られるやいなや、焦った様子で押し売りの矛先を変える。
メレアに続いて前へ進もうとしたエルマへ、すがるように駆け寄っていた。
先へ行こうとした魔神の歩が――
止まっていた。
◆◆◆
商人は中途半端に目が利いた。
エルマがマントの下に隠すように剣を帯びていたことを、なまじ利く目で見定めていた。
ゆえに、自分の売ろうとしている剣との比較をさせようと、すがるようにエルマに近づきながら許可もなくマントを翻し――
「ほら! 御嬢さんの剣よりこちらの方が――」
そうやってちらりと見えた『本物の魔剣クリシューラ』を鼻で笑って、また手に持っていた剣を差し出していた。
魔剣クリシューラは、おそろしく整った刀身を持つ剣だった。
それは商人が手にしているような、やたらと装飾だけが華美な剣とはまったく別の次元の剣である。
ただひたすらに斬ることに特化されたその剣には、無駄なものがなかった。
ひとたび剣を抜けば、その刀身のあまりの美しさに魅入られはしても、柄に収められている段階では『華美』ではない。
だから、商人は見誤った。
そして商人最大の失敗は、エルマの前で、そしてなによりメレアの前で、エルマの魔剣を鼻で笑ったことだった。
「……」
メレアは商人の声が鳴った直後に足を止め、まだ振り向かないままで沈黙していた。
かえってメレアがすぐに振り向かなかったことが、仲間たちに並々ならぬ焦りを抱かせた。
メレアは、エルマの魔剣がどういった経緯で作られたかを知っている。
そして、エルマが魔剣にどういった思いを抱いているのかも、知っていた。
剣帝の魔剣は、初代の剣帝――つまりエルマの先祖たるエルイーザ家の始祖が、戦えない者にとっての英雄になるために造り上げた剣である。
暗黒戦争時代の情勢にはメレアもさほどくわしくはないが、しかしそんな中でも彼らが誰かにとっての英雄であろうとしたことは、エルマの話からも十分推測できた。
〈三八天剣旅団〉の話とて、まだ残っている。
彼らは本気でその時代に生き、自分が信じる道を必死で進もうとした。
結果がどうあれ、彼らの思いはその魔剣に積み重なっている。
そしてエルマもまた、そんな彼らの矜持に誇りを持っていた。
〈七帝器〉としての魔剣を生み出してしまったという責を感じつつも、エルマは決して自分の先祖の思いを嫌ってはいない。
彼女もまた、誰かにとっての英雄になろうと日々魔王という名との間で葛藤していた。
魔剣は、彼女のそうしたさまざまな思いの通った――代えがたい存在でもあった。
「いくらだ」
「えっ?」
メレアがようやく商人の後方で振り返って、訊ねていた。
商人は後方からの声に驚きながらも、すぐに振り向いて、
「ぎ、銀貨十枚でございます!」
嬉しげに紡ぐ。
「そうか。――シャウ」
「手持ちはありますよ」
「俺の小遣いから引いておいてくれ」
「今回はサービスしましょう」
「恩に着るよ」
メレアはシャウとの端的な会話を切り上げると、おもむろに商人に一歩近づいた。
対する商人はそわそわとして、やはり嬉しげだ。
すると、メレアは次に、サルマーンの両隣で興味なさ気に事が終わるのを待っていた双子の一方――姉のリィナに声をかけた。
「リィナ、さっき外で拾ってた木の枝、俺にくれるか?」
「えー」
リィナは手にちょっとした木の枝を持っていて、それで石床を擦って遊んでいた。小枝というほどではないが、杖にするには少し心もとない太さだ。
「あとで飴玉を買ってやろう」
「あげるっ!」
リィナはメレアの提案を受けて、すぐにその木の枝を喜々として投げた。
メレアはそれをキャッチし、そのまま枝の太さを確かめるように表面をなでる。
それはまるで、剣の刀身を確認するような仕草でもあった。
「これは、ただの木の枝なんだが――」
と、メレアが、一連の動作を見て首をかしげていた商人に対し、また言葉を紡いだ。
「は、はあ」
急に紡がれた言葉に、商人はきょとんとして呆けた声を返す。
「まあ、手で叩けば今にも折れそうなわけだ」
「そうで、ございますね」
「それで、お前の――いや、あなたの、〈剣魔〉の使ったという魔剣は、名剣だという」
「シン……?」
「ああいや、知らないならいいんだ。そこまで知らないなら、別に」
また首をかしげる商人をよそに、メレアは冷めた視線で商人の手の上の剣を見ていた。
「さぞ切れ味が鋭くて、丈夫なんだろうな」
「はい、その点は間違いなく」
「そうか」
メレアは真顔でうなずいた。
と、メレアはそのうなずきのあと、おもむろに動きを見せた。
ゆっくりと、手に持っていた枝を天に掲げる。
それはまるで――剣を上段に構えるかのような、そんな体勢だった。
「〈剣魔〉の技を使うのは久々だ。いまだにあの御業は俺にとって深遠で、感覚を『降ろす』までに手間と時間が掛かるから、あまり使わないんだが――その程度の『なまくら』相手なら、うまくやれるだろう」
「え?」
「持ってろ。動くなよ」
まるで剣を振り下ろさんばかりの動きを見せたメレアに、商人はぎょっとして一歩下がろうとした。
だが、メレアがそれを言葉で制する。
静かでありながらも、鋭い声だった。
そして――
ぴん、と。
一瞬空気が張りつめた。
喧騒の合間を縫うようにして、おそろしげな『剣気』が、メレアの身体から発せられて街路に走った気がした。
その――直後。
「――」
眼にもとまらぬ速さで、メレアの掲げた木の枝が振り下ろされた。
それは天からまっすぐに落ちてきた雨粒のように、静かに、そしてなめらかに、地に落とされた。
天地を縦に割断した剣閃は――
「あ――」
商人が差しだすように手に持っていた偽の魔剣の刀身を、真っ二つに割断していた。
たかが木の枝による剣閃。
されどそれは、メレアに振り下ろされた瞬間だけ、どんな名剣よりも切れ味の鋭い剣のように変貌していた。
商人は信じられないものでも見るような目で、自分の手元の剣を見ている。
口は開いたままで、唖然としているふうだった。
「教えておいてやる。本当の〈剣魔〉は『剣を選ばなかった』。だから、『剣魔が使った名剣』などというものは存在しない」
そんな商人に対して、メレアが言った。
「剣魔はあらゆるものを剣に見立てた。剣魔が突きつめたのは斬るという事象そのものだ。むしろ彼は良い剣に頼ることを最初は忌避していた。――死んでからは認めてたみたいだがな」
我慢していた怒気を一気に吐き出すかのように、メレアはどんどんと言葉を並べていった。
「そしてもう一つ。剣魔は『無辜の民を惨殺』なんてしていない。たしかに彼は斬れる人間を探してはいたが、けっして『戦いの道にいない者』を手にかけたりはしなかった」
メレアがもっとも看過しがたかったのは、その点にあった。
「彼が〈剣魔〉と呼ばれた理由は、無辜の民を惨殺し、その悪徳性が際立っていたためではない。当時のある悪徳の魔王を、『剣の道を究めるついでに』殺したからだ。……たしかに剣魔は剣に狂っていた。そのうえで、ついで程度に魔王を討ってしまえる異様さと、それ以外に表立った功績がなかったから、魔号が与えられた」
メレアは同時代に生きていたほかの英霊たちの話や、最近サルマーンと話して補完された〈剣魔〉の名をめぐる論争を、頭の中で反芻させる。
「当時の号制度が、達成した偉業の大きさに関係なく、ただ力の序列『のみ』で決まっていたとすれば、彼は〈剣神〉と呼ばれたかもしれないと言われている。本人は――『どうでもいい』と言っていたが」
剣魔はそういう世俗の事柄にあまり興味がなかった。
「……たぶん剣魔は、さっきお前の言ったような偽譚が世に広まったとしても、同じくそれを『どうでもいい』と適当に流しただろう。目の前でそれを語られても、あるいは普通に許してしまったかもしれない。――だがな」
メレアの瞳の中に、断固とした意志の光が輝く。
一度静まりかけた怒気が、再び腹の底で煮えはじめていた。
「たとえ剣魔が許しても、俺はそれを許さない」
剣魔に剣魔なりの矜持があったように、メレアにはメレアの『意地』があった。
メレアがそこまで言ったあと、商人の手から割断された偽の魔剣が落ちた。
それは、からん、と軽い音を立てて石床に跳ねる。
しかしメレアは、そうして落ちた剣を、もはや一瞥すらしなかった。
「ちゃんと代金は払う。だが二度とさっきの売り文句を俺の前で使うな。別に、ほかでも使うなとは言わない。それはあなたの自由だ」
メレアはそこでいったん言葉を切り、一歩、商人へ近づいた。
商人はメレアの前進にびくりと身体を震わせ、唖然としていた表情をほのかな恐怖に歪めはじめる。
対するメレアは、さらにもう一歩商人に近づき、ついに手の届く位置にまで歩み寄った。
そして、優しく商人の肩に手を掛け、言った。
「ああ、でも、間接的にでも俺の耳にさっきの売り文句が入ってきたら――」
耳元を優美になでるように、至極優しく、魔神が囁いた。
「『また商品を買いに来るよ』」
そういって、ついにメレアは踵を返した。
商人は虚ろな光を瞳に宿して、放心したようにその場に固まる。
そうして呆然とする商人の横を、ほかの魔王たちがするりするりと抜けていった。
と、最後に商人の横を通ったシャウが、商人の手を取って代金分の銀貨を握らせると、顔に妖艶な微笑を浮かべて言葉を紡いだ。
「次からは売る相手をちゃんと選んだ方がいいですよ。なんでもかんでも押し売ればいいというものではありません。あと、小奇麗さを演出したいなら、しっかりと足下にも力を入れましょう。靴、くたびれてますよ? ――『あなたの下心が足下に表れている』」
シャウは最後に「それでは、同じ商人としてあなたの商売繁盛を願っております」と付け加えて、仲間たちに続いて行った。
街路に取り残された商人――ラルバスは、ただ呆然として、彼らの背を見ていた。
のちに道化師シーザーがその場に来るまで、彼はずっとそのままだった。





