90話 「そしてかの舞台へ」
夕方。
陽光が茜色に染まりはじめた時分。
芸術都市への出発を控えた遠征組の魔王たちは、その日の仕事を早めに切り上げて、それぞれの自室へと戻っていた。
朝方にこなしておいた荷造りの成果を回収し、『出発』へ備えるためだ。
「メレアの部屋が散らかっているかどうか賭けようぜ、金の亡者」
「いいですね、何を賭けます?」
そんな中で、もっとも早くに身支度を終えていた二人の魔王が、メレアの部屋へ続く階段を昇っていた。
「そうだな。お前が勝ったら――芸術都市から帰ってきたあとの最初の晩餐で特別に良いところばかりを盛り合わせてやる。珍味やらなにやらのな。芸術都市だし、珍しい食材も多そうだから、俺が負けたら見つくろっておいてやるよ」
「それ、本当に食べられるものなんでしょうね……?」
「さすがにそこまで意地悪じゃねえさ。負けには潔いほうだぜ、俺は」
肩を並べて階段を昇る二人は、楽しげに身を揺らしながら、芸術都市から帰ってきたあとのことを話していた。
「ふむ。――では、あなたが勝ったら?」
「そうだな……、来月の小遣いに色をつけてくれれば、文句はないな」
「端的でよろしい。程度は互いに要交渉、ということにしましょうか」
「ああ、互いに無理のない程度にな」
と、ついに二人が、五階への階段を昇りきる。
ものの数歩も歩けば廊下に出て、さらにそこから十数歩歩けばメレアの部屋、という位置だ。
二人はそこでまったく同時に立ち止まり、いくばくかの間思案気にうなった。
そして、片方が先に声をあげる。
先に声をあげたのは、七分袖のシャツを着た軽装の男――サルマーンだった。
「散らかってるに一票」
その言葉のあとに応えるように声をあげたのは、ゆったりとした長袖の衣装を数枚着込んだ紳士様の男――シャウだった。
いくつかの指輪がはめられた手指の一本、その人差し指をぴんと立たせて、もったいぶるようにして言う。
「では、ここは大穴で、散らかっていないに一票」
「よし、決まりだな」
サルマーンはシャウの応答を受けて、にやりと笑いながらうなずいた。
二人はそれを合図に、再び歩を進めはじめる。廊下に踏み入り、絨毯の敷かれた少しほかよりも豪奢な通路を歩いていく。
そうしてある扉の前で立ち止まり、サルマーンが率先してその扉をノックをした。
「おい、いるか、メレア」
すると中から、「いるー」と間延びした声が返ってきて、
「開けるぞー」
言いながら、ゆっくりとサルマーンは扉を開けた。
徐々に開いていく扉の隙間から、部屋の中を見やる。
二人は部屋の中の状態が、自分の願いどおりの状態になっていることを、内心に祈っていた。
そして――
「……ああーっ! くそ! 負けた! なんで今日にかぎって片付いてんだよっ! マリーザはまだ寝てるだろ!? それ知っててこっちに賭けたのに!」
「ハ、ハ、ハ、甘いですね、サルくん。もっと情報には敏感でなければ! 私はすでにリリウム嬢がメレアの部屋でなにをかしていったという情報を入手済みなのですよ!」
「なにをかってなんだよ!」
「冷静に考えて見なさい! 若い男女が男の部屋でっ! なにをか! ――普通なら何かこうあの双子に聞かせられないような何かを予想するかもしれませんがっ、しかし! 一方は辺境の山育ちの化石! 一方はまともな方ですけど最近一番忙しくてお疲れ気味な研究職の女! ……ない! 男女の営みなどまずない! どちらかと言えば出来の悪い弟の様子を見にくる姉のごとく! ――たぶんあの奇天烈なメイドがいないことを心配した彼女がちらっと荷造りの手伝いに来たのではないかと」
「淡々としてるふりしてそこまで考えてたのかよ……! 気持ちわるっ!」
「金が掛かっているのならば私は全力ですからねっ!」
「お前らホント楽しそうだな」
くやしげに頭を抱えるサルマーンと、鼻高々に演説をするシャウを、メレアは部屋の中からうんざりとした様子で眺めながら、そんな声をあげた。
◆◆◆
「というか、リリウムの部屋この下の一個隣だから、シャウの今のテンション高めな演説は聞こえてたかもしれないよ」
「えっ? ……また横腹つねられるんでしょうか、私……」
メレアの言葉に、シャウが急にしゅんとする。
「ちぎられないだけマシだろ」
横からサルマーンが出てきて、シャウの肩を叩いていた。
「いやでも、多少脚色はしましたけど、言ってること自体はかなり事実に即したものですし……」
「それが問題なんだろ」
二人はそのあたりから声をひそめて、二人の間だけで聞こえるように、ぼそりぼそりと言葉を紡ぎはじめた。
「あー……、かえって意識していること自体は事実ですから、よけいに図星で怒るかもしれませんねえ……。彼女、自分で気づきませんからねえ……。学識に優れていることは、必ずしもほかの部分でも明敏であるということの証明になるわけではないようで。文献の細かい部分には気づいても、自分自身の感情には疎いんでしょうねぇ……」
「そんなもんだ」
「俺の部屋で俺をおいて話をするのはやめろ」
メレアは急に内緒話をはじめた二人に首をかしげるばかりであったが、そのまま放っておくと埒が明かないと思って、良いところで声をはさんだ。
メレアの赤い眼にはじとりとした視線が乗っていて、顔には面倒そうな表情が映っていた。
「で、そろそろ時間?」
「そんなところです」
メレアの問いに、シャウが襟を正しながら答える。
「じゃあ、行こうか」
「ええ。――ほかの方々も、今しばらくすれば来るでしょう。先に馬車の確認がてら、外で動いておきましょうか」
「そうだね」
シャウの提案にメレアがついに立ち上がった。座っていたベッドが、きし、と軽い音を鳴らす。
メレアはそのまま、机の上に乗せておいたひも付きの大布袋を背負いあげた。旅荷物だ。
「荷造りはちゃんとできましたか?」
「子どもに訊くような言い方だな」
「実際、世間の常識的にはあなた子どもみたいなものですし。旅をしたことだって――まあ、あの馬鹿みたいな逃避行を除けば――初めてでしょう?」
「さすがになにを持っていけばいいかは考えればわかる――けど」
「けど?」
メレアはそう紡いだ直後、恥ずかしそうに頭をぽりぽりと掻いて、一拍をおいてから続けた。白状するような様相だ。
「……だいたい、リリウムに詰め込まれたよ」
「ああ、なら大丈夫ですね。彼女なら向こうの気候や芸術都市ゆえに起こり得る事態にもだいたいの予測がついているでしょうし。……いやあ、一から私が教えても良かったんですが、面倒ですからね。メレアの周りには優秀な世話焼きが多くて実にすばらしい。私の横の青年も含めて」
「俺を一緒にするんじゃねえよ」
「そうですね、あなたは双子専用ですからね」
「それもちげえよっ!」
また二人がちらほらと皮肉の言い合いをはじめたところで、メレアは苦笑を浮かべながら歩を進めた。
二人の肩を押しながら、部屋の外へと向かう。
二人を部屋の外に押し出して、後ろ手に扉を閉めようとしたところで、ふと、メレアは部屋の中を振り向いた。
近頃でずいぶんと見慣れた自分の部屋が、視界に映る。
それを扉の前からぼうっと見やりながら、最後には鋭い意志の光を目に宿らせ、
「――ちゃんと、帰って来るよ、ここに」
一人、そんなことをつぶやいた。
メレアは最後に、ゆっくりと扉を閉めた。
◆◆◆
三人は一足先に星樹城の外に出て、城の前の大通りにシャウが待機させていた馬車の点検に移った。
今回の馬車は、前の逃避行でシャウが通りすがりの商人から買い取った馬車よりも豪華で、なにより丈夫そうであった。
馬車を引くと思われる馬も、ときおり街中で見る馬より身体が大きく見える。
筋骨もたくましく、また、この時期は冷えるという芸術都市ヴァージリアの気候に耐えるためか、脂肪もそれなりに乗っているようだった。
「逃げるわけではありませんからね。今回はこのあたりがちょうどいいでしょう。さすがにリリウム嬢の炎馬と比べると馬力やもろもろは劣るかもしれませんが、この馬たちはリリウム嬢の体力を奪ったりはしません。それに、十分に頭が良く、なにより丈夫だ。帰りもなんなく私たちを連れて帰ってきてくれるでしょう」
「そっか」
メレアは、縄で星樹城の門脇につながれていた馬たちに近寄って、その首筋を優しくなでた。
すると馬が嬉しげに身を揺らし、鼻先でメレアの頬を押し返す。
「大事にしないとな」
メレアはそんな馬の行動を受けて笑みを浮かべながら、そう紡いだ。
「ええ。――この馬たちは〈魔王連合〉名義で買いましたから、ちゃんと帰ってきた暁には厩を作って世話をしてやらねば。まあ、わざわざ作らずとも、ハーシム陛下から借りることもできるでしょうけど」
馬とたわむれるメレアを見ながら、シャウも微笑を浮かべている。
「でも、せっかくなら特製のを新しく作ってやりたいところでもあるなあ」
「そうですねえ」
「ま、そのあたりは芸術都市からの帰り道にでも考えようか」
「ふむ。そうしましょうか」
と、そのあたりで、二人は互いの話中に『帰ってくる』という言葉が多く紛れ込んでいたことに、なんともなく気づいた。
そのことに気づいたメレアは、ふと微笑を苦笑にかえて、内心に紡ぐ。
――そう、まずは帰ってくることだ。
何があるかはわからない。
何もないかもしれないし、何か意図せぬことが起こるかもしれない。
しかし重要なのは、しっかりと帰ってくることである。
自分たちの居場所は今ここにある。
仲間たちが、この城で待っている。
長である自分が、彼らをおいて消えるわけにはいかない。
常にみなの寄り掛かれる支柱であり続けようとする意気は、メレアの中にしっかりと輝いていた。
「それにしても、馬もながら馬車も豪華だなぁ。これ、変に目だったりしない?」
「しませんよ。ええ、まったく」
メレアのふとした疑問に対し、シャウは間髪入れずに答えていた。
気づけばシャウは屈みこんで、馬車の底板の接着を確認している。
「これから向かうのがこの時期の芸術都市ですから、質素な馬車だとかえって目立ちます」
芸術都市の、いわゆる最盛期には、前にもシャウが言っていたとおり、周辺の貴族や成金商人、はたまた他大陸からの有力者など、多くの富める者が集まってくる。
豪華客船で来る者。
気取った馬車で来る者。
ときたま有翼獅子に跨って来るものまで、その様相はさまざまだ。
そして、そんなシーズンにヴァージリアの都市門をくぐる者たちは、えてして豪華な身なりをしていた。
そうなると、かえって貧相な身なりや馬車でヴァージリアへ向かえば、逆に目立つことになる。
派手すぎるのも問題だが、
「適度に豪華であることが、なにごともない旅には必要なのです」
そういうわけだった。
シャウは当然そのことを最初から知っていて、行きの支度を任されたときにはすでにこの絵を頭の中に想像していた。
「とはいえ、帰りはどうなるかわかりませんから、もしあまりよろしくない場面に遭遇したときは、馬車は置いていきます。馬はヴァージリアにいる商友にでも任せましょう」
シャウは後輪の点検に移りながら、メレアに言う。
メレアはシャウの真似をして、前輪の方を屈んで見ているところだった。
「そのときはノエルに乗ってすっ飛んで帰るってことだな」
「そうです。――いや、それはそれで別の意味で生きて帰れるか不安になるんですけど」
「え? 楽しいよ? 地竜の跳躍を体感するのも」
「普通の人間は振り落されて死にます……!」
シャウがぶるりと身を震わせた。
怪訝な視線でメレアを見ている。
「大丈夫大丈夫、そのあたりはノエルに調節させるから。――最悪落ちても俺が拾うって」
「最後にあなたが変なことを付け加えなければ私はもっと安心できました。……ちゃんと拾ってくださいよ!?」
「おう、任せろ。大丈夫、大丈夫――だいじょうぶ」
「この男最後棒読みでしたね……!!」
メレアが満面の笑みを浮かべて手を振っているが、シャウにとってはまったく安心できない笑みに見えた。
「……はあ。ともあれ、最近また一段と身体が大きくなったこともありますし、人数もさほど多くない今なら、ノエルの背に全員乗ることもできるでしょう。――もし〈魅惑の女王〉が魔王で、彼女が私たちに救いの手を求めたときは、彼女もその背に乗るかもしれませんが」
「一人二人、増えても問題ないよ」
「そうですね」
「でももし彼女とシャウが同時に落ちたら、俺はシャウを――うっ、あんなことになるなんて……」
「ここぞとばかりに弱み握って攻めて来てますね、あなた」
「財布の紐を握られている反動だ。弱みを探られるのは持つ者の運命なのだ。頑張れ」
「まずご自分の言動を振り返った方がいいですよ」
そうこうしているうちに、馬車の点検が終わる。
すると、もう一台の方の馬車を一人で点検していたサルマーンが、凝りをほぐすように肩をまわしながら、二人に歩み寄ってきた。
「こっちは大丈夫だ。寝台車の方も問題ない」
「そうですか、お疲れ様です」
「まあ、できれば寝台車は使いたくねえが、行きずりにちょうどいい宿場がねえときはおとなしくこれ使った方がいいな」
「ですねえ。逃げるときほど急いでいるわけではありませんが、かといってゆっくりする意味もありませんし。体調や状況に合わせて、最善を探しつつ行きましょう」
「ああ。――さて、そろそろ女性陣が来る頃かね」
今度は筋を伸ばすように背中を反りながら、サルマーンが星樹城の城門の方を見た。
街路に面している星樹城の窓辺からは、ぽつりぽつりと光が漏れている。
日はほとんど沈みかけで、街の街燈にも火が灯りはじめていた。
紺色の空気の中を、煌びやかな光が踊る。
メレアも立ち上がって、サルマーンの横に立ちながら、巨大な星樹城を見上げていた。
「こっちはこっちで、帰ってくる頃にはなにか収穫があるといいね」
「それが良い知らせであることを祈るぜ」
「ま、悪い知らせは帰ってくる前に芸術都市に届くさ」
メレアが苦笑して言う。
「んだな。つっても、ここはレミューゼだからな。今のところ味方は俺らだけじゃねえ」
「そう、なんだかんだと言っても、ハーシムがレミューゼにいるというのは大きい援護だ。ハーシムにも今日から何日か城を外すということはちゃんと伝えてある」
「お、長らしいことしてるじゃねえか」
サルマーンが髪と同じ砂色の眼を見開いて、楽しげにメレアを肘で小突いた。
「俺を『主』だとなんだとのたまう連中がたくさんいるんでな。乗せられてるだけさ」
冗談を言うように、メレアが鼻で笑って返す。
「言うようになったじゃねえか」
「もともと皮肉は結構得意なんだ。――二十一人の魔王と出会って余計にひどくなった節もあるけれど」
「これからもっとその魔王が増えるかもしれねえけどな」
「……うん」
メレアはそのことに思いを馳せた。
「嬉しいような、切ないような。そればかりはきっと、いつまでも区切りをつけられない部分なのかもしれない」
「……そうだな」
二人はそこで言葉を切った。
そしてまた、同時に星樹城を見上げた。
ふと、街路に面している星樹城の窓辺から、何人かの魔王がひょっこりと顔を出して手を振ってきていた。
「あいつらも自分の仕事しながら、意外とよく周りを見てるよな」
サルマーンが笑って、彼らに手を振り返す。
メレアもそれに倣って、手を振った。
旅先から帰ってきたとき、またこの光景を見られるだろう。
メレアはそのことを確信していた。
そうなるべく、みずからの身に宿った力と、そして研鑽によって積んだ力を使うべきなのだと、再度、胸に浮かべていた。
―――
――
―
終:【麗しの舞台へ】
始:【魔王歌劇の幕が上がる】
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