82話 「サイサリス教国」
「いたって普通の形容にも思えますし、やや穿った視点から見てみると――まあ、気になりますよね」
「……そうか、こういうこともあるのか。必ずしも号そのものが広まるわけではないし、かといって完全に無視してしまうほど的外れでもない」
「厄介ですが、私たちが相手にしているものは人の思考と言葉の産物でもありますからね。芸術都市の人間が華美な言葉を好むことも含め、今回は特に判断がつけたがいというところで」
メレアの困惑を含んだ言葉に、シャウが肩をすくめて答えていた。
メレアはそれから少しの間、視線を目の前の空になった料理皿に落として、沈黙を浮かべた。
しばらくそうやって考え込む仕草を見せたあと、ようやく顔をあげる。
「……ちなみに、それに付随する情報はなにかある?」
シャウはメレアの言葉を受け、今度は頭の中の情報を漁るように視線を左右に動かした。
「そうですねぇ……大々的、かつ明確な情報は――、あー……」
「なにかあった?」
間延びした声があがって、メレアが首をかしげる。
「いえ、これはさっきの情報よりもっと憶測じみているので、やや口に乗せるのが忌避されるのですが」
「いいよ、教えてくれ。あくまで一情報として。それの確度や正否を判別するのには、当然俺や〈知識〉の面々も手伝うから」
「――それならば」
シャウとしては、自分が憶測じみた情報を話すことで、ほかの魔王の思考に一定の方向性をもたせてしまうことをおそれていた。
仮にそれが憶測であっても、信じやすい者ならばそのまま信じてしまうことがあるかもしれない。
シャウは職業柄そういった憶測じみた情報に親しみ深く、またそういうものに対する疑り深さという点でも声を大にして言ってしまうくらいには性根にへばりついているが、ほかの者がそうだとはかぎらない。
そしてそういう懸念をメレアもまた胸に抱いていた。
ゆえに、シャウの言いよどみからそのあたりの意図を察し、あえて最初に『信じるか否かは吟味の上』と紡いだ。
その言葉が、ほかの魔王たちに対する情報への線引きを明確にさせた。
シャウはそういったメレアの細かい気遣いに気づいて、内心に、
――意外とこういうところでもやりますね。……いや、もしかしたら素でしょうか。
と感心を浮かべる。
それが意図したものか素で出たものか自分に判断をつけさせない点にも、少し驚いていた。
――私にそこの真偽をつかませないところがまた、きっと私の上司としてふさわしいのでしょう。
シャウからしてみれば、その見えざるメレアの才覚は好むところでもあった。
若くして商会の頭取であるからよく勘違いされるが、シャウは決して誰かの下で働くことを嫌っているわけではない。
ただ、自分の手のひらの上から脱出できないような人間に、仕えるつもりもなかった。
「では、これもまた噂ですが――」
あらためて現状を振り返って楽しさを覚えはじめたシャウだったが、すぐに思考を切り替える。
今優先すべきは求められた情報の提示だ。
「ヴァージリアへ向かう貴族たちにまぎれて、〈サイサリス教国〉の狂信者どもが遠征に出向いている、と。そんな噂を商人筋から聞きました」
「サイサリスって――」
シャウの言葉を受けたメレアは、すぐにその名を脳裏に反芻させる。
どこかで聞いたことがある名前だった。
「……ああ」
数瞬の後に、ぼんやりと思い出す。
たしか、あの霊山からの脱出劇のときだ。
「リンドホルム霊山で話し合っているときにちらと言いましたが、私が霊山に登るときに追われていた国家です。サイサリス教の教皇を頂点に据えた都市国家ですよ」
シャウの口ぶりは容易にサイサリス教に対する嫌悪を感じさせた。
メレアもそれを正確に読み取ってから、続けて訊ねる。
「ちなみに、サイサリス教って?」
「どこにでもありそうな一神教です。結構昔からありますが、最近はやや嫌な変容を遂げている節もありますね」
「というと?」
「一部、教皇と神が同一視されるようになってきているんですよ」
シャウは失笑を浮かべて続けた。
「サイサリス教は、かつての戦乱時代に、人々の倫理を保つのに非常に良い働きをしました。教義はわりと寛容的で、そのおかげか他宗教を攻撃することもほとんどありませんでした。なので、地域性と結びつきすぎて変に教義が分化することも少なく、どれかといえば、『信じるものがなくなったのならこれを頼りにしなさい』というような、万人に対する説法のようなものでした」
「ふむ」
「たしかに教義性が強いものと比べるといささか支えとしての力強さには欠けたかもしれませんが、時代が時代でしたので、そういう当たり前の倫理を忘れさせないという点で、かなり役に立ったでしょう。実際、サイサリス教がなければ歴史が変わっていたと思います」
その点に関して告げるシャウは、一転して真面目な表情を浮かべていた。
「そんなにか。俺はあまりなじみがないけど、人の心の作用としてそういうものが生まれるというのはわかる気がするよ」
「はは。まあ、『昔のこんな偉大な人間がこんなことを言っていた。だからその言葉を信じてみよう』というのとさほど変わりませんからね。その点は人の自由です。しかし――」
シャウが話を戻す。
「さきほども言いましたが、今のサイサリス教はやや嫌なものに変わりつつある。そもそも〈サイサリス教国〉などというものが生まれたこと自体、当初のサイサリス教からは考えられない。あれは土着しない説法です。ひとところに足をつけて、聖地のごとき定住国家をつくるのは――間違っている」
メレアはシャウの言葉の内面に、珍しく熱いものを感じ取っていた。
シャウが今のサイサリス教に嫌悪を表す理由と、なにか結びつきがあるのかもしれない。そう思った。
「教国を作るときに信者たちは反対しなかったの?」
「いくらかはしたでしょう。しかし、教国を建国した時期が絶妙だった。――『転換期』ですよ。あの、悪徳の魔王と英雄の動乱が終わろうとした、ほんの一時の平和的な時代。あの時代に、誰かがそれをやった」
メレアは久々にあの転換期の話題を耳にした気がした。
かつてはフランダーからよく聞いた話だ。
しかし最近は、こっちはこっちで今の時代に思考を割くのに精いっぱいで、なかなかそこに思いを巡らせることはなかった気がする。
「時代が平和であれば、相対的にサイサリス教に頼る者は少なくなりますから、そのまま平和な時代が進むと思った者たちは『変なことをしているやつがいる』程度にしか思わなかったでしょう。……教義の拘束が薄いということもありました。教義の拘束が薄いということは、横の繋がりが薄いとも言えます」
「どちらかといえば、勝手にやれ、って感じか」
メレアが腕を組みながら鼻で息を吐いた。
「そうですね。もともと存在自体が消極的、消去法的に見られるものでしたから。時代が戦乱の時代のままであったら、清貧なサイサリス教が国家のどろどろとした思惑に穢されるのを嫌がる者も多くいたでしょう。それこそ、今の時代なんかは」
「だけど、まだそのサイサリス教国が存続しているということは――」
「ええ、あの土台をうまく利用して、新生とも言えるサイサリス教を作っていった者がいるのです。かつての建国者が今の教皇である、ということは時間的にありえないにしても、建国した者の末裔か、それに近似する者が今の実権を握っているというのもまた、ありえそうな話ですね」
シャウは苦笑を浮かべながら『よくある、世襲の話です』と付け加えた。
メレアはその言葉を受けて、一旦自分の頭の中で情報を整理する。
そうやってしばらくを過ごして、今度はやや苦々しげな表情を浮かべて言った。
「複雑だな。なまじ名前が同じだからどうとも。まるで魔王の名が都合の良い意味の変遷を経て継がれるのと同じようだ」
「そう、ですね」
「いろんなことが起こったのは、やっぱりあの転換期か。……しかし、よくもまあうまいことやったもんだな。その教皇ってのはさっきシャウが言ったとおり、サイサリス教の神と同格に昇ろうとしているんだろう?」
「ええ。さぞ厳重に守られていることでしょう。教皇本人も表にはほとんど出て来ませんから、かなり防御が硬いです。もし仮にそうやって身を守るためにサイサリス教国を作ったのだとしたら、その一族はおそろしく先見の明があったのだと思います――」
そう紡いだ、直後だった。
そこまでを聞いたメレアが、口を半開きにして固まっていた。
急になにかに勘付いて、急いで頭の中で情報を整理しているように見えた。
「――待て。先見の明?」
引っかかった。
メレアはシャウの説明を信用したうえで、改めてその情報を反芻させる。
また、シャウの方も同じく固まっていた。
二人が同時に、なにかに勘付いたようだった。
「もし本当におそろしく先見の明があったのだとして、かつシャウの言うとおり身を守るために教国を作ったのだとしたら――」
二人は頭に浮かべた『それ』が憶測の域を出ないことも自覚していた。
されど、その全体を見直してみると、やはり引っかかるところがあった。
憶測だ、憶測だが――
「その先見の明で魔王が狩られる時代の到来を予感した当時の英雄か魔王が、その身を守るためにサイサリス教国を建国した、と考えられなくもないな。……いや、考えすぎか」
「いえ、奇遇なことに、私も今そう考えました――」
シャウも真面目な顔で顎に手をやって考え込んでいる。
「――ですが、『かなり都合良く解釈した上で』、という注意書きは付け加えておいたほうがよさそうですね」
最終的にシャウはその言葉を付け加えた。
「そうだな。結果的に今の時代が魔王を狩る時代だから、そういうふうに見えているだけかもしれない。単純に、私腹をこやしたかった、とかもあり得るわけで」
メレアもうなずいて答える。
「ええ。しかし、芸術都市への道すがらに彼らを見た、という情報もこうしてありますから、いずれはしっかりと調べる必要があるかもしれません」
「ていうかよくその商人もサイサリス教国の信者だってことがわかったよね」
「新生サイサリス教にどっぷりつかっている教国の狂信者にかぎり、わかりやすい目印があるのですよ」
「へえ? それは?」
シャウはおもむろに自分の首に指を差した。
「首筋に『印』が入っているんです。人間の『眼』を象徴する印です。だいぶ装飾がかっていますけどね」
「なるほど。なら、芸術都市に向かうに当たってはそのあたりも頭に入れておこうか」
「……というか、いつの間にか芸術都市に行くってことになってますけど、メレアさりげなくうずうずして勝手に決めてません?」
「えっ!?」
メレアはぎくりと肩をあげて身体を強張らせる。
その左隣ではマリーザがジトりとした視線をメレアに向けていた。
「メレア様? 内心で『このまま芸術都市に行ってあの紙束から一時的にでも逃れよう』とか考えておいでですか?」
「そ、そんなことないさぁ」
「本当に?」
「ほ、ホントホント。――で、でもさ? みんな忙しいし、せっかく情報入ってきたし、ほかにそれらしい情報もなさそうだし、さほど遠くなさそうだし、そろそろ〈剣〉兼魔王連合の長として実働した方がいいんじゃないかなあ! ……なんて?」
びくびくと窺いたてるようにマリーザをちらっと見たメレアは、しばらくの間マリーザの値踏みするような視線にさらされることになった。
と、マリーザは一度メレアから視線を外して、晩餐室に集まる魔王たちをぐるりと見る。
その眼には『ほかになにかあれば言いなさい』というような、促しの意味が込められていた。
が、その眼に対して声は返ってこなかった。
つまるところ、今有力な筋はそれくらいらしい。
そんな答えを確認したマリーザは、ようやく整然とした佇まいを崩して、小さくため息を吐きながら再度メレアに視線を向けた。
「はあ。……わかりました。では少し様子を見てまいりましょう。ただし、不穏な情報もありますから、安全を期すために複数人でまいります。わたくしは当然ついていきます。そうすれば道中で勉強ができますからね」
「あ、はい……」
「残りの面々は――まあ、そこはメレア様が長ですから、メレア様が選んでください。一旦メレア様のご意見を窺った上で、修正個所があればその都度指摘します」
「あれ? 俺長だよね? なんか働きが下っ端的じゃね?」
「メレア様はご自分の決定に常にうなずくだけの側近をお求めですか?」
「ごめんなさい助言くださいまだちょっとこういうの一人で決めるの怖いです」
「はい、喜んで」
マリーザは妖艶な笑みを浮かべて答えた。
そうして彼女は続く動きでメレアの左手を取って、
「しかし、いざというときは、あなたの御心にただ従いましょう。わたくしは、あなたが死ねと仰るのなら、死ぬ覚悟があります。加えて、あなたが命を落としそうになったときは、命令がなくとも、勝手に動かせていただきます」
「そんなときは来ないし、そんな命令を下すことはない。あと、俺をかばって死ぬのも許さない」
一転して断固とした言葉を紡いだメレアを、マリーザはじっと見つめていた。
メレアの眼は、煌々とした意志の光を灯しながら、ひたすらまっすぐにマリーザの眼を射抜いていた。
有無を言わせぬ迫力が、そこにはあった。
「ふふ――冗談でございます」
マリーザはそういって、しばらくしてから目を伏せた。
そうしてメレアの手から自分の手を離し、ゆっくりと立ちあがる。
「それでは、今日の晩餐会はこれで終わりでよろしいですか?」
「うん、いいよ。芸術都市の件については、このあと考えて早めに知らせる」
「御意のままに。――はい、では各自食器を片づけて持ち場に戻るように。〈剣〉所属の方々は芸術都市への遠征に帯同することになるかもしれませんから、しっかりと準備をしておいてください」
マリーザがぱんぱん、と二度手を叩き、軽い音を晩餐室に響かせた。
その音を機に、魔王たちが食器を持って立ち上がる。
「はは、いつも思うけど、こうやって見ると普通の大家族みたいだな。場所が場所だけに雑事は召使が出てきてぱぱっとこなすのかと思いきや、結局最後は自分で片づけってあたりが」
「メレア様のものはわたくしがやってもいいのですが、あなたはあまりにも家事が出来なさすぎるので、その訓練も兼ねています」
「……ちなみに俺、皿何枚割ったっけ……」
「七日で十枚です。徐々に少なくなってきてますけど、初日がひどいものでしたね。親指で皿をぶち抜くことがなくなった分だいぶマシでしょう」
「一枚ごとに俺の小遣いが……」
「ご抗議は〈財布〉の方へ」
「完全に俺に非があるから抗議なんてできないんだよねっ!」
メレアが打ちのめされたように椅子にがっくりと座り、天井を仰いだ。
マリーザはその姿を見ながら小さく息を吐いて、
「今日も見て差し上げますから、また練習しましょう」
「ぜひ頼むよ……」
しかし最後には、まるで優しく弟を見守る姉のように、柔和な視線をメレアに送っていた。





