78話 「蔵書室の少女たち」
「アイズー、そっちのおっきい本とってー」
「うん、わかった、よ」
メレアがマリーザの監視網をかいくぐって見事に星樹城へと戻る十数分前。
星樹城二階の一室に、涼やかな声が響いていた。
答える声もまた、静水の水面に一滴の雫を落としたかのような、澄んだ音色を湛えている。
前者を力強く空に昇る笛の音だとすれば、後者は静かな森に響くハープの音のようだった。
そんな声の持ち主たちは、その日もメレアの執務室から何部屋か離れた場所にある蔵書室の中で、いくつもの本に目を通していた。
彼女たちの傍らには読み終えた蔵書が塔のごとく積み上げられていて、それらが身体の周りをめぐるように立地しているさまはさながら城壁のようであった。
「リリウム、これ?」
と、その城壁をうまく避けながら、蔵書室にいくつも設置されている四足の長テーブルに駆け寄った華奢な身体の少女――アイズが、綺麗な銀の眼を依頼人の方へ向けながら再び声をあげていた。
アイズは、机の上においてあった大きめの本を両手で胸元に抱えて、依頼人に見えるようにくるりと身体を回していた。
それを見た依頼人は、
「そう! それそれ!」
ビ、と片手の親指をあげて、嬉しげにアイズに見せつけていた。
「いやぁ、なんか我ながら適当に『あれ』とか『そっち』とか言っても、アイズは正確にあたしの思いをくみ取ってくれるからすごく助かるわぁ」
「ふふ、このへんに大きい本、これくらいしかなかったからね。上から見ると、すぐ、わかるよ」
アイズはころころと笑って、依頼人――リリウムの方へと歩み寄った。
辺りに積み上げられた本の数々を崩さないように注意しながら、リリウムの隣にようやくたどりつき、胸元に抱えていた大きな本を彼女の傍らにそっと置く。
その動作のひとつひとつに、リリウムを気遣うような細やかな配慮が見え隠れしていた。
「ああー、一家に一人アイズが欲しいー。……いや、あたしたち合わせて一家みたいなもんだから、一室に一人アイズが欲しいー、に言いかえるわね」
そんなアイズの心遣いにリリウムも気づいていて、ふと手元の本のページから視線を外すと、隣に寄ってきたアイズの不意をつくようにその華奢な身体に抱きついた。
「えっ? えっ!?」
そのまま頬ずりをしてくるリリウムにアイズは目を丸めて驚くが、決して払いのけたりはしなかった。
アイズの頬にあたるリリウムの肌も柔らかくすべすべとしていて、実はアイズの方も少し心地よさを感じていた。
また、リリウムが抱きついてきている側から彼女の体温が伝わってきていて、その温かさがアイズに奇妙な嬉しさを覚えさせていた。
「あー……、抱き枕にしたい。ていうかここ寒い。命炎で暖を取ろうとするとサルマーンが怒るし」
「ここ、燃えるもの、いっぱいだからね」
リリウムは蔵書室の天井に向けて、ホ、とため息にも似た息を飛ばしていた。
「はあ……。それにしても、あいつも黙って立ってれば顔とか髪色的に貴公子然としてなくもないんだけど、いっつもなんだかんだと一番ほかの魔王のことに気を回して、そのうえ口うるさくするところを見てると、なんかお母さんみたいよね。――男だけど」
「リィナとミィナも、いつもべったりだもんね」
「あの双子ねぇ。いまだに時々どっちがどっちだかわからなくなるのよね」
「サルくんは、わかる、らしいよ」
「なにそれ、脅威だわ……、謎の母性発揮しまくりね」
「ふふ、本人に言ったら、怒るけどね」
リリウムがそんなことを言いつつ、いまだにアイズに抱きつきながら、ふと周囲に視線を巡らせた。
蔵書室も一応は星樹城の一室、ということにはなっているが、どちらかといえばそこは人の住む部屋というより大ホールのような括りに分けられる場所だった。
部屋の中は半吹き抜けとも言える三階層構造になっていて、螺旋型の階段が外縁に張り巡らされている。当然、そんなふうに天井が吹き抜けていることからわかるとおり、大胆に上階へと空間がぶち抜かれている連結構造でもあった。
そんな部屋の一階から二階、さらに三階にいたるまで、びっしりと本が収納されている。螺旋階段の壁沿いにも適度に本が詰め込まれているのを見ると、なかなかの蔵書の数だ。
一階部分にはさきほどアイズが立ち寄った四足の長テーブルがいくつも並んでいて、多くの人がその周りに座れるように椅子も完備されていた。
こうして二人だけで本を漁っていると、逆に広すぎるせいで閑散とした印象を受けるが、外に情報収集に出かけている〈魔王の知識〉の魔王たちが戻ってくると、なかなか賑わったりもする。
「ていうか燭台結構おいてあるんだから、別に命炎使ってもいいじゃない」
「普通の燭台の火は、勝手に歩いたり、しないからね」
「むう……」
螺旋階段の中腹や、一階部分の要所要所に、派手な装飾の施された三本立ての燭台が備え付けられている。
長テーブルの上にも複数の枝付き燭台がそれぞれ置かれていて、今も仄かな光を提供してくれていた。
そんな中でもっとも目につくのは、
「一番はアレよね」
リリウムが見上げた先。
部屋の三階のさらに上、その天井に、さぞお高いであろうと二人が予想せずにいられないような、クリスタルの散りばめられた吊り天井式の大型燭台が吊られていた。
「最初、あのシャンデリアを金の亡者が売ろうとして大問題になったわよね」
「シャウくん、高そうなものに、目がないからね」
「別に『くん』なんかつけなくてもいいのに」
「うんうん、ああ見えて、シャウくん、結構若いし――あと、ときどきメレアくんと同じで、子どもみたいに、なるし?」
アイズもやや自分で首をかしげながらではあるが、その言葉自体は別段お世辞というわけでもなかった。
メレアが新しいものを見て目を輝かせるときと同じように、シャウもまた金目のものを見たときに似たような目の輝きを見せることがある。
――い、一緒にしない方がいいかな……?
ともあれ、いつの間にか敬称が『さん』から『くん』へと自然に移行していた。
いろいろな経験をともにしてきて、どことない距離の縮まりを無意識のうちに感じとっているからだろうか。
ついでに言えば、シャウはシャウで、普段は紳士然として大人びて見えるが、実際の年齢はさほど離れていないようにも思えた。
直接聞いたことはないが、多くてもメレアより三つ四つ上、という程度だろう。
しかし、その商人として経てきた苛烈な交渉戦の数々が、そんなちょっとした年齢の差からは考えられないような、あの不思議な余裕を作り出しているのだろうとも思う。
また同時に、そんな商人の世界の業に長い間触れてもなお、嬉々としてその世界に留まろうとするあたりに、彼自身の業の深さも表れている気がした。
おそらく魔王たちの誰もがその点に疑いを持っていないだろう。
二人にはそんな確信があった。
「うーん。……たしかに、金目の話になるとたまに狼狽えることもあるわね。シャンデリア見上げてたときもよだれ垂れてたし。……いや、それはちょっと違うか。ていうかホントやばいやつ多すぎるわ、この集団」
リリウムは言いながら、ようやくアイズから離れて、「ありがと、温かかったわ」と悪戯気な少女のように笑った。
そうしてまた手元の本に視線を移し、自分には真似できないような速度でページを読み進めていくリリウムのことも、またアイズは――
――すごい、な。
そう思っていた。
彼女は彼女で、ある分野において特に優れた力を持っていることを、アイズは疑わなかった。
と、そうやってアイズも自分の役目に戻ろうとしたところで、不意に蔵書室の入口の方からギギ、と扉が軋む音が聞こえた。
星樹城の壁は白石造だが、扉は星樹に合わせて木造で作られている。
おそらく、そんな少し年季の入った木造の扉が、誰かに押されて接合部を鳴らしたのだろう。
「ふう……、我ながら潜入術がうまくなってきた感があるな。……あれ? これもしかして新手の訓練? 俺またマリーザの手のひらの上で踊らされてる……?」
アイズの耳を、聞き慣れた声がつついた。
不思議と心地よい音色を伴っている、男の声だ。
すると、同じくその声を捉えたであろうリリウムが、直後にため息をついて、手元の本をぱたりと閉じていた。
『面倒なのがきた』とでも言いたげな仕草のようにも見えるが、アイズにはそのリリウムの顔がどことなく楽しげなものにも見えていた。
「来たわね、好奇心の獣が」
「今日も、質問攻めだね、リリウム」
「まったくもって、これだから田舎者は困るのよ」
リリウムがやはり少し楽しげな色を含ませて鼻で笑いながら、その紅の長髪を耳にかけ直して蔵書室の入口の方を見た。
「お、やあやあ、やってるかね、〈知識〉の諸君」
「あんたそういう演技慣れないんだったらやめなさい。三文芝居の匂いが鼻につくわよ?」
「バカめ、最初からうまくできるやつなどいるか。俺は要領の悪さに関しては自慢できるくらいだから、その程度の皮肉じゃ心は折れないっ!」
「あんたは尖りすぎなのよ。あんたが要領悪いとか言ったら〈青薔薇の学園〉の講師陣はみんな暴動起こすわよ」
「『不公平を是正せよ!』――『できれば勉強しなくて済むように!』」
「それは個人の願望詰まりすぎ」
入口の方から片手をあげて演技ぶりながらやってくるメレアと、そのメレアに皮肉っぽい笑みを返しながら弾むように声を返すリリウムを見て、アイズはまた笑った。