74話 「魔王城の日常」
「知ってるか、人の頭はパンクすることがある」
「大丈夫です、メレア様の頭はかなり強靭です」
「たしかに俺はかなり無茶な方法で術式関連の知識を頭に叩き込んだ。だけど、人には向き不向きがあるんだ。どうやら俺は、そういう国の情勢とか国の特産とか地理とかなんかこうすごく勉強っぽいアレが苦手なようだ」
「メレア様はこれから世界を支配する魔王になるのですから、全部覚えないとダメです」
「このメイドはそもそもなにかを勘違いしている……!」
星樹城二階。
通称〈魔王城〉の二階にある執務用の一室で、その日メレア=メアは抗議の声をあげていた。
あの一階の毒々しい色合いとはまったく別の、白石を中心とした実に星樹城らしい内装の部屋の中で、同じく白を基調とした机を前にしながら、メレアは嘆かずにはいられなかった。
「ち、ちなみに、ほかのみんなは……?」
「それぞれ与えられた仕事の方へ。そういえば先日交易に発った金の亡者が今日あたりに帰ってくると鳥で伝えて来ました。植物紙に金の匂いがこびりついていたので破り捨てておきました」
「俺に渡すという選択肢は――」
「だめです、うさんくさい匂いがメレア様にもついてしまいます」
「マリーザは本当にシャウに対しての対応がブレないな……」
メレアは白い机に刻まれた金色の紋様を指で悲しげになぞりながら、隣に立つマリーザをちらちらと見やっていた。
赤い瞳を少し潤ませて、懇願するような色を表情に加えている。
対するマリーザは淡々としてメレアの問いに答えるばかりだが、シャウの名前――仇名――を出すときには例によって多少眉根が寄っていた。
そんなマリーザに向けて、またメレアが言葉を投げかけた。
「まあ、それはともかく……そろそろ俺も外に出たいなぁ、……なんて?」
小首をかしげてややぎこちない微笑を作りながら言う。
しかし、
「はあ、そうでございますか」
ぴしりと背筋を伸ばし、一見華奢にすら見える細身の麗姿を呈するメイドは、その冷たい美貌に乗った氷のような表情をまるで崩さず、淡々として言い放っていた。――正確には背中の方でもどかしそうに両手の指をくねらせていたが、そのことには誰も気づかなかった。
「最近マリーザが俺に厳しい」
「愛の鞭でございます」
今でも基本的にマリーザはメレアに甘かったが、それでも徐々にメレアとの距離感をつかんでくると、彼女の持つ『完璧なメイド』としての矜持と甘さが競合することもあって、こうして『必要な業務』を行っている際はそれなりに厳しくなることもあった。
「主人のためを思うからこそ――でございます」
今のように、冷然とした表情と悶えるような手でその内心の葛藤を表すことはままあったが、今のところはバレていない。少なくとも本人はそう思っていた。
「このへんの情報って全部俺が覚えてないとだめ……? マリーザは覚えてるんでしょ?」
と、メレアが諦めて愛想笑いを取り去り、今度は少しうんざりとした表情を浮かべながら机の上に指を差した。
その指先、机の上に広がっていたのは、無尽蔵とすら思える量の紙片である。
黒いインクで描かれている文字は、東大陸のみならず他大陸の諸国に関する情報を多数形容していて、いっそのことメレアには術式より難解なものに見えた。
物語風にアレンジしてくれるなどの工夫が凝らされているならまだしも、ただ情報を箇条書きにされるとまるで頭に入ってこない。
「もちろん、覚えております」
「じゃあいいじゃん。マリーザが常に俺の隣に控えていれば完璧」
メレアはその紙片の中に思いっきり突っ伏して、その状態でマリーザの方を横目に見上げながら、何気なく言った。
しかし、そんな何気なさとはまるで別で、
「っ!」
その言葉はマリーザの中にすさまじい熱量を湧き起こさせていた。
特に、『常に俺の隣に』という部分だけがマリーザの脳裏に強く輝いていて、さらに都合よく彼女の望む方向に歪曲解釈され、そのおかげで彼女の頬が瞬く間に赤くなっていった。
「ん?」
「あっ、いえっ、な、なんでもございません」
当のメレアは急に顔をうつむけたマリーザに不思議そうな表情を向けるが、マリーザは適当に片手を振ってメレアの赤い視線を遮った。
「んんっ。……と、ともかく、すぐにとは申しませんが、多少は善処してください。メレア様も必要性があること自体は自覚なさっているのでしょう?」
「まあ――うん」
メレアは再び身体を起こして、頭の後ろで手を組みながら少し真面目な表情でうなずいた。
メレアとて、最終的には自分が責任を持って決断を下さなければならない場合があると自覚はしていた。
この星樹城に来て一週間ほど。
ようやく慣れてきたレミューゼでの生活は、これまでのムーゼッグとの差し迫った戦いとは打って変わって穏やかな日々であったが、決してメレアもそれに溺れるつもりはなかった。
そもそもこれが無事に続いていく可能性はかぎりなく薄い。
今はまだムーゼッグも痛手を負っておとなしくしているだけだ。
北と西の戦線との兼ね合いもあって、まだだいぶ時間は稼げるだろうとの見立てをハーシムからもらってもいるが、その間に準備をしなければならないのはメレアたち魔王勢力も同じだった。
「俺も世界の情勢には敏感でいないとなぁ……とは思うんだけどね」
いち早く魔王の情報を収集し、可能であれば『接触』を試みる。
メレアがまず重視しているのは、同じ苦しみを味わっている魔王を救うことだった。
――救うというのもなんだか大仰だ。
実際はそんなに一方的なものではない。
いわゆる、
――助けつつ、助けられつつ。
この集団が成立したときと同じ。
自分たちがレミューゼと手を取り合ったときと、同じ。
基本的に、そんなものだ。
とにかく、
「居場所がないというのなら、居場所を提供しよう」
自分たちはどうにかハーシムとの取引でこの城を入手した。
国というほど大きなものではないが、ここはレミューゼの民たちに謎の畏敬とともに〈魔王城〉と呼ばれるくらいには魔王の所有物だ。
――その形容まずどうにかなんないかな。
そう思いつつ、今はよしとしている。
「であれば、やはりハーシム様とはまた別で、わたくしたちも情報に聡くあらねばなりません」
「そうだね」
メレアは椅子を後ろに傾けて天井を見上げた。
それを見たマリーザはメレアが観念したように思ったのか、ようやくこの説得がひと段落したと言わんばかりに小さく息を吐いていた。
だが、メレアはその一瞬の隙を見逃さなかった。
「――でもやっぱり一日でこの量は殺人的すぎるだろっ!!」
マリーザの愛は重すぎた。
メレアが指差した先、机の影になって隠れていたマリーザの足元に、さらに馬鹿みたいに積み上げられた紙束があって、メレアは悲鳴をあげた。
そして一瞬の隙をついて、椅子を後ろに傾けた状態から後方の窓辺にまで飛びあがり、持ち前の身体能力を生かして外へと跳び出す。
執務室の窓の外には大星樹の巨木のような枝が巻き付いてきていて、そこを足場にすれば大星樹本体まで登っていけるような仕様になっていた。
「あっ! メレア様っ! また逃げるんですねっ!?」
「実際今日のノルマはこなした! 別にまったくサボってるわけじゃないだろっ!」
「でもまだこんなにもわたくしの追加の愛がっ! この量の愛があれば朝から夜までお傍で独占していられ――ああいやなんでもございません」
マリーザはふと自分の本当の狙いが口から出かかって、急いでそれを取り繕った。
その間にメレアはすでに大星樹の枝を三歩ほど跳躍していて、
「ああ、今日もまた逃がしてしまいました」
「なんだなんだ」と上階から首を出す居残りの魔王たちに見送られながら軽快に大星樹を登っていくメレアの背を、マリーザは残念そうに窓辺から見上げていた。
その日のレミューゼは、心地よい爽やかな風が吹いていた。
◆◆◆
「よ、よし、今日もなんとか撒いた……」
数々の情報のフラッシュバックでがんがんと音を鳴らす頭を撫でながら、メレアはレミューゼの街中を歩いていた。
一週間にしてずいぶんとこの街の雰囲気もわかってきた。
「あ、白神さまだー」
「その呼び名は勘弁してくれ……」
そうやって細工の施された白石造りの路を歩いていると、ふとすれ違った小さな少女にそう呼ばれた。
何週間か前ならばその声に反応しなかったかもしれないが、今は別だ。
声のした方に視線を向けると、メレアの髪色と同じような白のワンピースに身を包んだ少女が立っていた。
どうやら少女は母親と買い物をしたあとのようで、手には小さな革の袋を握っていた。
母親の方がメレアを見て笑みを浮かべ、小さく会釈をしてくる。
メレアもそれに合わせて会釈を返すが、少女の自分に対する呼び名には多少修正を依頼したいところであった。
「あっ、これ白神さまにあげるよー」
すると少女が楽しげな様子のまま跳ねるようにメレアのもとに駆けてきて、手に持っていた革袋の口紐をほどき、中からなにやらを取り出す。
「これは?」
メレアの出した手の中に落とされたのは、青と緑のグラデーションが絶え間なく流動するガラス玉だった。
「二個あるから一個あげる!」
「おお、そっか、ありがとう」
メレアは礼を告げながら受け取ったガラス玉を空に掲げ、陽光を通してその輝きに見とれた。
「綺麗だねぇ」
おそらく術式細工だろう。ガラスの表面に簡素ながら式が刻まれているのが眼に映った。
流動する青と緑のグラデーションはサファイアとエメラルドの輝きにも劣らず、またそれらが柔らかく接合されているさまは実に美しかった。
「でも、こんな綺麗なもの貰っちゃっていいの?」
そうして再び少女へと視線を落とし、続く動きで身体を屈め、目線の高さを合わせてから、改めて訊ねた。
少女の方はメレアに太陽のように明るい無垢な笑みを見せて、答えていた。
「いいよ! レミューゼをムーゼッグから守ってくれたのは白神さまだって母さまが言ってたから! お返し!」
メレアは少女のそんな言葉を受けて、困ったように笑いながらも、彼女の頭を優しく撫でた。
そのころになって母親の方が少女の名を呼んでいたので、少女に母親のところへ戻るよう手でうながし、ちらちらと振り返りながら手を振ってくる少女に微笑を送りながら、自分もまた手を振り返した。
そうして二人が去ったあと、メレアは再び少女から受け取ったガラス玉を陽光に照らして見つめながら、つぶやいた。
「さすがにここまでハーシムの計算づくってことはないだろうな? ――まったく、これは反則だ。いろんなものを断れなくなる」
そう言いつつも、メレアは嬉しげに笑ってガラス玉を服のポケットにしまい込んだ。
◆◆◆
メレアはもっぱらレミューゼの民たちに〈白神〉と呼ばれていた。
それはかつてレミューゼの矜持を掲げた〈白帝〉レイラス=リフ=レミューゼの再来としての名でもあった。
レイラスのものと非常によく似た雪白色の髪。
実際にそれはレイラスの身体因子そのものであったが、そこまでくわしいことはさすがに民たちは知らない。
ハーシムは一連の話のあとにメレア自身からそれを聞いて知っていたが、ハーシムでさえ当初理解に苦労した話を民たちにいちいち説明することはなかった。
むしろ、あえて言わない方が民たちには運命染みたものを感じさせるため、説明がたやすくともハーシムは言わなかっただろう。
「白神ね……」
メレアとしては多少複雑な思いもあった。
レミューゼからの期待は、今のメレアにはやや重い。
まずは魔王たちを救うのが先決である。
当然レミューゼも助けてやりたいとは思いつつも、そちらはハーシムという大黒柱がいるし、自分は厳密には部外者だ。
彼らが自分をレイラスと重ねるのは構わないが、自分が目立ち過ぎるのはハーシムのためにもならない。
彼らの無垢な期待は、まだ魔王の主としての道を歩みはじめたばかりのメレアには、それとない重荷であった。
「なんだ、今日はずいぶん辛気臭い顔をしているな、メレア」
すると、不意に耳を凛とした声が穿って、メレアは意識を引き戻された。
歩いている街路の先、その目の前に、人が立っていることに気づいた。
いまさら自分が下を向いていたことに気づきつつ、声に反応するように顔をあげる。
顔をあげた先にいたのは、
「喜べメレア! 今日は蛇肉だぞ!」
肩から背中、さらに地面を引きずるくらいにまで伸びる怪物のような大蛇を背負った――エルマだった。
頬にわずかな土をつけて、しかし顔には無邪気で快活そうな笑みを浮かべた、黒髪の美女である。
ついでに今の第一印象を見て付け加えると、
――魔物を退治して帰ってきた勇者のごとき姿だな……。
「ん? どうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
黙って動かずにいれば社交界の花形にもなれそうな麗姿だが、その日の彼女はどうあってもそんな淑やかな存在にはなれそうになかった。
しかしメレアはメレアで、そっちよりはこっちの姿の方が親しみやすくて好きだった。