69話 「新たな螺旋の始まり」
「殿下!! 避けてください!!」
ミハイの声が響いていた。
セリアスは空から落ちてくる巨大な光る刀身を見ていた。
身体は勝手に回避行動を起こしていたが、意識はその光に吸い込まれていきそうだった。
身体が浮遊感を得る。
カリギュラの背から飛び降り、空中を回った。
身体の傍を、死神の鎌が過ぎ去った気がした。
肩を、骨ばった手に叩かれた気がした。
自分の頬を、この世のものではない冷たい手に愛撫された気がした。
受け身をとって着地し、すぐさま顔を上げる。
視界に幻想的な光景が映った。
「――」
動けとの指示を出し遅れた。従順すぎた赤竜カリギュラは、その身を『あれ』に割断されていた。
竜が真っ二つになる光景は、いっそのこと美しかった。これ以後、決して見れない光景だろうと思った。
「殿下ッ!!」
次いで、魔剣が切り裂いた大地の向こう側から、ミハイが焦燥した様子で駆けてくるのが見えた。どうやら自分とは反対側に回避したらしい。
セリアスはミハイの声に釣られるように左手方向を見やり、そこでようやく――自分の身体の『異変』に気づいた。
左腕が、なくなっていた。
――……かすったか。
今の着地のとき、変にバランスを崩したと思っていた。
身を起こすのに四肢を突っ張ったつもりだったが、そのときも身体が傾いた。
どうやら三肢での立ち上がりになっていたらしい。
「狂った威力だ」
魔剣の光る刀身から弾けるように走った力の波動が、左腕を持っていった。
あの刀身に比して見るならば、小さな飛沫程度の力だったろう。
だが、それが腕に当たっただけで、肉が吹き飛んだ。
「本当に、狂った威力だ」
射線上には何も残っていなかった。『すべて吹き飛んだ』。
しかし、そんな光景を見ても――
「……」
セリアスはまだ冷静だった。
自分でも不思議なほどだった。
おそらく、追い詰められたことがかえってその思考能力を刺激したのだろう。
それはセリアス自身の生存本能が優れている証明でもあった。
そんなセリアスは、冷静に思考を働かせたがゆえに、そのときある決断を下していた。
今魔剣を振るったメレアと、そこからやや離れた位置で魔槍を振るっていたハーシムをそれぞれ一度ずつ見やり、ほんのわずかな沈黙の時間を過ごす。しかし、すぐにその視線は自分の部下たちの顔へと向けられた。
そしてセリアスは、自分に駆け寄ってくるミハイに対し、はっきりと言葉を紡いだ。
◆◆◆
「――撤退だ」
◆◆◆
「えっ?」
ミハイの訊き返しに、セリアスは淡々と答えた。
「撤退だ、ミハイ。これ以上はほかの場所で行われている戦にも影響が出る。――あれは捨て置く。今は優勢に事が進んでいる北部戦線のためにも、これ以上の戦力を失うわけにはいかん。陛下も理解してくださるだろう」
セリアスは、自分の左腕の付け根を布で縛りあげて止血をはじめたミハイに、はっきりとした口調で言った。
「なにより、私が傷を負ったのがまずい。私はなんともないが――」
セリアスは部下たちの顔を見て、彼らの無視しがたい動揺に気づいていた。
「兵士が動揺した。……我ながらこういうのもなんだが、こうして兵士の前で重傷を負ったのは初めてだからな」
「……はい」
自分に対する『信仰』が篤すぎるのが、かえって重荷になった瞬間だった。
やはりこういうことになったか、という納得がある一方で、その信仰の産む力のおかげでここまでこれたという思いもある。
どちらが良かったかということに、今はまだ明解な判断を下せそうになかった。
「だが、今回の戦でここにいる兵たちは経験をした。ならば次からはもっと揺るがずに戦える」
その言葉に、ミハイはうなずきを返した。
またミハイは、そうしてセリアスの言葉を聞きながら、手だけは止血のために淡々と動かしていたが、ようやく止血の目処が立ったというあたりで、ふとあることに気づいた。
よく見ると、
セリアスは汗一つ流していなかった。
その様子に気づいたミハイは、直後に寒気を感じた。
追い詰められた戦乱の寵児は、重傷を受けて戦意を萎えさせるどころか、むしろ――
「それに、まだ意固地になるほどではない。いずれ西部と北部の戦がひと段落したころに、再度潰しに来てやる。そのときには――」
セリアスは向こう側で魔剣を片手に直立する〈魔神〉を、ぞっとするほど鋭い視線で射抜いていた。
一瞬その口元に好戦的な笑みが乗った気がして、ミハイは自分の肌が粟立つのを感じた。
「『私があの魔神を止めればいい』。あの怪物がすべての核だ。それを私が止めれば、戦場の摂理は元に戻る」
セリアスはなおも大きくなろうとしていた。
大国の王子は決してお飾りではなかった。名ばかりでもなかった。
「前哨戦はくれてやる。――だが、『私たちの歴史』はまだ始まったばかりだ」
セリアスはたしかにそう言葉を紡いだ。
その言葉から始まった『新たな歴史の螺旋』が、山を越え海を越え、東大陸に留まらず他大陸の多くの国々にまで強い影響を及ぼすことを、セリアス自身まだそのときは知らなかった。
その歴史は、『世界』を巻きこもうとしていた。
「本国に戻って〈原型万癒術式〉を使う。腕はそれで治るだろう。それからすぐ、力を蓄えなければ」
セリアスはそう言いながら立ち上がった。
もはや撤退するという判断を取り消すつもりはないようだった。
実際、メレアが暴神化を延長させる決心をしていたことを併せて考えると、セリアスのこのときの撤退判断はおそらく正しかった。
ここでセリアスが引き際を見誤っていたら、被害はさらに大きくなっていただろう。
「しかし殿下、それでは寿命が――」
ミハイはセリアスの判断に従いながらも、ふと耳に入った単語に胆がひやりとして、思わず訊き返していた。
「平定の先の命などいらん。その先の統治は、私の息子にでもさせればいい」
セリアス=ブラッド=ムーゼッグは勝利の先に興味がない。
勝利そのものに強烈な興味がある。
メレアとハーシムに狂っていると言わしめたセリアスの執念は、むしろ眼前に〈メレア=メア〉という絶対的な壁を見つけたことで、さらに猛り狂った。
怪物が天才を触発する。
「――ハハ、悪くない。上がいるというのも悪くないぞ、メレア」
本当に超えられるかすらわからない相手を前に、セリアスはむしろ充実感を得たような気がしていた。
――たしかに私は、王子に生まれるべきではなかったのかもしれんな。
口には出さず、心の中で言う。
「だが私はセリアス=ブラッド=ムーゼッグだ。――『ムーゼッグ』なのだ」
セリアスは、遠くに見える黒い髪の魔神と、美しいアクアブルーの瞳をしたかつての友に向かって、そう言い放った。
と、ちょうどそのあたりになって、遠く北東の方角に紺碧色の塊が映った。
「ズーリアの〈紺碧槍団〉。――キリシカか。多少会いたい気持ちもあるが、今は避けよう。ムーランあたりも直に『魔石砲』を引っ提げてやってきそうだしな」
セリアスはそう言い残し、ミハイに指示を出した。
全軍を撤退させる――指示である。
◆◆◆
「退いていく……?」
エルマはムーゼッグ軍の動きを見て、唖然としながら言葉をこぼしていた。
その隣でメレアも同じく黒鎧たちの動きを見ていたが、まだ魔剣は手に握られたままだった。
すると、
「メレアッ!」
今度は後ろからハーシムが馬を駆ってやってきて、慌てたように声をあげていた。
ハーシムはメレアの後ろにいたゆえに、あることに気づいていた。
「っ、お前、身体が――」
メレアの服の下から、尋常でない量の赤い液体がにじみだしていた。
血だ。
「暴神の術式の反動だ。……でも、まだ慌てるほどじゃない」
そうはいうものの、服の貼りつく背中はすでに真っ赤に染まっていた。
その服の下がどうなっているか想像したくないほどだった。
「この眼にムーゼッグの軍勢が映らなくなるまで、俺は倒れるわけにはいかないんだ。ここで俺が弱みを見せれば、きっと報復までの時間が短くなる。それは、避けないと」
メレアはつらそうな表情ひとつ見せず、退いていくムーゼッグの黒い軍勢をただじっと見ていた。
そうやって術式を展開させたまま微動だにせず仁王立ちするさまは、超人的な一方で、どこか人間的にも見えた。
「――泣かないで、エルマ」
そんなメレアの隣では、痛みに叫べないメレアの代わりになるかのように、エルマが顔をうつむけてすすり声をあげていた。
彼女は彼女で泣いていると悟られないように、できるかぎり気丈に振る舞っていたが、涙そのものを我慢することはできなかった。
「っ――」
言葉にならない声をあげながら、エルマはメレアの手を握っていた。
数えたらきりがないほど、その手に助けられてきた。
魔王の一員として、そしてエルマ=エルイーザ個人としても。
しかしその分、メレアに重荷を背負わせてしまった。
「エルマのせいじゃないよ。俺が勝手に背負い込んだんだ」
メレアは自分の肩に当たるエルマの頭に優しく手を添えて、彼女を慰めるように言葉を紡いだ。
慰めるつもりではあっても、別に嘘をいっているつもりではなかった。
「俺は意気地がないから、ある程度自分で自分を追い込まないとうまく動けないんだ。俺はここからとても遠くにあるものを求めているから、そのために自分で足を動かさなきゃならない。その上で、俺だって人間だから、たまに逃げたくもなるし、諦めたくもなるかもしれないけど――」
メレアは小さく笑って言った。
「きっとそのとき、背負っているものが歯止めになってくれる」
その言葉を受けて、エルマは手に力を込めた。
「……その重さで、潰れてしまわないか」
震えた声で、顔をあげないまま問い返した。
「そのときは――、一緒に支えてくれると嬉しいな」
メレアは再び笑って言った。
屈託のない笑みだった。
その答えを聞いたとき、エルマは自然と決意していた。
「……わかった」
エルマは顔をあげた。
「私は――」
強い意志の灯った瞳で、メレアの瞳を見据えた。
「たとえお前が重荷に潰されてしまったとしても、それでも――ずっと隣にいよう」
本当は、「潰れそうなときは一緒に支えてやる」と言おうと思った。
しかし、それでも足りない気がした。
支えるのは当たり前だ。
でも、それでも潰れてしまいそうになったら、たぶんまたメレアは自分をはじき出す。
自分にかぎらず、みんなを手で押し出して、最後は一人で潰れようとするだろう。
それは、
――だめだ。
そのときは、意地でも食らいつく。
絶対に、
「お前を一人にはさせてやらないからな」
これ以上心配させないように、ぎこちない微笑を向けながら言うと、メレアはきょとんとして少し驚いているふうだった。
しかし、すぐに困ったような笑みをその顔に浮かべて、最後には、
「――そっか」
嬉しそうな笑みを浮かべていた。
たぶんメレアも、エルマの言わんとするところに気づいていたのだろう。
そしておそらく、メレアにとってその言葉は救いだった。
特殊な生まれをしたメレアにとって、この世界の住人でそこまで自分を思ってくれる者がいることは、なによりもの心の支えであった。
「じゃあ……あとは……いいかな……」
直後、メレアは離れていくムーゼッグの軍勢が砂塵にまぎれて姿を消していくのを見て、ついに体中に張り巡らせていた気が抜けていくのを感じた。どうしようもない脱力だ。
腕が自分のものではないかのような異様な重みを呈しはじめ、上半身を支えていた腰がぽっかりと抜け落ちてしまったような感覚に陥った。
最後に、地をつかんでいた足の裏から感覚が消え去って、
「…………疲れたぁ……」
「メレアッ!」
メレアは力尽きたように膝から崩れ落ちた。
身体にまとっていた術式がふっと消え去り、無限と思わしめるほどの奔流となってあふれでていた魔力は勢いを弱め、黒かった髪もいつもの雪白色に戻っていった。
膝をついた衝撃でメレアの身体から鮮血が飛び散り、荒野の大地を朱に染め上げた。
そんな状態であるにも関わらず、メレアの顔には安堵するような気の抜けた笑みがあった。
エルマはメレアの身体をとっさに抱き止め、我が子を守るような優しい手つきで包み込んだ。
つい先日まであんなにも儚げだった彼の身体は、とても重かった。
「……空が朱い」
「……ああ」
メレアはエルマの腕の中で空を見ていた。
その目蓋が落ちてくる寸前まで、世界を見ていた。
「大地は赤い」
「……ああ」
眠る間際の、消え去りそうな声音。
「俺の手も、きっと――」
その言葉は最後まで紡がれなかった。
しかしエルマには、メレアが何を言おうとしたのかわかっていた。
だからこそ、エルマはメレアが空に向けて伸ばした手に自分の手をからめた。
知っている。メレアが何を言おうとしたか。
それでも、
「――ありがとう」
エルマはそう紡いだ。
いつの間にか、メレアは目を瞑って寝息をたてはじめていた。
エルマはメレアを胸に抱きこんだまま、ふと周りに視線を巡らせた。
メレアの言葉どおり、朱い景色が広がっていた。
空の朱、荒野の赤、それに――紅。
しかし、そんな景色の上を、『仲間たち』が駆けてきていた。
同じ道を行こうとする者たち。
彼らが、その指針となる光のもとへ駆けてくる。
彼らの姿は、決して紅に塗りつぶされてはいなかった。
「――お前を一人では進ませない。だから、今は安心して眠れ」
エルマは彼らを安心させるように微笑を浮かべて、黒髪を荒野の風になびかせた。
その日、世界の東空は、新しい歴史の始まりを象徴するように――鮮やかな朱に染まった。
―――
――
―
終:【東空は朱に染まる】
始:【未来の百魔へ】
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