58話 「不気味な光景、剣帝の情景、英雄の空気」
通った道を戦火に燃やし、すべてをその髪と同じ灰色に染めあげると言われる男。
戦乱の寵児と謳われる、大国の王子。
魔王をすら殺したと噂されるその男の容姿は――
――嗚呼。
◆◆◆
――やはりお前なのだな。……『ブラッド』。
間違いなく、ハーシムの記憶の中の『彼』だった。
◆◆◆
「――っ!」
一秒にも満たない記憶の光の明滅が過ぎ去って、ハーシムは我に返った。
ハーシムの脳は、その眼がセリアスの姿を捉えた瞬間からけたたましく警笛を鳴らしはじめ、また声をあげさせるためにその口を大きく開かせていた。
大声が空に昇る。
「――メレアアアアアアッ!!」
ハーシムは右方に回り込ませたエルマたちの姿を探しながら、メレアの名を叫んだ。
今さっき感じた一瞬の視線で、自分の策が見抜かれたことを察知していた。
遠くからの視線。こんな状況でなければ「ありえない」と無視したかもしれない。
だのに、今はそれを無視できなかった。
体中の毛が逆立っていた。
そして、そんな確信を間違いないと証明するかのように、次の瞬間には視界の奥の『やつら』が動いていた。
セリアスが、同じく赤い地竜の背に乗っていた数人の黒服たちに――指示を飛ばしているのが見えた。
細かい仕草などは見えないが、黒服たちがその眼前に巨大な『術式陣』を編みはじめたのが見えて、もはや自分の確信を疑う余地など完全になくなっていた。
術式陣はエルマたちがいる右方へ傾いていた。
――まずい。
その直後、ハーシムはようやくエルマたちの姿を見つける。
彼女の方はセリアスの到着に気づいていないようだった。
おそらく位置が悪いのだ。さらに言えば、あの切迫した状況で敵の指揮官を見失うまいと意識を集中させているのも要因の一つだろう。
このままでは、向こうの射線上に入った瞬間狙い撃ちにされる。
反応が間に合えば魔剣クリシューラの術式割断によってあの術式兵の一撃を防げるかもしれないが、予想すらしていないところへの高速の一撃にまともな人間が反応できるわけがない。
状況が、悪い方向へと流れはじめていた。
「左は意地でも持たせる! お前は剣帝のところまで飛べッ! ――行けッ! 早く!!」
ハーシムはみずから馬を駆って左方へ駆けた。激戦部に踏み込むことなど構いもせずに、剣を片手に移動する。
対するメレアは、ハーシムの声を受けて周囲の敵を一気に薙ぎ払い、すぐさま首をまわして周囲の状況をうかがっていた。
直後、その顔がある方向を向いて硬直する。
赤い地竜と灰色の髪の男。
目の前の戦いに集中していたメレアもまた、そのとき彼らの姿に気づいたようだった。
そして、
「――」
メレアの身体が、今までで一番の速度で右に弾けた。
もはやまともにその姿を視認できないほどの速度だった。
メレアが足を踏み込んだ地点を中心として暴風が吹き荒れる。
すべてを察したメレアは、残像すらを残すような速力でエルマの駆けている右方へと一直線に向かっていった。
白い閃光が戦場を駆けた。
◆◆◆
「ノエルッ!!」
メレアは途中、中央戦場で自分の代わりとばかりに敵に竜体の猛威を振るっていたノエルの姿を見つけて、とっさにその背へ登った。
ちょうど周辺の敵をノエルが一掃したところで、位置もさながらタイミングが良かった。
ノエルは不意のメレアの訪れに嬉しそうに身を跳ねさせたが、すぐにメレアの緊張を察して不思議そうに首をかしげた。
「■■■! ■■!!」
そんなノエルに、メレアが竜語で指示を送る。
一つは今自分が抜けた左方の戦場を支えてくれという指示で、もう一つは――
メレアは竜語を紡いだ直後、急ぐ動きで今度は背から降りて、ノエルの尾のあたりまで駆けて行った。
すると、
「思いっきり振れ!!」
メレアが張りのある声で言うや否や――
ノエルがその尾をすさまじい勢いで水平に振り抜いた。
メレアを薙ぐような軌道である。
近場にいた魔王たちがぎょっとするが、メレア本人は眉一つ動かさずその尾を見ていた。
そして――
メレアはそれを『足場』にして空中を飛んだ。
ノエルの尾撃に乗った勢いを利用し、一気に身体を斜め上へと進ませる。
風の六枚翼を羽ばたかせて速力を加算し、猛然とした勢いですべてを越えていった。
メレアの眼にはレミューゼの騎兵とともに敵軍後尾へと回り込もうとするエルマの姿が映っていた。
◆◆◆
――届かせる。
エルマは内心に殺意をたぎらせ、黒い人垣の向こう側にいる大きな体躯の男を見ていた。
すでにムーゼッグの騎兵たちには気づかれていて、途中交戦もした。
だが、ムーゼッグの主戦力が左方に寄っていたことに加え、半分以上回り込むまで大部分の兵に気づかれなかったことが、突破に対し有利に働いてくれていた。
――今に届く。
エルマはそれを疑わなかった。
その自信に共鳴するかのようにして、魔剣が一際大きな鳴き声をあげた。
が、
――なんだ……? ……光?
後背に回り込み、見事ムーゼッグの軍勢の裏を突いた。
あとは意を決して指揮官のいる場所まで突っ込むだけだ。
後背に回り込まれることを想定していないやつらの尻の皮は薄い。
そう思って最後の鼓舞とばかりに剣を掲げようとしたところで、エルマは奇妙な『光』を見た。
見覚えのある、白い光だった。
「――っ!」
勘付き。
直感。
エルマのたぐいまれな戦士としての勘が、本人の理性すらを上回る反射でその光の正体を報せた。
しかし、そのときには、
すでに自分の眼前に大きな白光が迫っていた。
身体を動かす暇など――存在しなかった。
◆◆◆
白い光が、エルマの頬を『かすめた』。
◆◆◆
直撃はしなかった。
紙一重の――ぎりぎりだった。
エルマはどうして自分が助かったのかまだ理解できなかった。
一瞬の身体の硬直のあと、ようやく思考が復帰する。
直後、エルマは見た。
自分と白光の間にその身を挟ませているメレアの姿を。
◆◆◆
メレアの到着と白光砲の着弾はほぼ同時だった。
白光砲は寸分の違いなくエルマの正面から彼女に襲い掛かったが、同じく次の刹那に飛び込んできたメレアが猛然とした勢いでその間に手をすべり込ませていた。
飛翔途中に反射で編んだ反転術式を乗せた左手。
メレアの反転術式陣と白光砲の先端が激突し、一部届かなかった奥側の白光が軌道を変えて突き抜けた。
エルマの頬をかすめたのはそれだ。
だが、そのほとんどはわずかの競り合いのあとに乾いた音の中で消滅した。
「――メ、メレアっ!?」
横から飛んできた勢いのまま地面に転げたメレアを、エルマは馬を諌めつつ唖然として見ていた。
しかし、そんなエルマも自分が狙われていたということには気づいている。
メレアに視線を向けながらも、自分がどこからどういった攻撃を受けたのかを確認しようとした。
光が飛んできた方角を見る。
「あれは――」
エルマは視線の先に赤い地竜を見つけ、さらに一瞬遅れて見覚えのある人型を見つけた。
リンドホルム霊山からシャウの黄金船で下りるときに、途中で一度だけ打ち合った男。
灰色の髪の――
「……セリアス=ブラッド=ムーゼッグか!!」
遠くて細部など見えないが、向こう側から視線が返ってきた気がして、またその視線に体中の毛が逆立った。
己の本能的な反応。
それを受けてエルマは確信を得た。できれば得たくない確信だった。
「行け! エルマ!」
と、メレアがすぐさま身体を起こし、声をあげていた。
エルマはその短い言葉の意味を即座に理解する。
ここまで来て、みすみす敵の指揮官首を逃すわけにはいかない。
途中、身体を張って脱落したレミューゼの騎兵もいる。
彼らのためにも――ただでは帰れない。
エルマは意識を切り替え、すぐさま馬を駆った。
ムーゼッグの軍勢をさきほどの白光砲に対する壁にするよう位置どり、突撃する。
今の攻防のおかげで当初の予定よりも回り込みが浅くなったが、この際しかたのない動きだ。
――あとは自分で斬り開く。
そうやってエルマが駆けだした直後、背後で再び炸裂音が鳴った。
見なくてもわかった。
『二発目』だ。
「振り向くなよ! 俺は大丈夫だ!」
「――ああ、必ず首を持って帰る!」
エルマは振り向かず、声だけを残してただ前へ疾走した。
◆◆◆
――霊山にいたのと同じやつらか……!
メレアは左手に展開させた反転術式で敵の白光砲を受け止めながら、内心に浮かべた。
この術式はリンドホルム霊山で見たものと相違ない。ムーゼッグの術式兵が使ってきた連携術式だ。
エルマの言ったとおり、赤い地竜に乗ってこちらに駆けてきているのがセリアスであるとするなら、
――霊山から連れてきたってことだな……!
おそらく、背に乗れるだけの精鋭術式兵を連れてきたのだろう。
――厄介だ。
ムーゼッグ側にまともな遠距離攻撃を仕掛けられる術式兵がいなかったのは、メレアにとってありがたい要素だった。
反転術式のために処理領域を残しておく必要がなかったため、英霊の術式をいつもより一つ多く使っていられた。
だが、今は白雷と風の六翼だけ。
三尾はさきほどエルマへの一撃を反転術式で防ぐときに解除した。
「しつこいやつらだな!」
まったくもって忌々しい。どこまでも追ってくる猟犬のようだ。見ている分には感心するが、追われる側からすれば最悪の相手である。
と、メレアが内心に悪態をついていたところへ、休ませず三発目の予兆が来た。白い光が遠くできらりと光った。
それを見たメレアは、すぐに動きを見せた。
「おとなしく受けているだけだと思うなよ……!」
白光が着弾する前に、今度は右手を前に出して開く。
メレアの赤い瞳が淡い燐光を発し、その表面に不思議な紋様を浮かばせた。
手の込んだ芸術細工にも劣らぬ、麗美な魔眼の紋様だ。
「攻性反転術式――」
言霊が宙に浮かんだ直後、開いたメレアの右手に異様な速度で術式が展開される。
数字、文字、幾何模様、さまざまな体系の混合で形成されている『式』が、生きて蠢く虫のように絡まり合い、瞬く間に一つの絵を象り産む。
「――〈黒光砲〉」
向こう側から白い光が発射されたのと、メレアがその術式を完成させたのはほぼ同時だった。
白い光が遠くで明滅し、またメレアの生んだ術式陣の中心にも黒い光が輝いた。
互いの光が一瞬で陣全体を覆うように巨大化したあと、再度中心に向かって高音を発しながら収束し、
「行けッ!」
放たれた。
戦場に白の閃光と黒の冷光が走った。
まるでそれは、リンドホルム霊山の山頂で見た光景の再現のようだった。
◆◆◆
白と黒の光が相殺し、派手な破裂音があたり一帯に響いた。
その快音をきっかけに、戦場にいたほとんどの者たちが状況の変化に気づいたようだった。
動きが起こる。
特に顕著な動きを見せたのはムーゼッグ軍の方だった。
彼らは破裂した白光の残光を見て、またその白光が撃ちだされた方角を見て、ついにセリアスの存在に気づいたようだった。
母国の術式兵の十八番たる連携術式の光は、彼らにとってわかりやすい目印だった。
そして、そんな彼らはセリアスの存在に気づくと同時、
――下がる? どうして……。
メレアの驚きもしかたのないものだった。
彼らは士気をあげて突撃するどころか、むしろ目の前の好機さえも放棄して、一斉に後退しはじめたのだ。
負けているのならわかる。態勢が崩れているのならわかる。
しかし、ムーゼッグは押していた側だ。
少なくとも左方の戦場においては間違いなくそうだった。
だのに、それすらを『放棄』した。
理解、できない。
全軍がその判断に一抹の駄々さえこねなかったのを証明するように、やたらと統制された動きで後退していくのが、メレアに得も言われぬ悪寒を感じさせた。――いっそその整然さが不気味に見えた。
――まさか。
だが、そんな光景を半ば呆然として見ていたメレアの中に、ふとある予想が降ってきた。
セリアスの強大さを散々聞いていたからこそ思いついた、奇矯な予想だった。
セリアスという存在は、ムーゼッグ王国において――
――……そこまで巨大なのか。
彼らはその時点で現指揮官からの指揮を『中断』したのではないか。
より上位に君臨する指揮官がやってきたから、前の指揮を中断破棄して、一旦仕切り直そうとした。
――バカな。
もしそれが本当であるならば、もはや病的ですらあると思う。
だから、奇矯な予想だと思った。
なのに――
一旦そんなふうに考えてしまうと、そうとしか思えなくなった。
一斉に思考を停止させたように同調した動きを見せるムーゼッグ軍。
いっそ洗脳されているといってくれても納得できそうな光景。
――あの男はそこまで……。
そして、メレアのあてずっぽうな予想を証明するかのような光景が、そのあたりで実際の光景に現れていた。
エルマの背に一瞥を送ったメレアの視界に、それが映った。
さきほどまでエルマが狙っていた指揮官らしき男が、一人だけ身に着けていた大きな兜を脱いでいたのだ。
まるで、それを脱いでみずからの身を一平卒に戻させるかのような仕草だった。
それを見たエルマもまた、戸惑っているように見えた。
本当に、異様な光景だったのだ。
「これは人形だ。――『熱のある人形』だ」
メレアはとっさに動くことができず、後退していく黒い人の波を唖然として見ていた。
◆◆◆
「なんだ……これは……」
エルマの目の前には亡者が映っていた。
それはまさに、ただ無心に地上の光を目指して闊歩する地獄の亡者のようだった。
こうして懐深くまで潜りこんだ自分に目もくれず、彼らは壊れた人形のようにその身を遠くの『光』に近づけさせていく。
エルマは剣を突きこむ機会を逸していた。
全軍が一斉に後退してきたことが、結果的に指揮官の周りに分厚い防壁を再構成することになった。あと一歩早ければ、切っ先を届かせることができたかもしれない。今の状態では無理をして首を取ったところで帰れなくなる可能性の方が高いだろう。
しかし、その機会を逸した最大の理由は――別にあった。
なによりも――
「あいつは今、なにをした……!」
あの男が指揮官の象徴のようだった兜を投げ捨てた瞬間、あえて無理を重ねてまでそいつを討つ意味がなくなってしまった気がしていた。
やつは――
『指揮官ではなくなった』。
――冗談じゃない。そんなことできてたまるか。
当然そう思った。
だがそう思ってもなお、嫌な確信を得られてしまうくらいに、男の行動は『不自然に自然』だった。男はその行動になんの疑いも持っていないように見えた。
「ばかげてる……!!」
せめて総指揮権をセリアスに渡すだけで、分隊長程度には地位を保っていてくれればまだマシだった。
だが、さきほどまであんなに大きく見えていたその身体までが、いつのまにか小さくなったように見えて、ほかの兵士とともに物言わずセリアスへと近づいて行くさまは――
『同化』していた。
同じだった。
ほかの騎兵と変わらぬ、ただの名も無き兵士だった。
「やめろ……」
声をあげてくれ。
『セリアス殿下のところまで後退しろ』と命令を下してくれ。
「無言で人形のように下がるな……」
ほかの兵士よりも地位の高いことを証明してくれ。
その統率力が優れていることを証明してくれ。
お前を狩ればこちらの有利になるということを――
「証明してくれ……!」
エルマの叫びは通じなかった。彼は黙々と光に向かって走っていった。
「っ……!」
エルマはそこで当初の大きな目的を思い出す。
ハーシムは三ツ国の増援が来るまで時間を稼ぐと言った。
そういう目的のためであれば、このムーゼッグの後退はむしろレミューゼにとって吉と出るはずだ。
レミューゼの騎兵たちが一息つく余裕も生まれるし、魔王たちに対しても同じ効果をもたらすだろう。
だが、
――これではあまりに……
エルマの意識はここまでともにやってきたレミューゼの騎兵へと向いていた。
より正確に言うのなら、ここまで来る途中に身体を張って『脱落した』騎兵たちにである。
彼らを思ったとき、エルマの胸中に言葉が浮かんでいた。
――……不憫だ。
エルマはそれを口には出せなかった。
だが胸中ではたしかにそうこぼした。
それはたぶん、エルマの近場にいた数少ないレミューゼ騎兵たちも同じだったろう。
ここまで来る間に身体を張って命を落とした彼らの思いは……どうなるのだ。
この突撃は、完全に無駄なものになってしまったのだろうか。
エルマは自身でその問いに答えを見出してしまって、自分の拳が強く握られるのを抑えられなかった。
得も言われぬ悔しさが、エルマの体中を駆け巡っていた。
◆◆◆
「まだだ。まだ彼らの犠牲は無駄になってない」
◆◆◆
だが、次の瞬間にそんな言葉がエルマの耳を穿っていた。力強い声だった。
「メレア……」
エルマはすぐさま声の方を振り向いて、声の主を見つけた。
メレアはいつの間にか自分の後方にまで寄ってきていて、馬の下から手を伸ばしてエルマの拳を開かせていた。
その手つきはさきほどまで人の命を奪っていた男のものとは思えぬほどに優しかった。
「結果的にエルマがここまで来れたから、ああしてセリアスが早めに術式を撃つはめになった。まだムーゼッグ騎兵軍との距離がある地点で、自分が迫ってきているということを戦場全体に知らせることになった。なら――ここを使う」
「なに、を――」
エルマはメレアがなにをしようとしているのか精確にはわからなかった。
だが、なぜだかメレアを止めねばならないような気がしていた。
たぶん、この男はこれからなにかをしでかす。
それも、とてもおそろしいことをだ。
それは戦人の勘による察知ではなく、『女の勘』による察知だった。
と、そんなエルマの逡巡をよそに、メレアが馬の下から笑みを向けていた。
「エルマはこのまま戻って。――俺は行く」
「ま、まて――」
行く。
どこへ。
――間違いない。
――あの赤い地竜のところへだ。
この男ならやる。
勘付くと同時、エルマは確信した。
この男は魔王の主という厄介な立場を押し付けられてもなお、それを全霊で務め上げようとした男だ。
この男は魔王のためにたやすくその身を盾にする。
最初からそうだったし、この戦場に突入してからその傾向はより強くなった。
――独特の空気があるのだ。
誰かのために自己犠牲をいとわぬ慈愛の香りと、それとは正反対の孤高強者の香り。
おそらく後者の香りは、目的のために他を切り捨ててでも手を尽くそうとする強靭な意志が起因となっているのだろう。
一歩間違えれば矛盾してしまいそうな二つの香り。
それが混じり合った、不思議な空気。
もしかしたらこういう空気を『英雄の空気』と呼ぶのかもしれない。
だが、だからこそ止めねばならない。
もはやセリアスとムーゼッグ軍の間に余地などほとんどない。
たしかにまだ完全合流はしていないが、さきほどの術式の打ち合いの最中も向こうは地竜に乗ったままどんどんとこちらへと近づいてきていた。
もうここからでも服装が見えるくらいにはなっている。
じきにたどり着き、合流する。
そんなところへ突っ込んで、いまさらどうなるというのだ。
――危険すぎる。
エルマはとっさに馬上からメレアへ手を伸ばした。
いつの間にか、さきほどまで自分の手に触れていたメレアの手は離れていた。
「どうしても俺はやつに訊いておきたいことがあるんだ。――『戦場の外の夢』のために」
メレアの口から続いて出てきた言葉を聞いて、エルマの脳裏に『あのとき』の情景が蘇っていた。
肩に感じたメレアの体温を、いまだ鮮明に覚えている。
「開戦前にハーシムと話し合ったことを確かめる必要もある。そのためには、わずかな時間といえど、まだどうにか本軍との間に身をすべり込ませることができそうな今がチャンスなんだ」
メレアが一歩後ろへ下がりながら付け加えるように言っていた。
顔にはエルマを安心させるように浮かべた微笑があった。
エルマは嫌な予感がして、今度は馬から飛び降りてメレアの手をつかみにいった。
いつのまにか胸いっぱいに広がりはじめた不安が、口からあふれでそうだった。
「それに、この好機にセリアスの首を取ってしまえれば、それで戦争が終わるかもしれない。セリアスがここまでムーゼッグにとって大きな存在であるなら、それが同時に最大の弱点でもある。何事もなくうまくいってしまえば、それはそれで良いことだ。みんなの傷も少なくて済む」
そうかもしれない。
でも、
――お前の傷は、どうなるんだ。
お前はちゃんと、無事で戻って来るのか。
その『みんな』の中に、お前自身は入っているのか。
そう紡ごうとしながら伸ばした手は――
「大丈夫――ちゃんと戻るから」
空をつかんだ。
メレアはエルマからまた一歩離れていて、また彼女の伸ばした手に応えてやることもなかった。
「や、やめろ――行くなっ! メレアッ!」
エルマの焦燥に彩られた叫びが戦場にあがった。
その声が空に響いたときにはメレアが白い雷をまとって駆けだしていた。
メレアの背で風の翼が力強く羽ばたいて、その翼に薙がれた荒野の風がエルマの頬を優しく撫でた。
「あ――」
エルマはそれでも、小さくなっていくメレアの背に手を伸ばしていた。
視界の光景がゆっくりと進んだ。
いろいろな思いが体中を駆け巡って、最後には――
「行かないで――」
その目の端に雫が浮かんだ。
抑えきれぬ不安と一緒にあふれた涙だった。
その涙に自分自身で気づいた瞬間、エルマは初めて――
自分がメレアに対して『特別な思い』を抱いていたことを知った。
もう――その手は届かない。





