52話 「世にも珍しい、魔王にとっての」
エルマの耳が双子の声を捉えた。
衝動的に馬を反転させたくなった。
でも、できなかった。
やればきっと、サルマーンの決死を無駄にする。
すべてを無駄にしてしまう。
「っ! ――ああああああっ!!」
いつの間にか馬はムーゼッグ騎兵軍の包囲をほとんど突破していた。
しかしその叫びは苛立ちと悲哀にまみれていた。
包囲網を突破した高揚の叫びではなかった。
「誰かッ!!」
誰でも良いんだ。
「助けてくれ!!」
魔王に手を差し伸べてくれる者なんて、どこにもいない。
この世界は残酷だ。
知ってる。
それでも、
「一人でもいいから……!」
馬が前へ進み、最後に立ち塞がったムーゼッグ兵を斬り伏せ、
「誰か……いないのか……!!」
ついに、突破した。
瞬間、
◆◆◆
「いるとも。彼を救って見せよう。だから、君たちも殿下を救ってやってくれ」
◆◆◆
顔をあげた瞬間だった。
エルマのすぐ横を、逆方向に駆けて行く複数の男たちがいた。
「――」
エルマは声が出なかった。
ほかの魔王たちも同様だった。
自分たちが今たどってきた道を逆進するように、十数人の騎兵がムーゼッグの軍勢に突撃していく。
エルマはすれ違いざまに耳を穿った言葉を何度も脳裏で反芻しながら、驚愕を顔に浮かべて戦場を振り返った。
すさまじい雄叫びが、あがっていた。
「――」
まだ声は出ない。
なにが起こっているのか、わからなかった。
◆◆◆
「兵長! 新手です!!」
サルマーンは大きく腕を振りかぶった直後、そんなムーゼッグ兵の声を聞いた。
「なにッ!?」
次いで、また声がした。
近い。
目の前のムーゼッグ兵はまだ自分に槍を突きつけているが、意識はあきらかに後背に向いている。
「来ます!!」
サルマーンはなにごとかとムーゼッグ兵に混じって向こうを見た。
死の一歩手前までいったからには、もはやなにが起ころうと驚きはすまい。
いっそ清々しい気分でその異変を待つことができる自分に、いっそ呆れさえした。
そして、そんなサルマーンの逡巡など知らぬとばかりに――
異変は強声とともにやってきた。
「どけえええええええええええええええ!!」
野太い男の声だった。
声のあとにやってきたのは、数人の騎兵だった。
ムーゼッグの騎兵ではない。
その男たちは、歴戦の勇士とでもいうべきか、武骨な甲冑に身を包み、鬼の首でも取ろうかという形相をしている。
「おいおいおいおい」
サルマーンはもはやなにが起こっているかわからなかった。
それでも、彼らが自分にとっての救世主足りえることを一瞬のうちに察して、思わず高揚の笑みを浮かべてしまっていた。
と、次の瞬間、突っ込んできた騎兵の一人と目が合った。
見た目は初老の男だった。
されど、気迫は老いはじめのそれではない。
「道を切り開く!! 走れ、若人!!」
「ハッ! わけわかんねえけど――ここはわかったっていうしかねえな!!」
「それでいい!! お前が行かねばわしらが行けぬ!!」
「おうよ! ならちゃんとついてこいよ! お言葉に甘えて先に行くぜ!」
言われ、サルマーンは駆けだした。
同時、駆けだした身に向かってムーゼッグ兵たちの槍が突き放たれる。
今の混乱で意識が外れていたが、サルマーンが大きく動き出したことで反射的に攻撃に移ったのだろう。
だが、サルマーンはそれらを拳で打ち弾き、前へ突っ込んだ。
致命たりうるもの以外は無視した。
身体に槍が刺さった。
それでも走った。
見れば、初老の男が馬とともに突っ込んできたあたりに、わずかな隙間ができている。
ムーゼッグの軍勢の間にできた、細く小さな間隙だ。
さらに、その間隙を押し広げんとして、初老の男の仲間と思われる別の騎兵たちが槍を振り回して交戦していた。
物量では圧倒的に負けている。
だが鬼気迫る形相のその騎兵たちは、たった一人、サルマーンが身をすべり込ませるだけの隙間を、ぎりぎりで保っていた。
馬の身体をも盾にして、決死で道を作るように。
サルマーンは無心で駆け抜けた。
死を覚悟してから見る『生への可能性』は、異様に輝いて見えた。
その可能性を渇望した。
もはや理性など必要とせず、本能に任せ、ただ駆けた。
そして――
抜けた。
◆◆◆
エルマたちの姿が見えた。
抜け出た瞬間、今度は目の前に馬が現れる。乗っていたのは双子だった。
二人で馬の手綱を握って、少し拙く馬を操っている。
「サル!」「お兄ちゃん!」
「ハハ、呼び方統一しろよ、クソガキどもめ」
サルマーンは笑いながら軽口を叩きつつも、急いでその馬に素早く飛び乗って、遠くにいるエルマたちの方を見た。
馬の手綱を双子から受け取り、そのまま少女たちを自分の懐に収め、馬の腹を蹴る。
後ろからムーゼッグ騎兵の声がしたが、
「来るな!」「ばか!」
双子がどうやら術式を使って叩き落としたらしい。
だからサルマーンはただ前を見ていた。
まずはみんなのところまで行って、態勢を整えよう。
これでレミューゼ方面への逃げ道は確保された。
まだ圧倒的な戦力に追われているという事実は変わらないが、ひとまずの最低ラインは越えただろう。
あとは、メレアとノエルが来るのを待って、また対策を練る。
メレアならきっと、一人であればあの騎兵軍を越えてくるだろう。白雷と風翼の馬鹿げた機動力がある。
それがわかっているから、突出を許した。
サルマーンはエルマたちのところまでたどり着いて、今度は横からノエルがやってきたのを見た。
ノエルはノエルで別方向から回り込んだらしい。
たぶん、メレアの指示でほかのムーゼッグ騎兵を引きつけてくれたのだろう。
ところどころ傷はあるが、間違いなく無事だ。
そこでようやく、サルマーンはさっきの初老の男たちのことに気が回った。
自分を助けてくれた、救世主。
世にも珍しい、魔王たちにとっての――英雄だ。
「なあ、おっさん、あんたら――」
振り向きざま、サルマーンは声をあげながら後背を見やった。
「――」
そこにあの男たちは――いなかった。
◆◆◆
サルマーンが奇跡的にムーゼッグの包囲を突破し、エルマたちに再び合流した頃、メレアは地竜の背の上にいた。
ほかの二頭の足を割断している間に、ここぞとばかりに魔王たちの方へ疾走を開始した地竜の上だ。
その疾走が最高速に乗る前にどうにか追いついてつかまり、揺れる中で一気に背の上までよじ登った。
さらにその勢いのまま地竜の背から竜騎兵を蹴り落とし、すぐさま頭の方へ移動する。
「しつけがなってねえな……っ!」
竜騎兵が落ちても地竜は動きを止めなかった。
それどころか、背の上にメレアが乗ったことに気づいて、今度は錯乱したように暴れはじめる。
とっさに竜語を紡ぐが、まるで聞こえていないようだった。
「落ち着けよ……!」
こんな状態でも疾走を止めないところを見ると、さきほど竜騎兵から受けた命令がまだ頭の中に残っているのかもしれない。
どういう過程でこうしてムーゼッグの人間に使われているのかはわからないが、その律義さに地竜の特質を見た気がした。
と、揺れる足場で体勢を整えていたメレアは、地竜の向かっている先に目を向けて、そこに仲間たちの姿を確認した。
――抜けた……のか。
ムーゼッグ騎兵の回り込みを突破した仲間たちの姿だ。
その光景を見て、まず先に安堵する。
しかし、このまま足元の地竜を放っておくとどうにもまずいのも事実のようだった。
――やらせない。
大術式の連続使用で身体に倦怠感を感じるが、仲間たちが無事な光景を見てそれ以上の活力がメレアの身体に戻ってきていた。
――俺はまだ、動ける。
「術式展開……!」
〈水神の麗刀〉が、その右の手に宿った。
そして、
「――許せ。……いや――存分に憎んでくれ」
そう小さく紡ぎながら、メレアは麗刀を地竜の首を目がけて振り下ろした。
◆◆◆
メレアは結局、三頭の地竜をすべて再起不能にした。
単体の人間にあるまじき戦果である。
だが、まだ戦いは終わっていない。
ここで満足するわけにはいかなかった。
つんのめって不気味な動きで崩れ落ちた地竜の身体に巻き込まれぬように、メレアは身体を叱咤してその場から大きく跳躍した。
一気に視界が広がる。
地竜が魔王たちの方へ疾走していたこともあって、仲間たちの位置は近かった。
〈風神の六翼〉を使えばすぐに合流できそうな距離だ。
そう確信して、さらにメレアは観察の視線を周囲に飛ばした。
こうして高い位置にいられるうちに、上から敵の状況も確認しておこうと思った。
――ムーゼッグ。
黒い紋章国旗がやたらに強い存在感を放っている。
しかしそんなムーゼッグの騎兵たちは、魔王たちの突破を許し、ついに足を止めていた。
彼らのもくろみは失敗に終わったのだ。
魔王たちは後方に逃げ道を確保した。
もちろん、いまだあの多勢に追われるという状況は変わらないが、包囲されるよりは百倍マシだ。
ムーゼッグ騎兵軍は第二撃の追撃に備えるためか、今の疾走と交戦で崩れた隊列を立て直していた。
こうして動きのない状態を上から見ると、その数に圧倒される。
――千……はいないか。……いや、しかし俺たちに気づいた騎兵だけでこれほどか。
おそらくまだ増える。
ここで自分たちを見つけたということをほかの場所で包囲網を張っている仲間たちに伝えれば、今に馬を駆って援軍がやってくるだろう。
そこにこれ以上地竜などというものがいないことを祈りながら、メレアは観察の視線をさらに飛ばした。
すると、
――なんだ?
メレアはムーゼッグ騎兵軍の中に、もぞりもぞりと奇妙に蠢く地点をいくつか見つけた。
よく見ると、それはムーゼッグの騎兵たちが密集してなにかをしている場所だった。
動いているが、なにをしているのかよく見えない。
メレアはさらに目を凝らした。
そして、ようやく細部を捉えた。
――槍を……地面に刺しているのか?
少なくともメレアにはそう見えた。
密集し、幾本もの槍を地面に突き刺している。
なんらかの策のために地面を掘っているのか、それとも土中に獣でも隠れていたか。
一瞬魔王たちの誰かがつかまったのかと思って胆が冷えたが、冷静に考えればさきほど視線を向けたときにみなの無事を確かめている。
人数は足りていた。
何度も何度も忌々しげに槍を突き刺しているムーゼッグ騎兵を横目に、メレアは〈風神の六翼〉を発動させた。
地竜の背からの跳躍はいつの間にか下降軌道に入り、すでにたいした高さも維持できていないが――仲間たちのところまでは届きそうだ。
それを確認したメレアは、最後にもう一度だけ視線をムーゼッグ騎兵の集団へと向けた。
やはりあの、槍を地面に突き刺しているという不可思議な動きが気になった。
最後のあがきで首を長くしながら視線を向けると――
騎兵たちが地面に刺している槍の先端に、『赤い液体』がついているのがかすかに見えた。
血だろうか。
そう思った直後、彼らが槍を突き刺していた地面のあたりに、
人間の手のようなものを見た気がした。
――っ。
それを気のせいだと思いながらも、メレアは一瞬――ゾっとした。
しかし次の瞬間には高度が下がって、細部が見えなくなる。
代わり、前を見れば仲間たちの顔が鮮明に見えるようになっていた。
◆◆◆
「無事かッ!」
メレアは風の翼をまといながら猛然とした速力でやってきて、砂塵を巻き上げながら魔王たちの前で急停止した。
メレアの到来はほかの魔王たちにまた一つ安堵を覚えさせたが、当のメレアはどことなく慌ただしさをたたえていた。
やや息を荒げさせたまま、きょろきょろと魔王たちの顔をそれぞれ確認している。
そんなメレアの問いに、近い位置にいたサルマーンが短く答えていた。
「……ああ」
その答えを聞いて、ようやくメレアは安心したように「よかった……気のせいだったか……」とつぶやいた。
だが、同時にサルマーンの異変にも気づく。
「サルマーン? どうした?」
サルマーンは身体を傷だらけにしているが、ぱっと見たところで命に到るような大きな傷は見えない。
なのに、その目はどこかうつろだった。
サルマーンは向こう、ムーゼッグ騎兵軍を見ていた。
メレアもそれにならって、同じく視線を向ける。
「多少は地竜の『悲鳴』が効いただろうか」
魔王たちが包囲を突破したことに加え、メレアが地竜を仕留めたのが効いているのか、まだ向こうは再度の追撃を保留しているようだった。
じりじりと近づいて来てはいるが、こちらはこちらでそれに対応するようにじりじりと離れる。
動き出せばこちらも動く。そういう態勢だった。
「……メレア、こっちに来るまでの間――見たことねえやつ、見なかったか」
「見たことねえやつ?」
再び適度な緊張を身体に敷いて、次にどう動くべきか思案していると、ついにサルマーンがメレアに一瞥を送りならそんな言葉を紡いでいた。
メレアはとっさにサルマーンの言わんとすることを理解できなくて、首をかしげながら何のことかと問い返す。
「……ああ。俺な、さっき――」
サルマーンは悲哀に満ちた目をメレアに向けた。
「――『助けてもらった』んだ。ムーゼッグ兵じゃない、別の騎兵に」
メレアはそのことに気づかなかった。
自分は自分で地竜相手に夢中だった。
知らない誰かが魔王を助けたという話は、自分たちの立場を思うと素直に驚きに値するが、かといってサルマーンが嘘をついているようには見えない。
メレアはすぐにその話を信じ――
直後にハっとした。
一瞬のうちに、メレアの頭の中にある予想が浮かび上がっていた。
――まさか……。
気づいたが同時、身体の奥底から大きな震えが来た。
根拠などさして存在しないのに、一瞬のうちに疑惑と疑惑がくっついて、あるハッキリとした輪郭を象ってしまう。
――さっきの、『アレ』は――
そんなメレアのハっとした表情に、またサルマーンも目ざとく気づいていた。
「見たのか」
「……っ」
「見たのか! メレアッ!」
サルマーンの目に、すさまじい悲哀が満ちていた。
見たこともないような、底なしの哀しみが瞳に映っていた。
あのどこか飄々としているサルマーンの顔は、今にも泣きだしそうなほどに歪んでいる。
そしてメレアはサルマーンの言葉で、すべての疑問に確たる答えを得てしまっていた。
だから、
「…………」
言えなかった。
◆◆◆
あの、人の手のようなものは――たぶんまやかしではなかった。
◆◆◆
サルマーンを救おうとして乱入し、ムーゼッグ軍に魔王の一人を取り逃させた誰かが、そこにいた。
だから、忌々しげに、何度も、何度も、槍を――
「――あああッ!! なんだっ! なんだよっ! 俺たちがなにをしたっていうんだ!! 俺のせいで、また俺のせいで!! 人が死んだ!! 全部この魔王なんて言葉のせいだ!! ――あああああああああッ!!」
サルマーンが絶叫した。
おそらく、メレアが視線をそらしたのを見て気づいてしまったのだろう。
サルマーンは泣いていた。
両膝に手をついて、敵の前で跪くまいと必死に身体を支えている。
その姿はあまりに切なかった。
身を斬るような絶叫が、メレアの耳を穿ち続けた。
そして彼の絶叫が、状況を理解しはじめたメレアの中に、あるきっかけを生ませようとしていた。
怪物の牙が、その輪郭を確定させようとしていた。
鋭く、大きく、異様な形態に――





