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百魔の主  作者: 葵大和
第四幕 【邂逅への序曲】
44/267

44話 「きっとお前は狂ってる」

「魔王……? お前今、魔王と言ったのか?」

「そうだ」

「――フフ」


 キリシカは笑みを浮かべていた。

 怜悧(れいり)そうな美貌に妖しい微笑。

 それでいてどことない好戦的な色が瞳に見え隠れするさまは、棘のある薔薇という表現がよく似合う。


「それも、二十人と」

「間違いなく」

「――どこに?」

「――手元に」

「……」


 キリシカの妖しい光が宿った目が、ハーシムの双眸(そうぼう)を射抜いていた。

 まるでハーシムの瞳の揺蕩(たゆた)いに動揺の色を探すような、そんな視線である。

 ハーシムは一度たりともその妖しい視線から目を逸らさなかった。

 アクアブルーの美しい瞳で、キリシカの目を射抜き返す。


 一転すれば恋人同士が言葉なく見つめ合うロマンチックな状況にも見えたが、その実二人の間にあったのはもっと殺伐とした『死線』のやり取りだ。

 特にハーシムにとっては、まさしくキリシカの視線が死に直結しかねない状態であった。

 ここで同盟を締結できなければ、おそらくレミューゼは死ぬ。

 それはハーシムにとっての死と同義であった。


「――証拠は?」

「見せてやりたいところだが、見せようがない」

「はて、どういうことかな」

「すでにムーゼッグを討つために送り出している」

「手が早いな、ハーシム。同盟を結ぶ前からそんな用意か。普通なら、同盟を締結してから、再び我ら四人で戦術を練り、その魔王を行かすべきではないのか?」

「――ハッ」


 キリシカの舐めるような問いに、ハーシムは鼻で笑って返した。

 キリシカが少しムっとしたことに、隣ではらはらとしていたムーランとファサリスは気づいていた。


「必要がない」

「なんだと?」

「――必要がないのだ、キリシカ。お前たちが、あの『ブラッド』に、一度たりとも勝ったことがあったか?」

「っ……!」


 それはハーシムの挑発じみた言葉だった。否、もはや完全な挑発だ。

 唐突に好戦的な言葉を放たれたキリシカは、一転して虚を突かれたような気分になっていた。

 どこに疑惑の剣を突きこんでやろうかとハーシムを観察していたら、向こうからの思わぬ反撃にあったのだ。


 自分が『攻撃する側』だと思っていただけに、その思わぬ反撃にキリシカの息がひっこんだ。

 そして次の言葉に――詰まった。


 その瞬間を、ハーシムの目は見逃さなかった。

 キリシカが次の言葉を紡ぐ前に、たたみかけるように言葉を並べ立てる。


「あの学園でブラッドに一度たりとも勝てなかったお前たちの戦術が、本当に必要なのか?」


 ハーシムは両腕を広げ、さりげなくみずからの存在を大きく見せながらキリシカに問い返していた。


「――否だ。否だよ、キリシカ」


 そう紡ぐさまはまさしく不遜(ふそん)の権化である。

 傲慢の化身である。

 しかし、事実であるがゆえに、キリシカはとっさにハーシムを(とが)めることができなかった。

 ハーシムの強気は暴論に見えて、しかし確固とした事実に基づいていた。


 ブラッド。

 つまりあのセリアス=ブラッド=ムーゼッグに、戦術において土をつけたことがあるのは目の前のハーシムだけである。

 その事実が、キリシカの唇の上に重くのしかかっていた。

 なにかを言おうとしても、とっさにその重みが口に(ふた)をした。


「協力すればいい案が出るか? ――違うな、戦術はそういうものではない。

 案を出すのは当然有用だ。折衷(せっちゅう)もあるいは素晴らしい。――『だがな』、それはそれぞれが『可能性のある案』であってこそ意味を()すのだ。(はな)から可能性のない案を聞き、それを戦術に取り入れることは、愚策極まりない。成功作を失敗作へ(おとし)める行為だ」

「い、言いたい放題いってくれる……! そういえばお前は皮肉と辛辣な物言いが昔から得意だったな!」


 さすがのキリシカも、ハーシムのあんまりな言い草を聞いて思わず悪言を口に乗せる。

 美貌の上に怒気が乗り、またその怒気がひとまず唇の重みを取り去った。


 対するハーシムは、それでも調子のいい笑みを崩さなかった。皮肉の乗った、実に得意げな笑みだ。


「……」


 だが一転してハーシムは何も言わなかった。

 『なにか言ってみろ』とでも言わんばかりに、キリシカの目を見て言葉を待っている。

 キリシカは一方で急かされているような、一方で手加減をされているような、不思議な感覚に(おちい)った。

 なによりも、会話を主導されているという感覚を覚えて(いら)立ちがつのりはじめていた。


「……くそっ! 言い返せない自分にこれほど腹が立ったのは初めてだっ!」


 しかし結局のところ、キリシカはハーシムの辛辣な言い草に悪言を飛ばせても、その内容にまで否定を飛ばせない。

 代わり、またもや射殺すかのような視線をハーシムに向けて、


「……本当に、策があるのか。その魔王の力を使えば本当にムーゼッグとあのセリアスに――対抗できるのか」


 そう訊ねていた。

 先ほどのハーシムの言葉にとっさに言い返せなかった以上、その前提に乗るしかなかった。


 対するハーシムは、


「できる」


 即答である。

 ハーシムはキリシカが同盟賛同へと心の天秤を傾けたことを見逃さない。

 その揺れを逃すまいと、再びゆるぎない声音を響かせた。


「だから早めに手を打った。――まあ、決してお前たちの戦術をすべて否定するわけではないのだ。ただ、『おれの策』を実行するのに、あまり時間がなかったのだ。ゆえに、悪いとは思いつつもそちらを優先させてもらった」


 今度はハーシムが『引く』。

 時間がないから自分の策を優先させたという理屈の根拠を、先ほどの『事実』に(もと)づかせながら。

 されどハーシムはそうやって引きつつも、通すべきところはそのまま通しに来ていた。


「――そうか」


 こうなるとキリシカはにっちもさっちもいかない。

 ハーシムは同盟相手となる自分を最後にはうまいこと立たせながら、それでいて疑惑の剣が突き刺さりそうだった隙間を先に埋めてしまっていた。

 その隙間に埋まっているのは、硬い硬い『経験事実』という名の鉄だ。


 いざ冷静になってみれば、この交渉にそういう攻防の外観があったことには気づけた。

 キリシカとて三王の一人としてそれくらいの聡明さは持ち合わせていた。

 だが、


 気づいたときには終わっていた。


 一瞬の虚を突かれ、挑発するように振るわれた大ぶりの斬撃を避けている間に、一方で鎧の方を固められていた。

 ようやくその斬撃をいなして「今度こそ」と意気込んだときには、目の前に強固な――それでいてやや胡散(うさん)くさい――理論武装を身にまとった重装兵がいた。


 それでも結局のところ、自分の剣はその鎧を貫けそうになかった。

 あとは向こうがそのまま、同盟という名の境界線を越えてくるだけで勝負がつく。


 ――巧妙にしてやられた。


 言葉、表情、声音、仕草、さまざまなものによってうまいこと操られていた気さえする。

 終わってみれば、キリシカの胸中に浮かんだのはそんな敗北感だった。

 そもそもこれは勝ち負けの勝負ではないし、全体として見れば友好的な思いが土台になってはいたが、それでもなんだか『負けた』という思いがキリシカの中にはあった。


 だけど、悔しいからといつまでも黙っているわけにはいかない。

 キリシカは意を決して、ついに口を開いた。


「――わかった。……絶対だな。絶対、ムーゼッグに一泡吹かせられるのだな」

「ああ、もちろんだ。一泡吹かせるだけではないぞ。これを契機に、東大陸からムーゼッグに対抗する勢力を組み上げるのだ。あの暴政を許していては、いずれ東大陸は滅ぶ。それぞれの国家を救うためにも、今こそ最初の勝利を得なければならないのだ」


 流麗に、ゆったりと、しかし力強く。

 完璧な声の調子でハーシムは言った。

 その瞬間に、キリシカは勝負が決したことを再確認した。


「……わかったよ。ズーリアもレミューゼの加入に賛同しよう」


 キリシカは少ししょぼくれながらハーシムに言った。

 さきほどまでの棘のある薔薇という様相は消え、()ねた少女のような顔色である。

 それを見たハーシムは、今度は屈託のない笑みを浮かべて大きく笑った。


「ハハッ、なんだキリシカ。またおれに口論で負けたのが悔しいのか? 相変わらず見た目はそんな麗人風なのに、中身は子どもっぽいままだな」

「う、うるさいっ! これでも日々頑張っているんだぞ! 臣下たちが『もっと厳かに』『そんな駄々っ子みたいにへそを曲げてはなりませんよ』とか、いろいろうるさいのだ! だから頑張っているんだっ!」

「ああ、ああ、わかったわかった」

「お、お前っ! 真面目に聞いてないな!? お前はいっつもそうだ! あのときも――」

「わかったって、あとで聞くよ。あとでな」


 ぎゃあぎゃあと喚きはじめたキリシカを片手であしらいながら、ハーシムは残る最後の一人を見ていた。


 不動の巨山、フィラルフィア王――ファサリスである。


◆◆◆


「残るはお前だな、ファサリス」

「……ああ」


 ハーシムの視線と言葉に、ファサリスは獣の唸り声にも似た低い声で答えた。


「その様子だと、今のムーランとキリシカへの言葉だけではお前を(うなず)かせることはできないらしい」

「大方賛同ではある。だが、私は二人よりも慎重派でな」

「お前がいるから三王同盟が分離せずにいられるのかもな。この二人は優秀だがやや奔放の()が強い」

「お前もたいがいだ、クード。――いや、ハーシム」


 ファサリスはゆったりとした様相を崩さずに、ハーシムをまっすぐ見た。

 腕を組んでどっしりと構えている分、キリシカよりも壁を感じる。


「私が気にかけているのは、勝利のあとのことだ」

「勝利のあとのこと?」

「そうだ」


 ファサリスは満を持して話しはじめた。


「勝つ。ああ、十分な魔石砲の余力と、お前の戦術があれば、あのムーゼッグに勝つかもしれない。だが、『勝って終わり』、ではないのだ」

「というと?」


 ハーシムの問いに、ファサリスは頷きを一つ挟んでから答える。


「……まず、たった一度の戦で滅ぶほどムーゼッグは小さな国ではない」

「だろうな」

「いかに魔石砲等の戦力があるとはいっても、彼我の戦力差を考慮すれば一撃でムーゼッグの息の根を止めるのは無理だ。もちろん、こういう局地戦に勝利することで対ムーゼッグの政略が有利になっていくのは間違いないだろうし、反撃の契機になるのもそのとおりだろう。だが、結局はお互いに生き残る」

「ああ」

「そこからが問題なのだ、ハーシム。仮に、僅差(きんさ)で勝ったとしよう。さすがに地力では向こうが勝っている。それは戦略的戦術的な地力ではない。『国家全体』で見た地力だ。つまり、端的に言えば、『戦の傷からの復帰力』は向こうの方が上なのだ。それだけの数の力が、ムーゼッグにはある」

「そう――だな」


 ハーシムとてそれはわかっている。

 国家の領土、資源、なにより人という最高の財が、ムーゼッグには多く存在する。

 三ツ国とレミューゼを合わせて、互角になるかすらわからない。

 現在進行形でムーゼッグは大陸の北と西に領土を広げているくらいだ。


「僅差で勝ったとき、されど、おそらくこちらも傷を負うだろう。勝つというからに、全体で見ればこちらの方が傷は小さいのだろうが、はたしてそこから万全へと戻るのはどちらの方が速いのか」

「……」

「全体で見れば、十中八九ムーゼッグだ。我らは近しいとはいっても、所詮独立した国家同士。なにより、自国を優先したいと思う気持ちは王であるからみな同じだろう」


 ムーランはクシャナ王国を。

 キリシカはズーリア王国を。

 ファサリスはフィラルフィア王国を。

 そしてハーシムは――レミューゼ王国を。


 第一に考えている。

 第一に考えなければならない。

 それが王の務めである。


「だから、私はそうなったとき、なによりもまず自国の状態を万全に戻すよう努める。だがそれでは地力でムーゼッグより劣る私たちは、やつらに追いつけない。そしてムーゼッグと隣接している私たちは、まっさきに『報復』の対象になる。戦の傷が癒えぬうちに報復されれば、さすがに耐えられまい」

「なにが言いたい?」


 ハーシムの直接的な問いに、ファサリスは一拍を置いてから答えた。

 大きな口が、わずかに威圧の音色をともなった言葉を紡ぐ。


「――『保証』が欲しい。レミューゼは奥間にいる。三ツ国を壁にできる」

「ああ、そうだ」


 ハーシムはそのことを否定しない。地理を見れば瞭然(りょうぜん)だからだ。


「私は私の国のために、ハーシム、お前の国の援助を集中的に受ける保証をもらいたい」

「……なる、ほど」


 ハーシムはファサリスの言葉を受けて、わずかに笑みを浮かべた。

 それは滑稽さからくる笑みではなくて、武者震いの前兆として自然と浮かんでしまうような――好戦的な笑みであった。


 おそらく三王の中ではもっともファサリスが交渉巧者(こうしゃ)であった。

 ムーランは魔石の流入を取り付けたという点で、一応自国に優先する利益を確保している。

 キリシカは三ツ国全体をあくまで母体とし、言質(げんち)をハーシムから引きだした。

 ただし、それはズーリア王国に限定された権利ではない。

 見方を変えれば、キリシカがもっとも損をしている。――自国に特筆する利益をハーシムから引きだせなかったからだ。

 また同じ見方をすると、ファサリスは最も優秀であった。

 ハーシムはそれを内心で確信していた。


 ファサリスは、自国を第一に守るための保証を、いわばその『復興優先権』を、ハーシムから引きだそうとしたのだ。


 あくまで三ツ国は同盟関係にある。

 それは決して『同体』ではない。

 王として最も正しい選択であるか否かの判断材料は、おそらくそこにあった。


 だからハーシムは笑った。

 これから手を取り合おうという相手の内側に、自分の認めうる王の才覚が輝いているのを見つけてうれしくなった。

 そして当然、そんなハーシムにも準備があった。


「いいだろう、ファサリス。――『くれてやる』」


 なにを。


「今のレミューゼと、そして――『未来のレミューゼ』を」


 その日、三王の目の前で、一人の〈狂王〉が誕生しようとしていた。

 後世の歴史家の間で極端に評価の分かれるその男は、この日初めてその評価の断崖(だんがい)となる言葉を紡ぐ。

 その言葉に対する評価は前述のとおり歴史家の間で分かれたが、しかしただある一点に関して、両派が口をそろえて言った言葉があった。


 『いずれにせよ、さまざまな意味で狂っている』


◆◆◆


「未来のレミューゼ?」


 ファサリスは予想だにしないハーシムの言葉に、思わず首を傾げた。


「そうだ。未来のレミューゼをも、だ」

「くわしく聞こう」

「なに、難しい話じゃない」


 ハーシムは淡々として言った。


「もしムーゼッグ相手に『納得のできない勝利』しか収められなかったら、レミューゼのすべてをやる。――『すべて』だ。今のレミューゼ、そして――」


◆◆◆


「これから生まれ来るであろうすべてのレミューゼの人材をも」


◆◆◆


「……馬鹿な」


 ファサリスはハーシムの言葉の意味に、誰より早く気づいた。

 同時、目の前で両腕を広げて高々と宣言するハーシムに、なにかおそろしい影を見た。


「全部だ、ファサリス。今のレミューゼはこのおれにすべての希望を託している。おれがちまちまと父の目をかいくぐって行政を持たせてきた成果だろう。あまり目立つとせっかくのムーゼッグの目に対する隠れ(みの)がなくなってしまうから、最近はやや控えさせているが、それでもおれは今のレミューゼの民にとって希望として語られている。おそらくおれがここに来なくても、もうしばらくすれば情報がどこかから漏れただろう。それくらい、おれは民にとって押さえつけられぬ光であるのだ」


 まるでハーシムの話しぶりは昔の悪徳の魔王のようだった。

 自分を最上位に、ほかを支配する、強大無比な力の権化。

 傲慢の化身にして、みずからを絶対的に正当化する話しぶり。

 そこに根拠などなくとも、そのあまりの強気に身を委ねてしまいたくなるほどの、圧倒的な自信の顕現であった。

 カリスマと称するなら、まさしくそれであると言いたくなるような雰囲気を、そのときのハーシムは放っていた。


「そんなおれは、やりようによってはレミューゼの民にそうと悟られず、自分の意のままに彼らを操れる。おれにはそれだけの小細工のうまさがあるし、演技も得意だ。だから、民に悟られぬよううまく、お前に尽くして見せよう。まるでレミューゼを思っての方策であるかのように、その実まったくレミューゼの未来など考えていない、無償の、そして至上の奉仕を――お前にくれてやる」


 『狂ってる』。

 一瞬ファサリスは口からそんな言葉が出そうになった。

 まるでそれが本心であるかのように振る舞うハーシムに、ファサリスは同じ統治者側の人間として、強烈な恐怖を覚えた。

 

「おれが生きているかぎりレミューゼを奴隷にさせてやるぞ。そうすればお前の国は、小さいとは言えど一国すべての人材を、意のままに自分の国のために使えるのだ。戦を経ずして他国を略奪したような状態だ」


 錯覚する。

 目の前にいる男が同じ人間であるのか不安になる。

 この男は人間ではない別の『何か』なのではないか。


「どうだ、これは保証だぞ。おれが生きているかぎり、裏切られる心配もない。術式誓約でもなんでもしてやる。すべてのレミューゼを、お前にくれてやると」


 妖しい響きを持った声が耳の中をくすぐる。

 一種の快感すらもたらすその声に、しかしファサリスは心底から恐怖した。


「――」


 魔王だ。

 ふとそんな言葉がファサリスの脳裏に浮かんだ。

 ――ここに、古い書物の中に誇張されて記載されるあの悪徳の魔王がいる。

 いや、もしかしたら目の前の存在にかぎっては誇張ですらないかもしれない。


 ――こいつこそが、本当の魔王なのではないか。


 ファサリスも、ムーランも、キリシカも、ハーシムの笑み交じりの高々とした宣言を受けて、胸中に同じ言葉を浮かべていた。


「……う、恨まれるぞ、ハーシム。長い歴史の上に積み重なったレミューゼを、その誇りもなにもかもを、お前は一人で潰すのか。――潰せて……しまうのか」


 それは筆舌に尽くしがたい重圧をともなう。

 たった一人で、先人が築いてきた国家という存在を完全に潰しきる。

 もしそういうことになったら、ハーシムは〈魂の天海〉に無事にたどり着けまい。

 天海に昇ることすら許されず、数万、数十万、数百万、数千万、すべてのレミューゼの民の魂に罵倒され、打たれ、死んでもなお救われることなく、苦しみ続ける。

 あらゆる次元から隔絶された、至上の孤独。それを孤独というたったの二文字で形容してしまっていいのかすら判断できないほどの、無比の暗黒。


 ――無理だ。


 そんなこと、一人の人間ができるわけがない。

 一人の人間が、膨大な人と、時間と、労苦によって築かれた結晶を、崩せるわけがない。

 『人間にそこまでの強さはない』。

 それをやるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ。

 ハーシムの立場を自分に置き換えたとき、ファサリスは冗談ではなくそう思った。


「やるぞ。おれはやるぞ、ファサリス」


 だが、まるでそんなファサリスの内心の動揺を見抜いたかのように、アクアブルーの瞳がファサリスを射抜いていた。

 おそろしい目つきだった。

 おそろしいほどにまっすぐで――正直だった。


「く、狂ってるぞ、ハーシム。それは決して王が言ってはならぬ言葉だ。みずからおのれの民を奴隷にさせるのか」

「負ければ終わりなのだ。ならばいっそ、偽りの平和をくれてやる。なに、『気づかなければかえって幸せ』だ。ここでムーゼッグにたしかな勝利を得られないのなら、いずれレミューゼは潰れる。ならば最後に、偽りの安寧(あんねい)をくれてやろう。

 負ければ死ぬ。中途半端な勝利でも無知の奴隷。背水の陣とはこのことだな。――ハハッ!」


 笑った。

 ハーシムは笑っていた。

 そしてその目は――


 見ようとして、ファサリスはやめた。


 もし目が笑っていなければ、ハーシムは『無理』をしている。そういう予想が立てられる。

 だが、


 もしその目まで、高揚に(いろど)られたまま笑っていたら。


 この友人を、これからも友人として見られないかもしれない。

 だからファサリスは、ハーシムの目に答えを見つけるのを躊躇(ためら)った。

 そして、


「――で、どうだ、ファサリス。満足か」


 ついにハーシムの声音が元に戻り、ファサリスは顔をあげた。

 ハーシムを見ると、いくばくか前までの怜悧(れいり)そうな表情がその顔に宿っていた。さきほどの狂気の影はもう見えなくなっていた。

 だから、ファサリスは答えを返した。


「……ああ。私の要求に対する答えには、なっているとも」


 それが正しいか否かは置いておいて、合理的に見れば、フィラルフィア王国はたしかな優先復興権を得られた。

 だから、外交交渉としては成功だ。

 そもそも最初の提案の時点で笑って頷いていれば終わる話だった。

 だがファサリスはハーシムのことを近しく思っていたがゆえに、逆にハーシムのやりようを気遣ってしまった。


 ――私がただ、甘いだけなのだろうか。


 ハーシムのことだから、すべてを見通したうえであんな言い草をしたのかもしれない。

 むしろそうに違いないと、ファサリスの方が信じたかった。


 威圧、恐怖、狂気、甘言。

 きっとすべて慎重派である自分を丸めこむための計算高い方策だったのだ。


 ――……そうであれ。


 ファサリスの思いはその胸の中で静かに揺蕩(たゆた)った。


「よし、ならば書面を。さっさと〈四王同盟(しおうどうめい)〉を締結して、すぐに戦の話に移らねばな」


 そんなファサリスをおいて、いつの間にかハーシムがてきぱきと懐から大きめの(いん)を取り出し、裏に控えていたアイシャから受け取った紙に押印していた。契約書かなにかのようだった。


 今にこんな話をしておいて、すぐに次を見ている。

 まるで、ただ前だけを見て突き進む巨竜のようだった。

 この男なら愚王を相手取ったクーデターなど簡単にこなしてしまうだろう。

 淡々と『ここまでは想定通りだ』とでも言わんばかりに事を進めるハーシムに、三王はもはや文句の一つも出てこなかった。


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