33話 「怪物は笑っていた」
声のみで心臓を握りつぶされてしまうかと思うほどの、本能に訴えかけてくる強烈な咆哮。
アイズはシャーウッド商会支部の階上でそれを聞いていたが、思わず足が二歩も後ろに下がって、それでも足りず、両腕で身体を抱いたまましゃがみ込んでしまった。
「う、うわ……っ」
最初の咆哮が一番強烈だった。
そこから以後は、まるで何かに遮られるようにして、断続的に跳ねるような声と、あとは硬いものを打ち付けるような、声ではない音が、微弱に響いていた。
地下からの音でこれだけ聞こえるのだから、実際はもっと大きな音なのだろう。
と、アイズがエルマに肩を抱き寄せられ、そのおかげで少し心臓の鼓動も落ち着いてきたころ、彼女はシャウのため息を聞いた。
「……はぁ」
やれやれというふうに肩をすくめて――いや、すくめるというより落として、シャウは続ける。
「今の、絶対響きましたよ? ――響きましたね」
自分で言いながら、自分で確定の相槌を打つさまは、少しおもしろかった。
「まあ、まだムーゼッグの追手はここを嗅ぎつけていないと思いますし、この咆哮が私たち魔王に関係するだなんて普通はつなげようがありませんが……、やっぱり目立つのは避けたいですよね……」
一つ目の街に寄らなかったというアドバンテージは、多少ながら自分たちの心に余裕を与えてくれる。
自分たちがこの〈ネウス=ガウス公国〉に来てから一時間と過ごしていない状況も、また同じくだ。
こういう要素がなかったら、もっと慌てふためいて、周りの視線にびくびくしながら公国の東門を足早にくぐり抜けていっただろう。
とはいえ、これはこれで時間を無駄にしているつもりはない。
二時間で東門に集合するというのはなかなかにギリギリの時間設定であったし、自分たちは自分たちの、足を探すという役割をしっかりとこなした。
それをこなして初めて、ほかの魔王を待つまでのこのわずかな十分足らずが、貴重な休息となったわけだ。
そう、たかが十分。
――だが、
「この十分で病んだ地竜をなんとかしようというのも、やっぱり途方もなくぶっ飛んだ考え方ですよね」
シャウはまたため息を吐く。
シャウとてあのメレアがなにかと規格外であることはわかっていたつもりだが、ここでまたなにかをしようというのだから、まったくもはや、手の付けようがない。
「いやホント、なにをどうしたらあんなに弱っていた地竜が、こんな咆哮をあげるまでになったのだか」
がたんがたんと揺れはじめた商会の床と、みしみしと軋む商会の石壁。
一体どんな魔法をかけたのだろうか。
竜死病への薬効術式が発見されたなんて話は聞かないから、おそらく本当に、理屈抜きの『魔法』でも使ったのではないか。
「一応、もう一度訊きますが、竜死病への薬効術式ってまだ発見されてませんよね?」
確認を取るようにシャウがザイードに訊ねた。
「ええ、まずもって検体が少ないですからね。罹るのが竜ですし。今回こうして死ぬ前の竜死病患者――患者っていうとなんだかしっくりきませんが――を得られたのもかなり運が良かったと思います。竜死病は竜が死ぬとほとんど痕跡を残さないと言いますから。あと、なかなか薬効術式が見つからない理由に、竜死病の原因菌が代々厄介な変性を重ねているという話もあります」
「それが人間に罹る病でなくて本当によかったと、今切実に思いました」
――となれば、やはり魔法だ。いやいっそのこと呪術かもしれない。
半分冗談、半分本気で、シャウは思った。
ともかく、こんなに激しくのたうちまわるほどだから、術式で綿密に計算されたような薬効系ではないのだろう。
劇物を使ったとか、ショック療法を使ったとか、そういうやや脳筋臭のするタイプの方法を取った可能性さえある。
「……まあいいでしょう。――あと五分。五分たってもメレアが上がって来なかったら、見たくないですけど、もう一度地下に行って、呼び戻すことにしましょう。――それと、馬は逃げてませんよね?」
「ええ。そもそも十五頭もの馬で街を走るのは目立ちますので、最初から東門の方に送らせています」
「――よろしい」
シャウは満足げに言った。
その後も何分かの間、シャーウッド商会の建物は地下からの揺れの余波を受けた。
徐々に徐々に収まっていく揺れや咆哮音を感じながら、みなは地下からメレアとマリーザが戻ってくるのを待った。
◆◆◆
地下からメレアとマリーザが戻ってきたのは、最初の咆哮が上がってからおよそ四分後のことだった。
シャウたちが言葉を切ってからどんどんと収まっていった商会地下からの揺れと音は、すでに鳴りを潜めていた。
階段を昇ってきたメレアは、身体の至るところに切り傷のようなものを作っていた。
さらに言えば服がところどころ破けている。
マリーザも珍しく衣服をやや乱していたが、階段を昇り終えて振り向いたときにはすでにそれらが整っていた。
「だ、だいじょうぶ……!?」
マリーザと比べてもあきらかに消耗の激しいメレアに気づいて、まっさきにアイズが駆け寄っていく。
顔は焦燥に彩られていて、ぎゅっと握った拳が震えていた。
そんなアイズに対し、メレアは笑顔を見せて安心させるように告げる。
「うん、大丈夫だよ。ちょっと地竜とじゃれあってただけだから」
「地竜とじゃれあうって普通の人間だとものすごくわかりやすく『死』を意味しますからね? それ大丈夫の証明になってませんからね?」
次にメレアに声をかけたのはシャウだった。
「まあいいじゃん。本当に大丈夫だからさ」
メレアはシャウの方を振り向き、やはりあっけらかんと笑みを返す。
そしてさらに続けた。
「あの地竜、そのうち回復すると思う。俺の勝手で助けただけだから、これからあいつをどういう処遇にするかには口を出さないけど」
回復すると思う。
その言葉にまたシャウは愕然とした。
竜死病を本当に治せるとは思えなかった。
むしろ、実はあの地竜に苦しまないように最後の『安らぎ』を手ずから与えてやっているのかもしれないと思ったほどだ。
「そんなことを言われて、むげにできると思っているのですか?」
シャウはまたため息を吐いた。
「最近私の金本位主義にやたらとあなた介入してきますね。しかも返しがたい借りをぽんぽんと私に作らせながら」
「ハハ、そんなつもりないって」
「あなたがそうでも、私は結構気にするんですよ? 金本位主義だからこそ、貸し借りにはうるさいんです」
それはシャウの本心からの言葉だった。
シャウは自分自身をわりと小賢しい、小ずるいタイプだと自認していたが、それでいて無視できない貸し借りにはやや神経質だ。
借りを作るのが嫌い、というシャウの言葉は、実はそのシャウの性格を如実に表していた。
金を扱う『取引』に執着しているからこそ、大きな借りを踏み倒せない。
大きな借りを踏み倒せないから、そもそも借りを作りたくない。
だが、このメレアという男はどんどんと自分に借りを作らせる。
健全な地竜の商品としての価値はおそらくすさまじいものになる。
竜死病によって下限にまで下がっていたあの竜の価値が、たったの十分たらずで跳ねあがった。
シャーウッド協会に、莫大な利益をもたらしたことになる。
「また、借りです」
小さくシャウは言った。
メレアの提案に「ふむ、いいでしょう」などと軽く言ってしまった自分を、今になって少し恨んだ。
――メレアへの認識を誤っていた。
もっと戦闘に特化したタイプの人間かと思っていたが、自分が思っていた以上にメレアは広範な領域に手を伸ばせる巨大な怪物のようだった。
これからこの男にまともな常識が通用するとは思わない方がいい。
ムーゼッグとの遭遇戦のときから何度もそう言い聞かせてきたはずなのに、それでもなお、身構えた自分の警戒網を新たな手法でぶち破っていく。
「……困ったものだ」
最後の一言は、シャウ本人以外には聞こえないような小さな声で紡がれたが、一方でその声に楽しげな音色が混ざっていたのをシャウ自身どこかで認めていた。
そのあとで、シャウは再びメレアの方に意識を向けた。
メレアの頬や身体についていた傷が、いつのまにか消えていた。
深い傷ではなかったものの、治るのが早すぎる。
しかしシャウはもうそのことに驚かなかった。
代わりに、傷は治っても破れた衣服はもとに戻らないだろうと思って、商会の壁に掛けてあった少し値段の張るどこかの地方の民族衣装を、メレアの方に投げつけた。
次いで、衣装を受け取ったメレアに、「それに着替えてください」と目で訴えかける。
メレアもその意図に気づき、おもむろにその場で服を着替え始めた。
「で、そろそろ時間かな?」
着慣れない衣装に「これどうやって着るんだ……」と戸惑いながらも、マリーザの手伝いもあってなんとか袖を通したメレアが、首をかしげながらシャウに訊ねる。
「ええ、ここから走って東門へ向かって、ちょうど約束の時間の二、三分前につくでしょう」
「じゃあ、行こうか」
メレアはシャウの返答を聞くや否や、エルマから寝息を立てているリリウムを受け取り、再び担ぎ直す。
その状態でリリウムの寝顔を横目に見て、
「――ハハ、あの咆哮でも起きなかったって、リリウムもかなり胆が据わってるな」
楽しげに笑いながら、シャーウッド商会の出口に向かった。
そんなメレアに、エルマ、アイズ、マリーザが順に続き、最後にシャウが、
「はあ。……いけませんね。最近私、やたらとため息が多い気がします……」
「心中お察しします、シャーウッド様」
ザイードもそのあたりですでにメレアの異常さに得心がいっていたらしく、憐れみを含んだ視線をシャウに向けていた。
彼らのような商人気質の者たちにとって、『予想がつかないもの』はあまり好ましい存在ではない。
大きな交易のときなど、ほかの商売人の行動を予測し、裏をかいて交易品を運ぶ場所を決めたりするが、一方でそれは的が外れた途端に大きな損失にもなる。
だから、予想がつかない要素は好きではない。
それを悟っての、シャウに対する憐れみの視線だった。
対して、シャウは、
「まあ、誰にも予想がつかないからこそ、莫大な利益が入る、という話もあるんですがね」
言外に「そういうのも悪くないですよ」と、自分を慰めるような言葉を口にしながら、ザイードに片手を振ってメレアたちを追いはじめた。
「商品のさばきは今までどおりあなたに任せます。もしかしたらムーゼッグやほかの国家の追手がここを嗅ぎつけてくるかもしれませんが、その際は――」
「心得ております。わたしとてシャーウッド様に返すに返せない『借り』がありますから。死んでも口は割りませんよ」
「嬉しい言葉ですが、まあ、適度に自分の身を気遣いなさい。死んだら金は稼げませんからね」
その言葉を最後に、シャウは商会の出口から出ていって、姿を消した。
「嵐のような方々でしたね……」
そういってザイードは片眼鏡の位置を指で直しつつ、肩をすくめる。
「まあ、たしかに、たまにはああいうのも悪くないかもしれません」
そんなザイードも、最後には少し楽しげであった。
終:【時代の奔流】
始:【動乱の予感】
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