27話 「はたして誰が魔王なのか」
「ハーシム様、一つ小耳に入れておきたいことが」
ハーシムたちが叛逆の狼煙をあげた日から、数日が経過していた。
ハーシムはその日、王城の質素な自室でレミューゼ王とそのほかの兄弟を謀る算段を考えていたが、そこへ侍女アイシャが紅茶の入ったコップを差し出しながら囁いてきたので、一旦思考を切った。
顔をアイシャの方へ向け、ほんの少し目を丸くして反応を返す。
「ん? なんだ、アイシャ」
「ある方がハーシム様にお話があると。詳細は――ここでは少し」
アイシャはそういって、それ以上の言葉を慎んだ。
「別に、そう気にすることでもないぞ。――密偵なんてものはいない。そんな手腕すら父にはないからな。おれを無能であると信じたい父は、あえておれの様子を窺おうとしないのだ」
アイシャが何を気にしているのか、それを即座に察したハーシムは、演技ぶって肩をすくめてみせる。
それでもアイシャは譲らなかった。それどころか、さらなる追撃をしてみせた。
「もしかしたら――『ムーゼッグ』の」
「バカな。……おい、まさか本気で言っているのか? もしすでにムーゼッグの密偵に入り込まれていたら、かなり状況が――」
アイシャの追撃の言葉は効果てきめんで、見事ハーシムをたじろがせた。
周辺の密偵事情を、アイシャというメイド兼密偵たる才女に任せているハーシムは、当人にそう言われるとさすがに身構えずにはいられなかったのだ。
しかし、
「冗談でございます。こちら側の密偵を城に忍ばせておりますが、曲者の姿はひとつもありません。ですが、念には念を。油断はいけませんよ、ハーシム様」
最終的にはアイシャの悪戯気な笑みに、大きく嘆息することになった。安堵の息でもあった。
「冗談が過ぎるぞ、アイシャ」
「申しわけありません。ですが、今万全を期さずしていつ万全を期すのか、という私の訴えも一理ございますでしょう?」
「まあ……それもそうだな。――わかった、わかったよ。ああ、謀り事にばかり思考がいっていた。もう少し近場の様子にも注意しなければな。さて、ならば場所を変えよう」
ハーシムはアイシャの差し出した紅茶に一度だけ口をつけて、そのあとに席を立った。
「それで、いつもの場所か? 誰が話をしようと言ったんだ?」
「レイナルド伯でございます」
レイナルド伯爵。先日臣下一同を代表して言葉を紡いでいた美髯の男だ。
あんな気品のある出で立ちでありながら、政戦実戦どちらもありというなかなかやり手の男である。
「そうか、わかった。なら急ごう。レイナルド伯の話は淡々としているわりに小耳に入りきらないことが多いからな」
レイナルドは淡々と情報を収集してきては、淡々とハーシムに伝えるが、そのせいでハーシムが逆に情報を軽く扱ってしまうことがあった。
よくよく考えると「ちょっとまて」と思うような話でも、ついレイナルドの小気味良い話のリズムにふわふわと思考が乗っていってしまうのだ。
レイナルドに非はないのだが、あの美声と独特のリズム感のある話しぶりは、いっそハーシムにとって魔性のもののように思えた。
「アイシャはどうする?」
「もちろん、ついて参ります」
「では支度を」
「御意のままに」
ハーシムは外に出ないからと剃らないでいた髭を剃るために、髭剃り用の小短剣を捜すことにした。
◆◆◆
会合場所はあのくたびれた物置小屋の地下空間だった。
位置的にはそれで合っているのだが、入口は物置小屋ではない。
さすがに一国の王子がそんな物置小屋に入っているのを見られれば不審に思われる。
いくつかの入口が別の場所にあって、その隠し通路の先にある小部屋がその物置小屋の真下に位置するのだ。
「おれは幼心をくすぐられるからなかなか好きだけどな」
「土埃がお体に障ります。それさえなければ、侍女としては特段に文句もないのですが」
楽しげな笑みを浮かべるハーシムと違って、アイシャはハーシムがここに来ることに少し抵抗を感じていた。
いくら掃除をしても、地面の中ということがあって埃が尽きないのだ。
それでハーシムの肺に傷でも入ったら、とんでもないことになる。
ハーシムが死ねばレミューゼ王国は滅びるだろう。
ほかのハーシムの臣下と同じように、アイシャもそれを確信していた。
そうこうしているうちに、ついに二人は通路の先の小部屋にたどり着く。
扉は軽く開け放たれており、声を飛ばせばそのまま部屋の中まで響きそうであった。
「待たせたな」
それを見越したハーシムが、声を出しながら小部屋の扉をさらに大きく開け放つ。
軋む音と一緒に扉の付け根から土煙が舞った。
――またこれだ。アイシャは眉根を寄せた。
ハーシムはその土煙をたいして意に介さず、そのまま扉をくぐってしまう。
ハンカチを口に当てるくらいはしてほしいものだ。
当のハーシムは政略や軍略には優れているかもしれないが、こういうところで疎さを見せる。
そういう些細な疎さの積み重ねが、のちのち大きな力となってハーシムを襲うかもしれない。
心配性なアイシャはそれを恐れ、そして同時にその大きな力を発生させないことに全霊をかける気でいた。
だからそのときも、礼を失するとは思いつつも、ハーシムの口元に無理やりハンカチを当てた。
「おやおや、あいかわらずアイシャ嬢に苦労をかけていますな、ハーシム様」
土埃の向こう側、部屋の中で椅子に座っていた男が、二人の姿を見て子供のように悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
美髯を揺らし、優雅な雰囲気を漂わせる初老の男――レイナルド伯爵その人だった。
「からかうな、レイナルド」
「私もレイナルド伯に嬢と呼ばれるほどたいした女ではございません。――恐縮です」
「いやいや、アイシャ嬢を嬢と呼ばずして、誰を嬢と呼ぼうか。いっそ令嬢と呼んでも差支えない。それくらいの気品と、女性特有の強さを持ち合わせている。どうだね、家督が欲しいならうちの養女にでも――」
「レ、レイナルド伯っ!」
アイシャはハーシムの口元をハンカチで押さえながら、頬を朱に染めて抗議した。
まんざらでもなさそうではあるが、どこか遠慮するような感じだ。
「フフ、まあ、アイシャ嬢にはほかにもいろいろとやることがあるようだから、かえって目立つ家名は邪魔か。密偵までやってのける侍女なんて、いまどきいませんよ、ハーシム様?」
「西方の密偵国家にはそれくらいいそうだがな」
「では、この東方では、と訂正しておきましょう」
「まあ、アイシャが万能に寄っていることは認める。ときどきこういうふうにハンカチを押し付ける時間が長いのが難点だ」
「ご自分で押さえないのが悪いのでしょう?」
「まったく正論だな。――アイシャ、もう大丈夫だ、ありがとう」
「次からは気を付けてくださいまし」
もう何度目かもわからない注意を送り、アイシャは一歩下がった。
ハーシムがその間にレイナルドの前の椅子に座り、再び口を開く。
明るい茶色の前髪を指で横にそらしながら、アクアブルーの瞳でレイナルドを射抜いた。
「――で?」
「ええ。少し、小耳にいれておきたい情報を」
「本当に小耳に入るんだろうな」
「なんでしたら大耳を用意しておいてください。――まあ、軽口はこのへんで。端的に言いましょう。明朝、部下からムーゼッグに関する報告書が届きまして、その中にやや気になることが」
「ほう」
ムーゼッグの動きには注視が必要だ。
ハーシムも嫌というほどそれを理解している。
まだ間に三ツ国があるが、いずれぶつかる可能性が高いのも事実だ。
「リンドホルム霊山、という霊山を御存じですか?」
「ああ、もちろんだ。魂の天海に最も近い場所と言われた霊山だからな。その妖しさも相まって、脳裏にはよく残る。まあ、その妖しさのせいでまともな生者は踏み込まないだろうが」
「そうです。しかしそこに、かのムーゼッグ王国軍が、大挙して足を踏み入れたと」
「……ほう」
ハーシムの眉があがる。
興味を抱いた、という顔だ。
「その理由は?」
「『魔王狩り』絡みで間違いないでしょう。報告が、風鳥を使った伝書で届いたものでして、こちらからの問いかけはすぐにはできませぬが、しかしそれらしい記述がきちんと書いてありました」
「魔王狩りか。となると、〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉が率いているか」
「ええ。アレは王族でありながらみずから陣頭に立って軍を率いる猛将でもありますからね。魔王狩りにも積極的だと聞き及んでおります」
「ふむ。戦乱の時代の寵児、そして天才児か。また厄介なものを生み出してくれたものだな、ムーゼッグは。……魔王を単独で殺したというのは本当だろうか。そうやって殺した魔王の秘術を独学で解読し、一代で習得したという話まで聞く」
「どうでしょう。その辺は実際に見てみなければ」
「そうだな。百聞は一見にしかず、か。ともあれ、それが本当だとすれば、もはやどちらが魔王かわからんな」
「おっしゃるとおりで。しかしセリアスの背後にいるのは強国ムーゼッグそのものですから。むしろムーゼッグの現王よりも、その王子たるセリアスの方がずっと国の象徴としてふさわしいかもしれません。ゆえに、誰がどうとも揶揄できず。――いや、揶揄すること自体は自由ですが、そのあとに無事でいられる保証がありませんからな」
「強力な組織に属する魔王ほど厄介なものはない。昔はそういう魔王――それこそまさしく一国の王である者――も多かったと聞くが、あの時代の魔王は悪徳的な者が多かったし、それを討伐しようという各国の連携も取れていたからな。今の領邦乱立の時代では協力どころか牽制のしあいばかりで、うまく立ち行かない」
ハーシムは小さく息をついた。
「まったく、ただでさえムーゼッグは人材の玉が集まる場所でもあるのに、その王国の王族までもが力の権化であるとは――、うらやましいかぎりだ」
わざとらしく肩をすくめて見せて、しかしすぐに、ハーシムはレイナルドに次を促した。
「それで、報告はそれだけか?」
「いえ。一番大事なのはそのあとでございます」
「なんだ?」
「その〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉が、狙っていた魔王たちを取り逃した、と」
レイナルドの端的な報告に、ハーシムは目を丸くした。
心底驚いたという表情だった。
「それは本当か? 珍しいな、逃げきる魔王がいるとは。いや、当然おれとしては嬉しいのだが」
正直、あのセリアス率いるムーゼッグ軍に追われて逃げきれたというのは、ハーシムをして意外であった。
嬉しさを抱くと同時に、その逃げきった魔王に対して賞賛の拍手を送りたくなった。
「――ん? 魔王たち?」
と、ハーシムがレイナルドの言葉端に気になる表現があったことに気づく。
レイナルドもあらかじめハーシムがその点に気づくことを予測していたようで、すぐに言葉を続けた。
「どうやら、魔王は一人ではないようなのです。――複数人。私の部下がムーゼッグ軍と魔王たちの戦闘現場を遠目から観察していたところ、そのときには十数人の魔王の姿があったと。まあ、すべてが本当に魔王かはわかりませんが、いくつか見た顔もあるようで。――おそらくというほどには」
「ムーゼッグがわざわざ危険なリンドホルム霊山に行くくらいだ。魔王で間違いないだろう」
ハーシムは頷きを見せる。
「それで、彼らはどうやら東へ逃げたようです。つまり、リンドホルム霊山から東、ムーゼッグ王国本土がある方向で、そして――このレミューゼ王国がある方向に」
「ほう」
「黄金の船が東に山を滑り下りて行ったという報告が」
「奇天烈な光景だな」
「私もこの目で見なければ信じがたい報告ですが、もしそれを事実だと仮定すると――まあ部下がそんな奇天烈な嘘をつく理由もないのですが――この趣味の悪さは〈錬金王〉の一族ではないかと」
「ああ、あの……」
ハーシムは苦笑を浮かべた。
レイナルドの言わんとするところをすぐに察し、次いで自分の中の〈錬金王〉一族に関する情報を引きだしてからの、大きな苦笑だった。
「あの一族はやることなすこと派手だからな。あと商売の神に魂を売り過ぎているきらいがあるので、そこに人間味を感じられない者は彼らを嫌うだろう。おれは好きだがな。資本を追求するのもまた、人の文化的目標のひとつだ」
「ええ。私も彼らの理屈はわかります。ともあれ――そういうわけです」
「なるほど」
レイナルドの報告が終わる。
ハーシムの予想どおり、やはりレイナルドの話は小耳に入るたぐいのものではなかった。
しかしレイナルドの話を聞いたハーシムは、どこか嬉しそうだった。
アクアブルーの瞳が子供のような好奇心に彩られていることに、アイシャもレイナルドも気づいていた。
「すぐに使者を送る。今すぐにだ」
そしてまた、ハーシムの判断も早かった。
数秒の間、虚空に何かを見るように思案していたハーシムは、そんな言葉を告げた。
「すぐに、ですか?」
「ああ、すぐに。もはやおれには悩んでいる余裕はない。相手が魔王だからこそ、意地でも引き入れる。もしかつてのレミューゼを知る魔王がそこにいるのなら、いまこそ彼らに報せよう。再びレミューゼは『甘く高貴な国』に戻ると。だから、この時代にお前たちの居場所を与えるかわり、その力を貸してくれ、と。まあ、虫が良いのはそのとおりだがな。だから、これは取引だ」
「――取引」
「そうだ。もし本当に魔王が十数人いるというのなら、やろうと思えばレミューゼを半壊させられるだろう。どれほどの号を持つ魔王かは知らないが、今の腑抜けたレミューゼならば殺せる。だから、その『安心』をくれてやる」
「つまり、ハーシム様は国家の命を賭けるのですね。その、取引という名の賭けに」
「おれは賭けごとに強いぞ?」
「よく存じております。もとより、私も賭けごとは好きでして」
レイナルドは悪戯気な笑みを浮かべてサイコロを回す仕草をしてみせた。
「どうせ放っておけば壊れる国です。ここでやらずにどうしましょう」
「レイナルド、お前もなかなか過激なことを言うな」
「私の上司たる王族がすでにそんなことを言っているのですよ? 私が重ねて言ったとて、あなた様がおっしゃるほどの衝撃は与えないでしょう」
「――ああ、まったくだ。民には怒られてしまいそうだな」
ハーシムはまた苦笑した。
「どうでしょうかね。民も民で、このまま緩やかに腐敗していくよりは、劇薬を求めているやもしれません。腐りかけた身体に劇的な変化を促す、強い効き目のある薬を。――ここはレミューゼ。かつて本気で魔王を守るために他国家に小さな身体を張った国。かつては失敗しましたが、今度ばかりは成功させなければなりません」
「ああ」
ハーシムのアクアブルーの瞳に強い力が宿っていた。
「レミューゼを守るために死んだ〈術神〉フランダー=クロウと、そのフランダーのために身体を張ったかつてのレミューゼの王女、〈白帝〉レイラス=リフ=レミューゼのためにも。――そしてそんなレイラスの方針に賛同した、世界で最も気高かったレミューゼの民のためにも。必ずや」
ハーシムは二人の『英雄』と、その英雄のために命をかけた古代のレミューゼの民に、思いを馳せた。





