261話 「はじまりの魔王」
ひとしきりメレアを抱きしめたあと、クリアは視線をムーゼッグ側へ向けて言った。
「あの男の背後に現れた黒い腕は、悪神アニムスのものですね」
「クリアは〈悪神〉を知っているの?」
「実際に見たことはありませんが、話に聞く程度には。あれが動ける形で存在していたのは私が生きた時代よりもさらに前の時代ですので」
〈土神〉クリア=リリスはメレアの親である百人の英霊たちの中でも特に生きた時代が古い。最古参と言ってもいい。
そんなクリアでさえ直接会ったことがないというのであれば、おそらくメレアの親の中で〈悪神〉を見たことがある者はほとんどいないだろう。
「アニムスって人じゃないの?」
ふとクリアの言い方に引っ掛かりを覚えたメレアは、文字通り子が親に素朴な疑問をぶつけるように、クリアに訊ねた。
「人です。……人であったはずですね。ただどの時点からかはわかりませんが、アニムスは人として死ぬことがなくなったと言います」
「死ぬことがない……?」
「アニムスはまだ生きているのですよ。五体を聖人たちによって切り離され、その頭と心臓を《《リンドホルム霊山の地中深く》》に封印されてなお、まだ」
その言葉を受けて目を丸くしたのはメレアだけではなかった。
「――いたのか。僕たちのさまよっていたあの霊山の真下に、あの〈最初の魔王〉が」
そうフランダーが言った。
◆◆◆
はるか古代。
まだ〈魔王〉という言葉が生まれる前、その男はなんの変哲もない一人の人間として生まれた。
両親が穀物類を栽培する農業を営んでいたことは判明していて、また、その男には一人の兄がいたことも判明している。
親の手伝いで日々農作業に勤しむ一人の少年が、なぜ〈悪神〉と呼ばれるような存在になったのか、その転換点、きっかけがどこにあったのかはさだかではない。
しかし、悪神アニムスについて言及したとある古びた手記の中に、興味深い一文が載っていた。
『ある日、いつもどおり、〈あれ〉と穀物を刈る作業をしていると、ふと〈あれ〉が空を見上げてつぶやいたのを聞いた。――世界が割れた、と。それがきっかけだったのかは確かめようこそないが、〈あれ〉に妙な点が現れはじめたのはそれからだ』
最初に違和感を覚えたのは少年が誤って鎌で手を切ってしまったときだという。
『……血が、少ないように感じた。我々の仕事は――特にまだ注意力の散漫な子どもであれば――生傷が絶えないものだったから、それ以前にも手を切ることは何度かあった。だが、そのときの切り口はなかなかに鋭利で、これは一度家に連れ帰って治療をしなければならないと思った。しかし、わたしが思ったよりも血は出ず、そのことにわたしは得も言われぬ違和感と――少しの恐怖を覚えた』
その後も何度か同じような現場に遭遇したが、そのたびに少年の体から流れ出る血は減っていったという。
さすがにおかしいと筆者が思いはじめたころ、違和感を決定づける事件が起こった。
『――二頭引きの馬車にひかれたんだ。死んだ、と思った。わたしは〈弟〉の体中の骨が砕ける音を聞いた。血の気が引いたよ。だが、もっとも血の気が引いたのはそのあとだ』
駆け抜けた貴族の馬車が巻き起こした粉塵の向こうから、声がした。
『――〈びっくりした〉。そう言って〈あれ〉はなにごともなくわたしの方へ歩いてきたんだ。そのときだ。たぶんそのとき、わたしは〈あれ〉を〈弟〉だと思えなくなったんだ。わたしの弟は、きっとあそこで――死んだんだ』
以降の手記は、精彩を欠いたものが増える。
が、悪神と呼ばれた男を描いたものとしてはこれが最古のものであると言われている。