256話 「天より」
この世界には、人の干渉しえない不文律がいくつかある。
それは、たかだか百年しか生きることのない人間の歴史が何度周流しようとも、けっして影響を及ぼすことのないルール。
良くも悪くも、それは人の歴史とはまた別の時間軸で転換期を迎え、時に人の知らぬ領域で勝手に終息している。
「――これは、レイラスの碑文にもなかった」
しかしその日、フランダーはその別の世界における歴史が、人の歴史と交わって動こうとしていることを知った。
フランダーの目に映るその生物は、空を飛んでいた。
巨大な翼を広げ、人の何倍もある体躯を容易に浮かせ、そして一瞥で地上の生物の心臓を止めかねない上位生物としての眼光を、悠然と地上へ向けている。
「――〈天竜〉」
フランダーの視覚に、その生態系の頂点に位置する竜族の姿が、いくつも映っていた。
◆◆◆
「バカな。〈天竜〉が人の世に干渉するなど――」
フランダーのあとからムーゼッグ軍を抜けて隣にやってきたセレスターが額に汗を浮かべて毒づく。
「悪夢にしてもたちが悪いね。クルティスタに文句を言いたい気分だ」
フランダーはセレスターに苦笑を浮かべて返す。
かつて生前から交流のあったあのリンドホルム霊山の白い天竜〈クルティスタ〉。
彼から竜の世界の歴史について聞いたことがあった。
天竜は基本的に下界に干渉しない。
その理由の原因となった出来事は、まだ聖人と呼ばれる者たちが生きていた時代にまでさかのぼる。
――天竜が地上を巻き込んで争えば、その他の生物は等しく死に絶える。
天竜は、ほかの数多いる生物とは一線を画す。
古代には彼らを神として崇める宗教すらあった。
聖人が生きていた時代に天地を巻き込む大きな争いを起こした彼らは、自分たちが暴れることで世界そのもののバランスを崩してしまうことを自覚した。
そこで、当時天竜の部族の中でも頂点に君臨していたとある竜がルールを設けた。
それが下界との不干渉を貫くという上位世界の不文律。
しかしその不文律が今、目の前で破られようとしている。
「っ、来るぞ!」
こちらへ向かってきていた天竜の軍勢が、一斉に口を開いたのを見た。
瞬間、フランダーは〈四門〉をためらいなく開く。
「多重式――」
あらんかぎりの術素を込めて防御術式を展開。
「っ、無理だッ‼ 避けろフランダー‼」
そして天に浮かぶ竜たちの口から、砲撃が放たれた。
「ッ!」
発射から着弾までゼロコンマ数秒。
着弾と同時にフランダーが展開した十七枚の防御陣のうち十枚が吹き飛ぶ。
爆風。
その風だけで大地がめくれ上がった。
「ぐぁっ……‼」
二枚、三枚、防御陣がまるで薄紙のように突破されていく。
――くそッ‼
さらにフランダーの目は天竜たちが高度を下げて第二射を装填するのを捉えた。
一射目は自分めがけて砲撃を収束させてきた。邪魔な壁を溶かすためだろう。
しかし二射目は壁の後方にあるすべてを薙ぎ払うように、整然と横に並んだ天竜たちが各々別の方角を向いている。
――術素の量が……生物としての性能が違いすぎる。
もうこれ以上防御陣を展開することはできない。
そして次の手を絞りだそうとした直後、天竜の放った第二射がフランダーの防御陣を突破した。
◆◆◆
誰かが「逃げろ」と言った気がした。
次にやってきた悪寒の原因をたしかめようと遠い空を見た。
そして気づいたときには、それがやってきていた。
『光』だった。
「――」
ムーゼッグ兵たちと斬り合っていたエルマは、その時自分の死を本能的に察した。
「下がっていなさい」
光が視界をすべて覆いつくす直前、声とともに一つの影がやってきて、目の前に大きな壁を生み出した。
〈土神〉クリア=リリスだった。
「二度は止められません。次は自分たちでなんとかするように」
まるで最後の言葉かのように彼女は言った。
斬線を探す暇などない。
彼女の作り出した壁が光を受け止める。
衝撃で地面が揺れた。
さらに彼女の生成した土の壁の前に二枚、三枚と銀の盾が生成されては砕かれているのが見えた。アイズだろう。
「最後にあの子の顔が見られればよかったけれど――」
クリアの生成した壁が、脇から徐々に溶かされていく。
壁に当たって拡散した光が、周囲一帯を溶かしつくしていた。
もはや敵も味方もあったものではない。
その光はなにもかもを焼き尽くそうとしていた。
そして――
「嗚呼――」
土の壁を抜けた一筋の光が、クリアの体を貫く。
駆け寄ろうとしたところを、それでも彼女の手が止めた。
彼女は空を見上げていた。
「――大きくなって」
たしかに彼女はそう言った。
◆◆◆
こんなの、あんまりだと、アイズはいもしない神を恨んだ。
たしかにこれも、力の差の一つなのだろう。
敵は自分たちを上回る速度と物量で、そういう準備をしてきた。
それは、わかる。
けれど――納得は、しがたい。
――どうか、私たちに加護を。
天神がいるのであれば、今こそをその恵みを。
恨んで、願って、無様にも他力を願うしかない自分たちに、慈悲を。
――なんでも、いいから。
誰か、『仲間たちを助けてくれ』。
アイズは勝手にあふれだそうとする涙を必死でこらえながら、あらんかぎりの天力を盾につぎ込み願った。
「――」
そして、ついに体からすべての天力が放出しきる。
反動か意識が朦朧としはじめた。
天魔の視覚と通常の視覚がごちゃごちゃになって、本物か幻覚かもわからない白い光がちらつきはじめる。
「…………メレア、くん」
そうして、口にすまいと思っていた名が、こぼれ落ちた。
◆◆◆
「遅くなってごめん」
◆◆◆
そのとき、空から声が下りてきた。





