26話 「炎帝の笑顔」
黄金船は、リンドホルム霊山のこう配なだらかな麓にたどり着くやいなや、ついに身がすり切れてぼろぼろと崩れ落ちた。
まるで土か何かで出来ていたような、そんな壊れ方だった。
「まあ、だいぶ持った方でしょう」
黄金船の錬成者、〈錬金王〉シャウは、ぼろぼろに崩れた黄金船を見てその金色を惜しむような視線を向けつつも、すぐに魔王たちの方を振り返った。
彼らをぐるりと見渡し、微笑を浮かべたあと、片手を胸において優雅な一礼を見せる。
「どうです? 金の力も捨てたものじゃないでしょう?」
社交界にて貴い身分の者たちが見せるような、優雅な一礼だった。
「金なのか金なのか、どっちか判断しかねるよ」
「はは、どっちもですよ。金は資本の本位ですから」
シャウが笑うのに合わせ、メレアは苦笑を返しつつも、
「――でも、本当に、捨てたもんじゃない。俺はそう思ったよ」
素直な言葉を述べていた。
自分たちを守りながら、リンドホルム霊山の麓まで連れてきてくれたあの金の船は、間違いなく自分たちにとっての救世主であった。
そうして、短く金の栄誉を讃えたシャウは、しかしすぐさま襟を正し、話を本題に移す。
「で、どうします? レミューゼへ行くにしても、ここからは平地です。足もありません」
「まずは街道に出ましょ。たしか東に少しいったところに行商街道があったわよね」
シャウの声に間髪入れず答えたのはリリウムだった。
「さすが、地理にもくわしいですね、リリウム嬢。伊達に学術国家の名園に入学したわけではなさそうです」
「お世辞はいいから。今はあんまり無駄話をしてる暇もないわよ。うしろからムーゼッグの黒服と黒鎧たちがすぐに追ってくるからね。一度にレミューゼまではいけないから、まずは途中の街によって物資の補給をするべきじゃないかしら。で、その街に行くために、行商路で足を手に入れないと」
「これはもう運試しみたいなものですね。うまいこと足になるものと鉢合わせればいいのですが」
「現状がすでに博打の結果みたいな状態よ。とにかく、まずは人がいるところに行かないと。ジッとしててもなにも変わらないのはたしかよ」
リリウムがそういって、率先して東への一歩を踏んだ。
二十二人の魔王が全員で長距離を移動するための方策があれば、誰かが声をあげていただろう。
しかし、声はあがらなかった。
あるいは、個人でならばどうにかできる術を持つ者もいたかもしれない。
しかし、それを選ぶ者はいなかった。
『全員で逃げる』という指針が、みなの脳裏の羅針盤の中で確かな光を放っていた。
だから、彼らは黙々と走ることにした。
霊山麓のまばらな山林の中を、一団となって駆けていく。
葉の間をくぐり抜けてくる淡い陽光と、山林内にただよう澄んだ冷気に身をさらし、彼らは走った。
まだ山を下りきっただけだ。
ムーゼッグ軍の本隊をなんとか突き抜けることができたが、今にムーゼッグ軍は自分たちを追ってくるだろう。
あわよくば、ほかの方角から自分たちを追ってきていた他国家と鉢合わせして、互いに潰し合ってくれればと思うが、ムーゼッグの力の強さを考えると、その希望に全幅の信頼をおくわけにもいかなかった。
――レミューゼはまだ遠い。
◆◆◆
行商街道と呼ばれる行商や交易商がよく使う路で、メレアはほかの魔王たちの実に手際のいい術を見た。
特に一番印象的だったのは、やはりというか、〈錬金王〉シャウの術だった。
たまたま通りかかった行商と唐突に交渉をはじめるやいなや、瞬く間にその行商が乗っていた積荷ごと荷馬車を手に入れた。
計三台。
商隊のようだった。
シャウがその商隊の隊長らしき男に、懐から数枚の金貨を手渡している姿が見て取れて、荷馬車のもとの持ち主たちもホクホクと実に嬉しげな笑みを浮かべていた。
彼らと手を振って別れたあと、シャウがあらためて積荷の中身を確かめ、軽いため息を吐きながら言った。
「ふう、良い具合に値切れました。この積荷、今の相場で東の方に売ればずいぶんと儲けられそうなのに。彼らは目先の利益にとらわれるタイプの商人のようですね。――まだまだです」
そのへんの論理はメレアにとって未知で、言葉面はともかく商人としての質に関してはよくわからなかった。
だから、くわしく訊いてみたいという気持ちもあったが、シャウの目に野生の獣が放つような鋭い眼光が宿っていて、あえてその理由を訊いたりしたら深みにはまってしまいそうだったので、黙っておくことにした。
好奇心は猫をも殺す。そんなフレーズがメレアの脳裏に浮かんでいた。
その後、手狭な荷馬車にぎゅうぎゅうと魔王たちが乗り込み、双子などは〈拳帝〉サルマーンの両肩に担がれることでスペースを確保し、なんとか三台に入りきった。
だが、ここでの一番の問題は、この二十二人が奇跡的に乗っかった荷馬車をなにが引くかであった。
もともとの持ち主である行商たちは計六頭の馬で荷馬車を引いていたようだが、積荷の上にさらに魔王たちが乗った現状、まったく同じくして馬が荷馬車を引けるとも思えなかった。
一台につきおよそ七人。
馬を三台に配分し、二頭ずつ。
やはりというか、まさしく荷が重い。
「――さて、じゃ、あたしの炎馬を使おうかしら」
そんなときに名乗り出たのが〈炎帝〉リリウムだった。
というより、どうやらリリウムがあらかじめシャウにそう言っていたらしい。
シャウも当初、二十二人を乗せた馬車がまともに動くか、走るより早く動くかという点で、やや悩んだ。
当然、馬に引かせれば体力的な温存は可能であるし、最悪走るのと同速でも構わない。
最低限の有用性を得るためには、やはり馬六頭はそのまま手元に置きたかったから、口八丁で交渉し、どうにか六頭ごと買い付けた。
が、それでもまだ不安が残る。
そんなおり、リリウムは荷馬車を引くことになにやら方策があることを、シャウに告げていた。
そういうわけで、いざ出発というところになって、リリウムが溌剌とした声をあげていた。
「ちょっとハデだけど、ビックリしないでね」
ほかの魔王たちに注意を促しつつ、小さな声でぶつぶつと何かをつぶやきはじめる。
それが術式の起動詠唱であることにまっさきに気づいたのはメレアだった。
彼女が小さな声で術式の詠唱をはじめたかと思うと、今度はその手から真紅の炎があふれ出で、まるで生きている動物のように地面に向かって飛んでいった。
その炎は地面で数度跳ねてから、徐々になにかを象っていく。
それは馬だった。
真紅の炎で象られた――まごうことなき馬。
さらに言えば、その馬は本当に生きているようだった。
嘶きが本物のそれのごとく、赤い炎の息とともに馬鼻から噴かれる。
「ふー……、さて、こっから近場の街までか……。結構疲れるけど、しかたないわね。自分で決めたんだし」
どうやらその炎馬を維持するにも相応の労力を消費するようで、リリウムは一度うんざりとした表情を浮かべたが、すぐに意を決したように眉を鋭角につり上げて見せた。
「〈真紅の命炎〉の力強さを見せてあげる」
彼女は開き直ったように派手な紅髪を振り乱し、
「引きなさい、炎馬!」
そう馬に命令した。
炎の馬はリリウムの命令を受けて、身体と荷馬車をつなぐ綱におのずから身を括り付ける。なんとも器用な身のこなしだ。
そうして体勢が整うと、今度はとても馬とは思えない力でぐいぐい荷馬車を引きはじめる。
炎の身体が綱に触れても、綱は燃えなかった。
選択的な燃焼操作ができるらしいことを、メレアは察した。
残る六頭の馬は、その炎の馬に怯えてまともに荷馬車を引けないようだったので、結局エルマとサルマーン、それにもう何人かの魔王がそれに乗り、ついでにサルマーンの肩に双子が乗って、荷馬車の重さを軽減することにした。
「おい! 曲芸じゃねえんだぞ! 肩に乗るんじゃねえよ!」
「がんばれサルー」「サルー」
「だからその呼び方やめろっ!」
「私は周囲を警戒しておこう」
すっかり仲良くなったようなサルマーンと双子を傍目に、エルマが率先して周囲への警戒に走る。
馬を乗りこなす彼女は凛として艶やかだったが、
『あいつ、馬酔いはしねえんだな……』
そんな少しズレた観点からの声が、魔王たちからあがっていた。
「俺はあれもダメかもしれない……」
しかし、メレアだけはそう一人ごちていた。
◆◆◆
周囲の様子を窺いながらの道行が続く。
いまのところ大きな異変はない。
行商街道に着いてからすぐに足を手に入れることができたことと、リリウムの炎馬がすさまじい脚力で荷馬車を引いているのが、距離を稼ぐのに役立ってくれているのだろう。
しかし、ムーゼッグ軍が同じく馬などの移動手段で反転してくれば、じきに追いつかれる。
いかに炎馬でも、こうして魔王と積荷の乗る貨車を引きながらムーゼッグの軍馬との競争はできないだろう。
そういう予測もあった。
とにかく、その前にどこか街に踏み入って、さらに速い逃走手段を確保したい。
大部分の魔王たちがそう思っていたところで、ふと意外な声があがっていた。
「――ひとつ目の街は寄らずに抜けましょう」
シャウが真面目な顔でそんなことを言っていたのだ。
一同はシャウの言葉に思わず首をかしげる。
「どうして?」
まっさきに問いかけたのはメレアだった。
「小さな街なんです。たしかに物資を得ることはできるかもしれませんが、そこに寄れば次にこの場へ来るであろうムーゼッグ軍に行先がバレてしまいます」
「なるほど」
「迂回しながら次の街へ。二つ目の街は大きいですから、一度で必要なものをそろえられると思いますし、なにより人に紛れることもできます。二つ目の街までの食糧は、さっき買い上げたこの交易品でまかなえるでしょう」
魔王たちが乗っている荷車の中には、さまざまな野菜や果物があった。
シャウが「東で売ればなかなかの値段になる」といっていた交易品の数々だ。
「まあ、全部さばきたいところですが、餓死は嫌ですしね」
やや名残惜しそうな顔を浮かべるシャウだったが、彼自身の『命がなければ金は集められない』という信念もあって、ひとまずそれらを分けて食べることになった。
「ちなみに後払いですよ。それ買ったの私ですからね!」
抜かりない。『やっぱりこいつ金の亡者だ……!』と、魔王たちからヒき気味の声があがっていた。
そうして、諸処の問題がどうにかこうにか解決しそうだというところになって、しかし、大きな問題が実は残っていた。
「リリウム、大丈夫?」
「び、びみょう……」
炎馬を術式で操作するリリウムが、かなり疲れた表情を見せていたのだ。
「こういう術式ってものすごく疲れるのよね……。ここから二つ目の街っていうと……〈ネウス=ガウス公国〉か〈トット共和国〉あたりかしら。一つ目の街までだと思ってたから油断してたわ」
「リリウム嬢の炎馬が思った以上の速度を出してくれているので、そういう選択肢が生まれたのです。もちろん、リリウム嬢がつらいようでしたら当初の予定通り最初の街に寄りますが、しかしここで突っ切れると、今おっしゃったように少なくともネウス=ガウスとトットで二択にはかけられますからね」
ここから次の街までどれくらいの距離があるか、リリウムは知っているようだった。
大きなため息が彼女の口から漏れる。
ふとリリウムがメレアの方を見て、
「あんた、あのときムーゼッグの術式真似してたし、これも真似できたりしないの?」
そんな問いかけをしていた。
メレアにとってそれは意外な問いかけだった。
というのも、リリウム自身、『それができないであろうこと』を理解しているはずだったからだ。
できないとわかっているからこその、願いじみた言葉の発露だったのかもしれない。
「――無理だよ。術式は真似できるけど、その術式の核たる術素が俺にはない」
「へえ、よくわかったわね、あたしの術素が固有の術素だってことが」
「最初に試したからね。リリウムの手伝いができないかって」
「ああ……そういうこと。あんたはあんたで結構気を遣ってくれていたのね」
メレアは、こういう場で「得意だ」と言えるくらいには術式が得意な方だった。
あれだけ英霊たちに鍛えられたのだから、ここで得意ではないなんていえないし、彼ら自身『筋が良い』と褒めてくれたのだから、そこにはちゃんと自信を持っている。
だから当然、最初にリリウムの手伝いをしようと、彼女の術式を〈術神の魔眼〉で解読し、複製しようとした。
だが、術式がうまく稼働しなかった。
魔力を込めるが、炎どころか事象すら起きない。
術式を解読している時点で「もしかしたら」というくらいの疑念は抱いていたが、案の定であった。
彼女の術式が、『特殊な術素』を通さないと作動しないたぐいのものであることに、メレアは気づいていた。
「固有術素っていってね。たまにそういう特殊な術素を持ってる人がいるんだけど」
「うん、話は知ってる」
だが、持っていない。
リリウムの術素はおそらく〈炎帝〉の一族に固有のものだ。
メレアの親の中には〈炎帝〉の一族はいなかった。
もしいればその因子を継ぐことができたかもしれないが、いまさらどうこうもできない。
メレアは、自分が戦う以外になにもできないことを、そのあたりから実感しはじめていた。
不甲斐ないという思いが、胸の底から湧き起こってくる。
そんなメレアの内心を表情から察したのか、リリウムが言った。
「あんたはいいわよ、そのままで。――さっきのなし! あたしが軽率だった。なんでもできるやつなんかいないって。むしろあんたにもできないことがあって安心したくらいよ」
メレアはリリウムが自分を励まそうとしていることに気づいて、思わず自嘲するような笑みを浮かべた。
「それに、仮にあんたがここで手伝えたとして、その場合は魔力的な問題もあるでしょ?」
体内型術素である魔力は、当然使えば減っていく。回復もするが、そうすぐに回復しきるような速度でもない。
それはメレアとて例外ではなかった。
ゆえに、この時点での術式の行使によって、いざというときにガス欠になる可能性がある。
「正直に言えば、あたしは戦うのが得意じゃない。だから、そっちではあんたに頼ると思う。その代わり、あたしはここでがんばる。適材適所ってやつよ!」
リリウムが胸を張って、メレアに笑いかけて見せた。
天真爛漫な、陽光のように明るい笑顔だった。
見ている方が元気づけられるような少女の笑みを見て、メレアの心の底に温かいものが広がった。
すると、たたみかけるようにリリウムがメレアの心臓のあたりにぽんと拳を置き、
「いい? いざというとき誰かが守ってくれるって確信があると、心が落ち着くの。こんなひどい状況だけど、落ち着いていられるのよ。……だから」
メレアの赤い瞳を直視して、
「いざというときは――守ってよね」
額に汗を浮かべながら、リリウムは最後に悪戯気な笑みを浮かべた。
メレアは、そんな彼女の笑みに、
「――わかった。必ず、守ってみせよう」
そう言い切ることはどことなくおそろしかったけれど、しかし、迷うことなく言い切った。
のちにメレアは、このときの言葉を何度も思い返すことになる。
メレア自身、その言葉が自分にとある決断をさせるきっかけになることを、ぼんやりと予感していた。