244話 「時を越えて」
サイサリスの情勢が、英霊たちの出現によって混沌と化すほんの少し前。
ハーシム=クード=レミューゼは自室で戦衣装へと着替えながら、『出立』の準備を進めていた。
――先に行くぞ、メレア。
ハーシムはぎりぎりのところまでメレアたちがアイオースから帰ってくるのを待った。
しかし、次々に舞い込んでくるムーゼッグ勢力の情報に、ついに腰を上げる。
「アイシャ、〈三ツ国〉の方はどうなった?」
部屋の扉付近で整然と準備が終わるのを待っていたアイシャに声をかける。
「ハーシム様のおっしゃったように、おそらく最も早くサイサリスに到着するのはフィラルフィア王国の〈鉄鋼騎兵団〉でしょう」
「そうか。海賊都市勢力からの防衛線の構築が間に合えばいいが――」
もしムーゼッグとサイサリスが戦争になるとすれば、激戦部は北端になるだろう。
しかし一方で、ムーゼッグ傘下の海賊勢力が東の海から回り込んでその東端を攻めることが予想された。
ムーゼッグの本隊を止めることも重要だが、その間に別の場所から内部を攻められても困る。
「サイサリスには生き残ってもらわねばならん。サイサリスが集めた魔王たちを、まとめて対ムーゼッグに回すためには」
「とはいえ、ムーゼッグの息のかかった魔王もサイサリスに入り込んでいると思いますが」
「そこは〈魔王連合〉の連中になんとかしてもらうしかない。おれたちはサイサリスの内部でどうこうしている余裕はないし、なによりおれたちは〈魔王〉ではないからな。〈魔王〉たちの心を変えられるのは、いまや〈魔王〉だけだ」
そのことを少し寂しいと思いつつ、同時にそれが自分たちの愚かさと力のなさゆえのしっぺ返しであることをハーシムは自覚している。
「アイシャ、〈クルタード〉を」
「はい」
そこで、ハーシムは部屋の隅に厳重に保管されていた一本の槍を取り出すようアイシャに指示を出した。
汚れ一つない布に包まれた槍を受け取ったハーシムは、布を取り払いその切っ先を見つめる。
〈魔槍クルタード〉。
七帝家の一門である〈槍帝〉の一族が有した七帝器。
一度はセリアス=ブラッド=ムーゼッグの手に渡ったが、それをあのザイナス戦役でメレアが取り戻し、今はこの手に収まっている。
「メレアが開戦に間に合わなかったときは、その同盟相手としておれたちがムーゼッグを押しとどめなければならない」
最前線に出る覚悟などとうに出来ている。
この場合に問題となるのは、はたして自分ごときにその時間稼ぎができるのかどうかということだ。
「自分の力のなさが、歯がゆいな」
ハーシムは苦笑する。
王として、できるかぎりのことはしてきた。
そして同時に、前線に立つ戦士としてもやるだけのことはやってきた。
それでも、すべてを戦うことに捧げてきた――あるいは捧げざるを得なかった者たちと比べれば、自分の力は心もとない。
「この魔槍クルタードの力を借りたとしても、その力量差は埋まらんだろうな」
それでも、使えるものはすべて使う。
目的を達するためなら、汚名などいくらでも受け入れよう。
「さて」
再びクルタードを布で包み、目をつむって軽く息を吐く。
心の中で意識を戦いへと切り替えた。
「――出陣と行こうか」
そういってハーシムが歩みだす。
予期しない来訪者があったのは、ちょうどそのときだった。
◆◆◆
最初に異変を感じ取ったのはアイシャだった。
密偵として特に優れた注意力を持つアイシャは、突如として自分の背中側――扉を隔てた廊下に人の気配を感じた。
一瞬の動きで懐から短剣を抜き、扉から一歩飛びのいて姿勢を低くする。
「お下がりください、ハーシム様」
「何者だ」
「わかりません。ただ、普通ではありません」
殺気がない。
それどころか、どことなく存在感が薄い気さえする。
まるで、幽霊かなにかがうつろにこちらを見つめているような――
「――」
やがて、思いのほか素直に、まるで物怖じした様子もなく部屋の扉が開く。
そして――
「――壮健か、我が妹リリスの末裔」
その女はやってきた。
扉が開いたとき、まずなにより先に美しい白の髪がのぞいた。
そして、その向こうから現れた人物を見て、ハーシムの時が止まる。
ようやく口が動き出したとき、その口が紡ぎだした名は――
「――レイラス=リフ=レミューゼ」
かつて、最も気高かったころのレミューゼに女王として君臨した、かの〈白帝〉であった。
「この城は変わらんな」
女――レイラスは美しいヴェールを手でどかしながら、部屋の中をぐるりと見渡す。
まだアイシャは構えを解いていないが、それに構う様子もない。
「――〈死神〉の仕業か」
一拍置いて、ハーシムがこの奇妙な現状の理由に勘づく。
そしてその言葉を聞いたレイラスは薄い笑みを浮かべ、流し目にハーシムを見た。
非の打ちどころのない美貌。
そこには触れられざる気品と、何人にも汚されないような無垢が同時に存在している。
何気ないしぐさの一つ一つが、いっそのこと不気味ささえ覚えるような美しさをたたえていて、ハーシムの息が思わず引っ込んだ。
「私が見たとおり、なかなかの美男子じゃないか。それに頭の巡りも良い。自分の遠い甥ながら、なかなかどうして自慢したくなりそうだ」
一転してからからと笑うレイラス。
その様子はどこか無邪気な少女のようだった。
「目的はなんだ」
「そう警戒するな。さして戦う力のない私は、フランダーたちと違って強く縛られてはいない。だからといってなにができるわけでもないが、急にお前の首を絞めたりもしないぞ」
レイラスは音もなく歩を進め、ハーシムの部屋の椅子に座りこむ。
「まあ座ると良い」
「……知っていると思うが、あいにくおれには時間がないのでな」
向かいの椅子に座るよう片手で促すレイラス。
窓から入り込んだ風が、メレアとよく似た白い髪をさらさらと揺らす。
「まあそう言わず。これはお前の人生を――そう、お前の『生死』を左右する邂逅だ」
〈白帝〉レイラス=リフ=レミューゼは、かつてその眼で未来を読んだと言われている。
世界の式を見通す、〈白帝の魔眼〉。
そしてそんな彼女が死の間際に残した〈碑文〉には、ハーシムのことも描かれていた。
「定められた未来など存在しない。――存在してたまるものか」
ふと、彼女がほんのわずかに語気を強めて呟いた言葉に、彼女の思いのすべてが込められているような気がした。





