240話 「炎神」
サイサリス教国の北門付近は混乱の極みだった。
我先にと国外へ逃げ出そうとしている上流区の民衆。
そんな上流区の民衆が荷物を運ぶために出している馬車に弾かれ、身動きを取れずにいる中流区の民。
そして――
「いつの世も、戦ばかりじゃ」
北門の様子を遠巻きに見ている旧派サイサリスの民たち。
「なぜ人はこうもなにかを求めるのか」
そんな旧派サイサリスの民の中に、ぼろきれに身を包み、折れ曲がった頼りない杖で自重を支えている一人の老人がいた。
「長生きはするもんではないの」
かつて、老人は軍人だった。
国家に従順で、命令には忠実。
良くも悪くも、模範的な軍人であったと思う。
「〈魔王〉……か」
老人は少し前に、ありえない光景を見た。
その昔、国家の名に従って捉え、そして抹殺した――友の姿を。
その友は、老人の祖国において〈魔王〉と呼ばれていた。
「力ある者を恐れ、悪徳を捏造し、私欲に費やす」
人間の背負いうる業の中でも、最も悪辣としたものを、背負ってしまった。
「果たしてお前に、なにができただろうか」
たかだか前時代の秘術を受け継いだだけの身。
当人に祖国を裏切るつもりなど毛頭なく、ただ一個人としての自由を主張し、そして断罪された。
持つ者とは、必ずしも幸福なわけではない。
そしてそのことに気づいた時には、友は腕の中で息絶えていた。
だから老人はすべてを捨てた。
「本当の〈魔王〉とは――」
ふと老人は天を仰ぎ見る。
「……嗚呼」
その視線の先に、青く燃え盛る巨大な大蛇を見た。
身は雲を貫き、身じろぎ一つでこの都市の城壁を圧壊せしめてしまいそうなほどの力強さをたたえている。
老人は祈った。
「どうか、わしに罰をくれ」
罪ならここにある。
◆◆◆
フランダー=クロウが北門にたどり着いたとき、すでにそこは地獄だった。
「っ」
崩れた建物の節々から青黒い炎が立ち昇っている。
生者の気配はない。
「遅かったな、フランダー」
「フラム様……」
そしてフランダーはその地獄の中央に立つ紺色の髪の男を見た。
「まあ、お前らしいといえばお前らしい。ここに来るまでにほかの英霊の呪縛を解いたな」
「……はい」
「お前は一見優男のようだが、戦場における合理性を淡々と全うする姿はやはり軍人と呼ぶにふさわしい。お前よりもヴァンやタイラントのほうがいくぶん可愛げがあるものだ」
フランダーはシャウたちと別れてからここに来るまでに、見かけた英霊たちの死霊術式を解いてきた。
そのうえで足早にここに来たが、フラムの言うとおり、少なくともここに横たわる人々からすれば英雄ではなかっただろう。
「それはセレスターの雷か」
そんなフランダーの体からは黒い雷がバチリと弾けていた。
その様子を一瞥で確認したフラムが薄く笑みを浮かべる。
「そうか。お前もまた天の海で無為に時を過ごしていたわけではないのだな。まさしく〈術神〉の名にふさわしい」
「フラム様、どうかこのまま、私に身を委ねてはいただけませんか」
フランダーはフラムの言葉をさえぎって言う。
「ならん」
しかしフラムは即座に首を振った。
「なぜですか」
「理由はお前とてわかっているだろう」
「……レイラスの遺した碑文ですか」
「そうだ」
フラムはわずかに視線をうつむけ、どこか自嘲するように笑った。
「あれが見た世界の行く末を、ここで変えておかねばならん。少なくとも私がここに降りたとき、まだあの碑文の未来が変わったようには思わなかった」
「ですが、すでに変わっていることもあります。ここにまだメレアはいないし、サイサリス教皇も生きている。そしてなにより、今代のレミューゼ王がこの場にいない」
フランダーは話しながら、じりとフラムに近づく。
「それはじきに来る。要はそこではない。……時にフランダー、お前はこの死霊術式を手中に収めたらしいな」
フラムがフランダーを見た。
「それは、そうですが……」
「お前だ」
フラムはゆっくりとフランダーを指さして言った。
「お前がメレアの代わりになったのだ」
フラムは告げた。
◆◆◆
かつて、その魔眼によって世界の式の揺蕩いを誰よりも正確に見たという〈白帝〉レイラス=リフ=レミューゼは、死の間際にいくつかの碑文を残した。
レイラスは世界の式の揺蕩いから、その未来を見たと言われている。
そしてそんなレイラスの遺した碑文は、いまだにレミューゼ王国に存在した。
「メレアが生まれなければ、たしかにこの未来はありえなかっただろう。碑文のとおり、今代のレミューゼ王はすでにこの場にいて、遅かれ早かれ――〈狂王〉となったに違いない」
〈狂王〉。
その名をかつて、ハーシム自身が口にしたことがあった。
「そして〈狂王〉を打倒する〈時代の寵児〉が現れ、やがて世は平定される」
「……」
フランダーはフラムの言葉を聞いて唇を噛んだ。
「すべてはかの国の目論見どおりだ。〈魔王〉という言葉の示すものは確定し、〈悪神〉の力までもを手に入れて、世界は黒に染まる」
「そうはさせません」
「然り。そのために我々は神を裏切り異界を繋いだ。だがまだここにメレアはいない。その代わり、自由の身となったお前がいる」
ふと、フラムがフランダーを差す指の先に青黒い炎が灯った。
「〈狂王〉を生み出させてはならない。なぜなら――」
その時フラムが浮かべた表情を、フランダーは初めて見た。
常に泰然としていて計り知れないところがあるフラム。
それはリンドホルム霊山の山頂にいたときも変わらなかった。
だが、そのときフラムが浮かべた表情は――
「――メレアが泣くからな」
慈しみにあふれた、優しげな笑顔だった。
瞬間、フラムの周囲の地面に複数の魔法陣が展開される。
地獄から解き放たれたかのように青黒い炎が噴出し、周囲一帯に暴圧的な熱風をまき散らかした。
「フラム様ッ!」
「若き〈術神〉よ。我が名は〈炎神〉。かつてズーリアに生まれ、かの国の敵を虐殺し災厄と呼ばれた〈魔王〉の――生まれ変わりである。葬れるものなら葬ってみるが良い。できぬのなら畢竟、我はこの世界にとっての〈魔王〉となるであろう」
その日、伝承の中で語られる八体の青き炎の大蛇がサイサリスに顕現した。





