237話 「すべてが終わったら、また共に」
――まだ、こんな私が残っていたなんて。
自分で自分に驚いている。
父が凶刃に倒れ、ウィンザーを失ったあの日、一つの目標を立て、そのためにすべてを捨てる決意をした。
――いや、そう思いつつ、捨てきれていなかったのだろう。
本当に捨てていたのなら、こんな大立ち回りを演じなかった。
シャウ=ジュール=シャーウッドとして、サイサリス教皇からしかるべき手段で祖国の地を買い戻せばいいだけだった。
――これもすべて、彼らのせいだ。
〈魔王連合〉の魔王たちに出会って、その捨てようとしていたものを、拾いなおさせられたような気がする。
「い、意外だな、お前はそういうものをすべて捨てたものと――」
「口を閉じていろ」
シャウがアリシアの方を見たことに気づいたのか、ザイムードが息も絶え絶えに言ったが、シャウがそれを鋭い言葉で制する。
アリシアは誰が見ても教皇には向いていなかった。
人の上に立つには一定の鈍感さが必要だ。
しかし彼女は誰よりも繊細で、その魔眼にさえ振り回されるほどの弱弱しい少女だった。
だから忠告した。『あなたには無理だ』と。
シーザーはそれを不器用だといった。なぜもっとわかるように言ってやらなかったのか、と。
それについては申し訳なく思う。
しかし自分にもきっと、余裕がなかったのだ。
――不甲斐ない。
今だからこそそう思う。
メレアのように、どれだけきれいごとだと思っていても、それでもなおすべてを救おうと思えなかったのは、自分の度量の狭さが原因だ。
――私は運が良い。
今の時代のほかの〈魔王〉たちが聞いたらぎょっとするかもしれない。
けれど素直にそう思った。
――私はメレアに出会った。
いまだにメレアに出会わず、一人で世界と戦い、あるいは朽ち果てた者もいるだろう。
だから、自分は運が良い。
――〈魔王〉という言葉の意味は、きっと近いうちに変わる。
最初はこの〈錬金王〉という名が背負った業を、ウィンザーを取り戻して再び商人の手に返すことで雪ごうとした。
もしそれが叶えば、〈魔王〉としての悪感は多少なりとも緩む。
そして必要であれば、ただの一商人として、このどうしようもない世界に自分なりの方法で対抗するつもりだった。
――それが私にできる、最善の手だと。
贖罪などという立派なものではない。
これはある意味で敗者の答えであり、諦めたのだと揶揄されても反論はできない。
しかし、これが父に出された問題への、自分なりの回答だった。
――まったく格好のつかないことだ。
そして今、もう一つ格好のつかないことをしようとしている。
捨てた捨てたと言い聞かせていたものを、また再びこの腕に抱こうとしている。
――あなたが聞いたら、なんと答えるでしょうか。
脳裏にメレアの顔を思い浮かべ、想像した。
「――ハハ、そうですね。あなたならそう言うでしょうね」
シャウは意識を戻す。
「私も、どれだけ無様でも、もう一度すべてを求めてみようと思います。貪欲に、それこそ――そう、『金の亡者』らしく」
シャウは顔の横に金剣を構えなおし、ためらいなくその切っ先を突き出した。
◆◆◆
「――」
静寂に包まれた礼拝堂。
「な……ぜ……?」
そこにはぽつりと疑問符を浮かべる生きたザイムードの姿があった。
顔のすぐ横に金剣が突き刺さっているが、切っ先は頬をかすめただけだ。
「あいにく私は『金の亡者』なので。それに、私の背はあなた程度の命を背負えるほど広くはない」
「殺さないのか……?」
「死んだ方がマシだと思うくらいにはこき使って差し上げます。曲がりなりにもバルドラの姓を担う人間ならば、先祖の英断が正しかったことを証明するため、その身を粉にして働きなさい。そして、もしあなたが再びその名にふさわしくない行いをしたときは――」
シャウは踵を返しながら告げた。
「その時にこそウィンザーの姓を担う者の責務として、残りの手足をもぎ取って差し上げます」
「……」
がくりとうなだれるザイムードには、もはや立つ気力がなさそうであった。
そんなザイムードを背にして、シャウはアリシアとシーザーの元へ歩いていく。
「――遅い」
「それは大変失礼をしました。しかし、主役というのはたいてい遅れて舞台へやってくると言いますし?」
「そんな言い訳が通用すると思ってるわけ?」
最初にシャウに向けて唇を尖らせたのはシーザーだった。
「キミがもっと早くいろんなものに気づいていれば、こんなに大事にはならなかったんじゃない?」
「どうでしょうねぇ。私とて完璧な人間ではありませんから」
シャウはシーザーの小言を飄々として受け流す。
「まあ、もうここまで来たら過ぎてしまったことをとやかく言うのはやめよう。それに穴埋めはいずれしてもらうし」
「スピアーノの悲劇全作連続鑑賞とかはやめてくださいね?」
「悲劇だけで済むと思ってる?」
「喜劇もですか……」
シャウがげんなりとした様子で額を押さえる。
「まあ、すべてが落ち着いたあとであれば」
そう返し、ついにシャウはアリシアへ視線を向けた。
「――〈アリー〉」
「っ」
それは、かつてシャウがエヴァンスだったころに使っていたアリシアの呼び名だった。
「気づけばあなたもずいぶん遠いところまで来てしまいましたね」
「……」
アリシアはまだシャウの目を見られなかった。
じっと視線を下げたまま、どことなく申し訳なさそうに押し黙っている。
「そして、多くのものを巻き込んでしまった」
「……どうせお前はまたそんなわたしをバカにするのだろう」
アリシアが歯噛みをしながら顔を横へそむける。
「いいえ」
そんなアリシアに、シャウは言った。
「正直感心しました。まさかあなたがここまでサイサリスを大きくするとは思っていませんでしたし、こうして私が来るまで、あのザイムードに国家を明け渡さなかったことは称賛に値します。おそらくあなたからサイサリスを奪うチャンスは幾度もあったことでしょう」
アリシアにとってザイムードは心の支えでもあった。
しかし一方で、唯一心の読めないザイムードの動きに注意していたところもある。
特に〈白足〉たちの動きが活発になってからはそうだった。
「無論、それはあなただけの力では為しえなかった。あなたを慕う教皇騎士団の面々や、そこにいる道化師、それに、あなたが居場所を与えた〈魔王〉たちのおかげでもあったかもしれない。そのことをあなたは理解していますか?」
「……」
アリシアは改めて今の自分の立ち位置を確認する。
隣にいるシーザー。
さきほど自分を救ってくれた〈影王〉オリガ。
そしていつも心から自分を慕ってくれていた教皇騎士団長マクベス。
「馬鹿にするな」
そこではじめて、アリシアはシャウを見た。
「わたしも、力なき〈魔王〉だ」
アリシアは自分を支えてくれていたシーザーの手を優しく払い、その身一つで立ち上がってシャウに向かい合う。
「それを口惜しく思いますか」
「思う。わたし自身に戦う力があればよかったと、今なお思う」
弱弱しい四肢、一向に大きくならなかった体躯、いまいましい両眼以外、街を歩く少女となんら変わりのない、むしろ病弱ですらあるこの体に、恨みがないとは言うまい。
「それでもわたしがこうして教皇でいられたのは、父エルメルの政治的功績と、それを慕ったサイサリス教徒、そしてこんなわたしを捨てずにいてくれた周りの者たちのおかげだ」
「それがわかっていながら――」
「お前が! 一人で戦おうとするからっ……‼」
アリシア=エウゼバートの中には自分でもどうしようもない感情がある。
「お前がっ……なにもかもを捨てたふりをして……いつも、一人でっ……!」
アリシアはついにこらえきれないとばかりに両手で顔を覆った。
「わたしだって頭ではわかっている。どうにかしようと何度も思った。でも、まだわたしはそれを切り捨てられないでいる。……もう、どうしていいかもわからないんだ」
彼女は『王』には向いていない。
それは彼女の自分ではどうしようもない感情のせいで、それを冷徹に切り捨てられない理性のせいで、その感情の起因となっている男が、彼女の傍にいなかったせいでもあった。
「わたしにとっては……わたしを慕ってくれたすべての者より……」
それが、彼女の歩んだ道の帰結。
「お前が……一番だったんだ」
昔から、ずっと。
「……やっぱりあなたは教皇には向いていませんね」
「それがキミの答え? もしそれで終わりならボクはキミを軽蔑する」
泣き崩れそうになったアリシアを支えたシーザーが、シャウに言う。
その顔にはいつもとは違う、まっすぐな非難の色があった。
「……」
シャウはシーザーの厳しい表情を受けて、ばつが悪そうに頬を掻く。
それから小さくため息をついて、襟を正した。
「……そうですね。あなたの言葉に対する答えとしては言葉足らずでした。この際だからはっきり答えましょう。――私はあなたの思いには答えられない」
びくり、とアリシアが体を震わせたのをシャウは察した。
「今はまだ、やることがあります。だから――」
しかし続けてエヴァンスは言った。
「すべてが終わったら、また一緒に劇を見に行こう、アリー」
幼いころ、まだ体裁など気にせず、無邪気に会話をしていたとき、きっとこんなセリフを彼女に向けて言った。
「だから、泣くな」
彼女に近づき、その頭を優しくなでる。
「……嘘だったら許さない」
「そう思うならおれの目を見ろ。嘘をついていると思うなら、その眼で確かめればいい」
アリシアが目に涙を浮かべながらエヴァンスを見上げる。
「どうだ、嘘をついている男の目か」
「……金の亡者の目だ」
アリシアはそう言って――笑った。
「言うに事欠いてそれか……」
エヴァンスはやれやれと頭を掻く。
シーザーもまたそんな二人を見て笑っていた。
そしてこのとき、シーザーはあることに気づいた。
「アリシア、魔眼の術式紋様が――」
アリシアがエヴァンスの目を見たとき、その眼には術式の紋様が浮かんでいなかった。
「あ――」
言われてアリシアも気づく。
「見えなかった……」
ほとんど自分で制御ができていなかった〈心帝の魔眼〉。
いつもなら相手の心の奥が見えてしまっていたはずなのに、エヴァンスの目を見たときにはそれがなかった。
「ん? 見てなかったのか。それならもう一度――」
エヴァンスがそのことに気づいて再度言うが、
「いや、いい」
アリシアは首を振った。
「見なくていいと、そう思ったからだろう」
「おれは嘘は……」
「そういう意味じゃない。――そういう意味じゃないよ、エヴァンス」
アリシアは嬉しそうに笑って、エヴァンスに言う。
「キミ、なんだかんだ言って自分に関するそういうところは鈍いね。メレアと良い勝負だよ」
シーザーが今度はわざとらしく皮肉るような笑みを浮かべて言った。
「なんだか癪ですね……」
そこでようやくシャウは口調を戻して肩をすくめる。
「まあ、ともかく」
こほん、と咳ばらいをし、シャウは襟を正す。
「まずは上であなたのために時間を稼いでくれている〈影王〉の救援に行かなければ――」
「その必要はないよ」
と、そのときだった。
知らない声が礼拝堂に響き、シャウたちは視線を向ける。
そこには――
「はじめまして、メレアのお友達。僕の名前は〈フランダー=クロウ〉」
どことなくメレアと似た雰囲気を持った、灰色髪の優男が立っていた。
「上で戦っていた〈魔王〉たちにはとりあえず眠ってもらったよ。あんまり僕自身の手で命は奪いたくないからね」
その顔には不敵な笑みがあった。





