224話 「夜天に舞う、古き神星」
「早く捜索隊を出せ! あの仮面の男を逃すな!」
その日、サイサリスにおける最大の軍隊である『サイサリス教皇騎士団』の長は、はじめて自分の目の前でアリシアが声を荒げるのを見た。
普段からどこか厭世的で、可憐な見た目に似合わない世の中を憂い切った様子すら見てとれるのに、今はまるで大好きな菓子を取り上げられてヘソを曲げた少女のようだ。
「陛下、すでに街には捜索隊を出しております。どうか落ち着いてください」
「私は落ち着いている!」
冗談でも笑えない返しだ。一部始終を鏡で見せてやりたい。
教皇騎士団団長、〈マクベス・ガラルベル〉は思った。
「エヴァンスのやつめ……まさかみずから乗り込んでくるとは。迎えに行った私が馬鹿みたいではないか……」
いや、菓子でヘソを曲げた少女というより、うまくいかない恋に憤る少女のようだ、とマクベスは心の中で訂正する。
「ウェスティア商会のものなのですよね?」
「違う! あれはレミューゼの魔王連合の人間だ!」
マクベスがザイムードから伝え聞いたのは、その仮面の男が先日この国と商業協定を結んだウェスティア商会の人間である、という情報だった。
「ザイムードめ、変にはぐらかしおったな」
マクベスの反応を見てアリシアが機嫌悪そうに爪を噛む。
――まあ、確かにザイムードは部下に対して言葉足らずだ。
おそらく妙な混乱が起こるのを避けての配慮だろうが、実働部隊には正確な情報を伝えてほしいとマクベスも思う。
「とにかく、捜索には力を入れています。陛下はここでお待ちになってください。そのような侵入者がいたとなれば、なおさら外は危険です」
マクベス・ガラルベルは三世代前にサイサリスへやってきた外来貴族の末裔だった。
『富を持つ』ことに疲れた曽祖父が、当時のサイサリス教の清貧思想に感化されてこの国へ移住した。
曽祖父はサイサリスの教えに心酔していたが、正直自分はそこまででもない。
――あるに越したことはない。ありすぎて人の性根が歪む手前までは。
それが至って普通の考え方だと思うし、自分もその例にもれずたぶん、普通だ。
「陛下、仮面の男もたしかに気になりますが、そろそろムーゼッグの動きも気になります」
「わかっている。だから北部にも定期的に偵察隊を出しているだろう」
イライラした様子でアリシアが頭を掻く。
その様子を見て、マクベスはなんとなく思う。
たぶん自分は、サイサリスという祖国ではなく、この、なぜか放って置けない小さな少女に忠誠を誓っているのだ――と。
「北部だけ見れば良いというわけではありません。ムーゼッグは戦争慣れしています。私たちの予想だにしない方法で攻めてくる可能性もあります」
「ハッ、あの天才児の目を見ることができればすべてカタがつくというのに」
アリシアの持つ〈心帝の魔眼〉の力をマクベスは知っている。
人の心を一瞥で見抜く力。
もっとも驚異的なのは、現時点で考えている事柄のみならず、その者の深層意識に残る過去の記憶なども意図的に見ることができるという点だ。
――本人すら知りえない潜在意識を、彼女は見抜く。
見抜いてしまう。
「アリシア陛下、私はあなたの剣であり、盾です」
「……」
マクベスはかつて、アリシアに言われたことがある。
『お前は良い人間だな。素朴で、誠実。夢みがちというほどではないが、されどその欲求はたしかに他者の救済へ向いている』
すべてを救えるとは思っていない。
それどころか『救う』などとたいそうなことを自分が為せるのかについてもあまり信用していない。
しかし、こんな自分でも手の届く範囲の大切な人間のことを少しくらい助けられるかもしれない。
だから騎士になった。
そんな自分も気づけば国家軍隊の長だが、正直、そんな自分の思いが実は自分の建前や体裁が生んだ偽りの欲求なのではないかと自分自身を疑う時期があった。
それを彼女がその言葉で吹き飛ばした。
自分以上に自分の心を知る彼女の言葉が、自分を救った。
「私はあなたの望みのままに動きます」
そう告げながらちらりとアリシアを見る。
それは暗黙の合図。
「見ればお判りでしょう?」
「……言うな、わかっている」
マクベスの視線に呼応するかのように、アリシアの眼の中には魔眼の紋様が浮かんでいた。
「どうやら少し落ち着いたようですね」
マクベスは柔らかく微笑みながら襟を正す。
「私の周りにはどうにも意地の悪い連中が多いらしい」
「恐れながら、今の言葉は聞き流しておきましょう。――さて、では話を元に戻します。陛下、仮面の男の追跡に関してはザイムード氏の〈白足〉たちも動いているのですよね?」
「ああ、だがザイムードは私になにかを隠している」
唯一〈心帝の魔眼〉が効かないと言われるザイムード。
だからこそアリシアの精神の避難場所になりうる彼は、いつのまにかアリシアの側近になっていた。
見たくもないものをその目で見てしまう彼女にとっては、確かに貴重な人材なのかもしれない。
「裏方仕事は彼らの方が一枚上手です」
「それもわかっている。だがザイムードにだけ任すのは良くない気がするのだ」
それには同感だ。
最近のザイムードは独断専行が多い。
ザイムードは、サイサリスの暗部にしてもう一つの実働部隊――霧に紛れて消えそうな白装束を身に纏った密偵集団〈白足〉を率いている。
先日〈芸術都市ヴァージリア〉で魔王簒奪を行ったのもこの白足たちだ。
――きな臭いな。
マクベスも当然彼らのことはよく知っている。
質実剛健が売りの教皇騎士団と比べて、やり方があくどいため、正直あまり好きではない。
国が大きくなる過程でそういう部隊が必要であることはわかるが、個人の好悪に関しては別の話だ。
「ザイムードには『生きて捕らえろ』と言ったが殺してしてしまう可能性はある」
「まあ、悪意のある侵入者ですのでそれもまたいたしかたないところでもありますが」
だが、できれば情報を吐かせたい。
無論、ここまでのアリシアの様子を見るにおそらく顔見知りなのだろうから、アリシアにもなんらかの意図があるのだろう。
「教皇騎士団が先に仮面の男を捕らえた場合、いかがいたしますか?」
「私の前に連れてこい」
「悪意ある侵入者を?」
「マクベス、先ほどお前は私になんと言った?」
「――御意のままに、我が陛下」
問答の余地はない。
であれば――
「捜索部隊を増員しましょう。誰よりも早く仮面の男を捕らえて参ります」
最後にもう一度だけ頭を垂れて、マクベスは謁見の間を後にする。
『団長‼ 東から海賊たちの襲撃がっ‼』
息を切らせた騎士団員が謁見の間の扉をあわただしく開けたのは、ちょうどその時のことだった。
◆◆◆
――来た。
胸中で浮かべた言葉には二つの意味があった。
「ハッハァ! いいぞ、荒っぽそうなのが来たじゃねえか! このサイサリスって国はしみったれた顔の連中が多くて飽き飽きしてたんだ! あれがお前の祖国の軍人か⁉」
「違うよ。あれは雇い入れた『捨て駒』たちだろう。僕の祖国の軍人は、みな黒い鎧を身にまとう」
「なにはともあれ、動けるようになったのは僥倖だ。私たちを縛っている死霊術士が束縛を緩めたか。……まあどこにいるのかはわからないが」
月光に照らされる三つの影があった。
一つは熊のような巨体の男。
もう一つは灰色の髪と赤い瞳を持った美丈夫。
そしてもう一つは――
「二つ、戦場がある。ここにあのバカがいればかつての〈ワイズ=ナード戦役〉を思い出すが……どうやらあのバカはここにはいないようだな」
体の周囲にバチバチと弾ける『白い雷』をまとった長髪の男だった。
「ヴァンはたぶん『向こう』だね」
「なんだよ、あいつだけずりぃな!」
灰髪赤眼の美丈夫――〈フランダー=クロウ〉の言葉に悪態をついたのは熊のような巨体の男だった。
「でもタイラントは戦いが大規模になればなるほど燃える性質だろう?」
「ハハッ! まあ暗黒戦争時代みたいなのはこりごりだがな!」
巨体の男――〈タイラント=レハール〉は大きな声で笑った。
「どうやら今、私たちは自死やほかの英霊への攻撃を止められているようだが、それ以外の指向性を持つ場合は術式の使用に関してもほとんど縛りがないらしい」
「そうなのか? 俺はお前らみたく術式に詳しくねえからよくわからねえが、別に何かに縛られてる感覚はねえな。ていうか、よく考えたら自分がどうやってここまで来たのかもわからねえ」
「ハッ、脳筋め」
「あ? おめぇもそう変わりねえじゃねえか、このむっつりセレスターが」
「なに?」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
小競り合いをはじめた男二人を諫めつつ、フランダーはひとりごちる。
――セレスターも体が若いせいかリンドホルム霊山の時より少しカっとなりやすいなぁ。
体の自由を確認すると同時、即座に自死と自分たちへの攻撃を躊躇なく実行したのはまさしく〈雷神〉の号にふさわしい決断力だが、霊山にいたときの深い落ち着きは少し薄れている気がしないでもない。
「それで、フランダーよ。お前の方で私たちを縛っている術士の居場所は割れたのか?」
「いや、巧妙に隠れてるよ。さっき一度面と向かって会ったんだけど、今回はちょっと遠いらしい。死者を手繰る道行はあまり良いものじゃないね」
よくもまあここまでうまく隠れたものだ。
自分にだけは強めに繋げられている『魂を縛る紐』の魔力を通じて、逆探知を試みるが、サイサリスの地下へ入り込んだあたりで魔力の残滓が追えなくなる。
「それならそれでいい。その分お前の縛りが緩くなるはずだからな」
「反転できればこっちのものなんだけどね。たぶんさっきの相対の時に僕の現時点での力量を測られたかな。術式がずいぶん組み変わってる」
「巧妙だな。まあいい。いずれにせよ、やることは決まっている」
〈雷神〉セレスター=バルカが言った直後、タイラントが雄たけびを上げた。
「戦争だッ!」
熊のような巨体の男〈戦神〉タイラントが背中に差していた巨大な剣を抜いて一歩踏み出す。
三人の立つ背の高い教会の屋根がみしりと軋んだ。
「指示を出せ、フランダー! 俺はもう小難しいことを考えたくねぇからな!」
「かの高名な〈七星旅団〉の団長がよく言うね」
「だからだ! 俺の部下はここにはいねぇ。あいつらのケツを持ってやる必要もねぇ。こっからはただ一人の傭兵だ!」
「〈戦神〉とまで呼ばれた伝説の傭兵を雇えるだなんて光栄だ」
フランダーはふっとタイラントに笑いかけてから東を向いた。
「タイラントは東で海賊たちを抑えて。『レイラスの碑文』的にも、今この国で見境のない略奪を行わせるわけにはいかない。セレスターは西にいるメレアの仲間たちと合流してくれ」
「お前はどうするんだ、フランダー」
「僕は二人ほど自由には動けない。だから――」
フランダーの赤い眼の中に〈術神の魔眼〉模様が浮かび上がる。
「ここから招かれざる〈魔王〉をできるかぎり駆逐する」
それまで冷静に二人を諫めていたフランダーの眼の中に、戦人特有の鋭い光が宿ったのを見て、セレスターとタイラントの方が今度は小さく笑った。
「メレアの仲間たちの傍にクリア様がいる。今は彼らを見守っているようだけど、基本的に僕たちは〈死神〉の手のひらの上だ。いざとなったとき状況がどうなるかはわからない」
「うははっ! 貧乏くじだなセレスター! あのクソババアにぺちゃんこにされないようにな!」
「貴様こそ陸地で海の藻屑にされるような間抜けにならないようせいぜい気をつけろ、筋肉バカめ」
背中合わせの三人。
軽口がゆっくりと澄んだ空気に溶けていったところで、〈神号〉を持つ三つの影が、同時に動いた。





