223話 「ルーサーの決意」
「時間は――そこまで経ってねえみたいだな」
周囲をぐるりと見渡したサルマーンがつぶやく。
体のところどころに傷跡が見られるが、声音は安定していてむしろ力強さすら感じた。
「あの、サルくん?」
そんなサルマーンの唐突な帰還に、シャウのほうが少し驚いた表情で言葉を返す。
「あ、おめえにはいろいろ言いたいことがあるがそれはあとだ。それに、たぶん先にエルマが言ってるだろうしな」
サルマーンは片手を振って答え、それから今度は少し目を細めてある一点を見つめた。
「――あそこか」
シャウも同じ方向へ視線を向けるが、そこにはいたって普通のサイサリスの街並みしか映らない。
「おい、ゼウス」
すると今度は反対側から聴き慣れない声が聞こえた。
「僕の言葉を忘れるなよ。人をたやすく信じるな」
「あ? うるせえうるせえ。わかってるよ。でもわかったうえで俺はこいつらと一緒にいるんだ」
シャウは一目見てその少年がサルマーンの祖先――第八代〈拳帝〉セレン=アウナス=フォン=ルーサーであると確信した。
両腕に刻まれた術式紋様。
戦いの影響か、体にはいくつもの傷跡があるが、それでもこの男と戦おうなどという気はまったく湧いてこない。
――武芸者としての次元が違いすぎる。
端的に、無慈悲に、佇まいだけでそう思わされた。
「僕のゼスティスの暴走は長年付き添った侍女の裏切りによるものだ。彼女がずっと昔の、それこそ始祖たちの間で起こったルーサー家とエレアス家の『しがらみ』を受け継いでいることなんて僕は知らなかった。無知は罪になり、やがて僕に罰を下した」
「でも、お前も人を信じてたんだろ。戦い続けるお前の帰りを待ち続けたその侍女を、信じてたんだろ。だから裏切られたとき、ゼスティスは暴走したんだ」
「……」
「最初から信じてなかったらなにも起こらなかった。すべてが良かったとは言わない。けど俺は、ルーサーの崩壊のきっかけが人を信じたことによって起こったことであることに、ほんの少しだけ救いを感じるよ」
サルマーンとセレンの視線が交わる。
「でもこのままじゃダメだ。ここで終わったら悲しみと憎しみだけが残る。だから俺はルーサーの末裔として、もう一度人を信じることにする。それが俺の、十三代〈拳帝〉としての役目だ」
「はっ……勝手にしろ」
そう鼻で笑った直後、セレンの体が光の粒に変わっていく。
「そこまで言うならせいぜい足掻いて見せろ。僕から言えるのはそれだけだ」
天に昇る光の粒。
体のほとんどが光になる直前、わずかに残ったセレンの双眸がその場にいたもう一人の英霊を見た。
「――〈土神〉クリア=リリス」
「はじめまして、〈神の声を聴きし一族〉の血縁よ」
クリアはほかの皆と同じように空へ還っていくセレンをじっと見つめていた。
「ハッ、今になってその呼び名を知っている人間に会うのは奇妙な気分だ」
「〈忌むべき悲嘆の兵器〉が生まれたのはあなた方がいたからですからね。まあ、私もその誕生を知ってまもないうちに死んだのであまりくわしくはありませんが」
「そういうお前たちも世界の理の外から魂を呼んだようじゃないか」
「……」
ぴくりとクリアの眉が反応する。
「〈異界草〉を使ったな? お前たちも僕たちの一族に負けず劣らずの狂人だ。リンドホルム霊山の山頂に縛られるだけはある」
それぞれの言葉の意味はその場にいたほかの者たちにはわからなかったが、セレンが一言一句にこれでもかと皮肉を詰め込んでいるのはわかった。
「だが、ルーサー家の人間としては感謝しよう。お前たちがこさえた〈魔神〉のおかげで僕の一族は生き延びた。そして宣言しよう」
そのときのセレンの声音は、一転してどこか嬉しげであった。
「〈呪われた神の楔〉を引きちぎるのは僕たちルーサーだ」
「暗黒戦争時代を生きたにしては意外と一族に対する自尊心が高いようですね。ですが、私たちの子を侮ってもらっては困ります。たしかにあなたたちは真正面から『アレ』に喧嘩を売ったようですが、私たちには私たちのやり方がある」
「ハハ、じゃあ期待しておこう。まあいずれにせよ、僕の役目はここまでだしな」
そこでついにセレンの体は消えた。
きらきらと輝く翡翠色の光もまた、遠く天に呑まれていく。
「俺たちを蚊帳の外にして勝手に話を進めるなよ……」
そんな二人のやり取りをじっと見ていたサルマーンが、ようやくため息をつく。
「高名な過去の英霊たちにどんな壮大な思惑があったのか知らねえが、俺たちは今を生きるので精一杯なんだぜ……」
ちらりとサルマーンがクリアに視線を向ける。
「そのとおりですね」
クリアが小さく頭を垂れた。
「はあ、いまいち接し方がわからねえな。あー……こういうときこそメレアが欲しいんだが……まあ、ないものねだりをしたってしゃあねえか」
顎に手をやってなにやら考え事をしていたらしいサルマーンだったが、最後に大きなため息をもう一度だけついて襟を正した。
「んじゃ、まずはこの状況をなんとかするか」
そう言い放った直後、サルマーンの背に巨大な光輪が展開される。
びりびりと空気が震えるような力の波動。
術師ではない者の目から見てもわかるその存在の異様性。
その場にいた仲間たちは、再び目を丸くしてサルマーンを見る。
「あのあの、サルくん? とりあえず一からいろいろ聞きたい欲求が爆発寸前なんですが、この欲求ってすぐ解決されます?」
「されるわけねえだろ金の亡者。今お前の脳天に〈魔弓〉の照準が合わせられてんだぞ」
「……はい?」
「もう一度言ってくれ」とでも言わんばかりにシャウが目を見開く。
「向こうはとっくにヤる気なんだよ。お前とサイサリス教皇の間にどんな関係性があんのかわからねえが、この街はとっくに抜き差しならねえ混沌とした戦争状態ってこった。……くそ、最初に気づいちまうのも貧乏くじだな」
直後、サルマーンがさきほど見つめていた地点から青白い魔力の光が散った。
「こっちもちょっと荒っぽくいくぜ」
◆◆◆
――身を守るためには力がいる。
最初は〈魔弓〉の力があれば一人で生きていけると思っていた。
――今度こそ当てる。
しかし、故郷を追われ、〈魔王〉として北方大陸を放浪していたころ、ある化物に出会った。
その化物の名を〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉といった。
――アレと比べれば……。
後天的に遠視術式を刻んだ左眼の魔眼。
その眼があの化物を捉えたとき、信じられないことに――『目が合った』。
ほとんど衝動的に魔弓を構えて矢を放つ。
しかしそれはあの化物の肩上の空間からあらわれた不気味な黒い手によって叩き潰され、次の瞬間には――
『生きたいか、死にたいか、二秒で選べ』
後ろにそれがいた。
どうやって移動したのか。
いやそれよりも自分がどう答えるべきか。
生殺与奪を握られている状態でまともな思考は回らず、だからこそ答えは魂の芯から漏れるようにして出た。
『――そうか。で、あれば』
〈弓帝〉ヘルガ=ヘイズロードはその日、命と引き換えに尊厳を売った。
『私の命令を糧に生きろ。……貴様は臆病そうだ。メレア=メアと違って我らがムーゼッグに刃向うこともないだろう』
その化物が口にしたメレア=メアという人物が、かつてこれと渡り合って勝った〈魔神〉であることはのちに知った。
先に出会っていればまた違う道があったのだろうか。
『まずはサイサリスに潜め。いずれあそこが戦場になる。貴様には――あの現実を知らない〈心帝〉に取り入っておいてもらおうか』
しかしもう遅い。
矢は放たれた。
「私はもう戻れない」
ヘルガの眼は遠く映る短髪の男に向かって飛ぶ魔矢を追う。
そして――
「お前も面倒なしがらみを背負ってそうだな、おい」
◆◆◆
「っ!」
かつての光景がフラッシュバックする。
後ろから聞こえた声に心臓が大きく脈打った。
「そんな化物でも見るみてえな目をするなよ……いやまあ、気持ちはわかるけどよ」
振り向くとそこにさっきまで向こうにいた短髪の男が立っていた。
「ありえない。こんなことが二度もあってたまるかっ……!」
「あ?」
物理的にありえない移動は、十中八九空間編成や時間操作に関わる魔術によるものだろうが、そもそもとしてそれらの魔術は理論の時点で秘術にたぐいされるものだ。
「くっ!」
「やめとけ」
時計塔の屋根の上。かぎられた空間の中をバックステップして至近にて魔弓を構える。
間髪入れずに撃った魔矢は、
「俺と違ってゼスティスは加減が苦手なんだ」
男が前に掲げた手から広がった馬鹿げた大きさの術式陣に止められた。
衝突の余波で爆風が跳ね返ってくる。
「術式貫通が付与された魔矢だぞ……!」
「知ってるよ。それ〈七帝器〉だろ?」
男はその背部に展開された光輪を揺らめかせながら一歩近づいてくる。
「だが、お前らの使う七帝器に組み込まれた術式系は、ゼスティスが一番知ってるものだ。なんたって自分が基になって作られたわけだからな」
ヘルガは腰から短剣を抜いて男の懐に突っ込む。
「おい、待て待て、くそ、わからねえ女だな」
再び魔矢のように止められるかと思ったが、今度は術式の展開はない。
まだ勝機はあるとヘルガに一抹の希望が芽生えた直後。
「そんなに殴られてえなら殴るぞ。俺だってキレてねえわけじゃねえからな」
突きだした短剣がおそろしい速度の手刀で叩き落とされる。
「あっ」
顔を上げる。
男の顔が映る。
その目の中に――見ただけで体を引き裂かれてしまいそうな鋭利な光があった。





