219話 「その日、もう一人の怪物が生まれた」
見えない打撃が四方八方から襲ってくる。
かろうじてそれに押し潰されずに済んでいるのは、拳が勝手に反応するからだった。
「くっそ……!」
術式であればまだ防ぎようがあった。
しかしセレンが使っているのは〈魔拳〉による理屈の存在しない力だ。
陣の展開もなければ魔力のほとばしりを感知することもできない。
「打たれてばかりではゼスティスが泣くぞ」
間隙を縫って同じく遠距離から拳を繰り出す。
〈魔拳〉に願うのは力の伝導。
「弱い」
しかし同じく繰り出した見えない拳はセレンの〈魔拳〉によってたやすく止められる。
「まだダメか」
ぼそりとセレンがつぶやくと同時、今度はセレンが一瞬で間合いを詰めてサルマーンの腹に拳を叩き込む。
「ぐ、はっ……!」
「そんなにもゼスティスに愛されているのに」
腹を打たれて頭が下がったところに、すかさずフック気味の左拳が飛ぶ。
「お前、感情を抑えるクセがあるな」
「あたり、まえだろ……!」
それをなんとか腕で防御し、一歩下がって息を整える。
「こいつをまともに操るには感情を制御しなきゃなんねえ。それくらいてめぇだってわかってるだろ」
〈魔拳〉は所有者の感情に過敏に反応する。
サルマーンはかつて自分を襲った暴漢たちの首が、得体の知れない力でねじきられた光景を鮮明に覚えている。
「なんだ、その平和ボケした理屈は? ……操る? そこからお前はゼスティスを勘違いしているんだ」
セレンはそのときはじめて怒りをあらわにした。
「ゼスティスは道具じゃない。〈七帝器〉のような無機質な道具とは似て非なるものだ」
セレンが腕を振る。
するとそこに術式陣が展開された。
「なに、してやがる」
「術式だ」
「術士だったのか」
「違う。僕は術式を使えない」
現に今術式陣を展開したではないか。
サルマーンは口元の血をぬぐいながらセレンの言葉の意図をさぐる。
「これはゼスティスが外部に術式を展開したんだ」
たしかに術式の力は人間以外の生物も使うことがある。
メレアもそんなことを言っていたし、レミューゼに屹立するあの大星樹もまた、術式の力で色とりどりの光を放っていると言われていた。
「〈魔拳〉は、生物じゃない」
サルマーンが言った。
「たしかに、〈魔拳〉はそれ自体が術式によって生成されたものだ。一般的な生物と呼ぶには存在の仕方が歪なのは認める」
代を経るごとに式が変容してすでにその全容はつかめなくなっているが、もとは人間が生み出したものである。
「でも、そもそもとして術式が使えるか否かで生物かどうかを判定するのは間違っている。なぜなら人間もまた分解すれば式だからだ」
――人体式。
メレアが〈術神の魔眼〉に変調をきたしたときに見たという人間の内部の式。
まさか術士ではない自分の先祖の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「人間と術式が別個のものであるなら、そもそも〈魔拳〉は人の体に宿らない。〈魔拳〉が人体に定着したのは、人間もまた式で構成されることを僕らの始祖が突き止めたからだ」
「じゃあ〈七帝器〉を作ったやつらもそれを知ってやがるってわけか。こいつは〈七帝器のなりそこない〉なんだろ」
「それも違う」
セレンが身に纏っていたローブを脱いで荒野に放る。
小奇麗な衣装に身を包んだいかにも貴族らしい少年の姿が現れた。
「〈魔拳〉こそが始祖だ。〈七帝器〉は魔拳の力の一部を切り取って、操りやすい形に成形したにすぎない」
魔拳は人の思いや願いに感応し、実際に事象を起こす。
そしてその再現できる事象に限界はない。
「やつらの武装に共通するのは『術式的な事象を破壊する』という基本性能だ。事象割断、事象貫通、この力が発揮されるとき、お前は帝器に術式が展開されるのを見たことがあるか?」
サルマーンが七帝器の真価を見たのはザイナス戦役のときだ。
メレアの持つ莫大な魔力に反応し、〈光の剣〉という戦略兵器としての側面を見た。
だが言われてみればたしかに、エルマが戦時日常的に使う『事象割断』の力は、ある意味理不尽で理屈の通らない力だった。
「魔拳も当然術式を一方的に破壊できる。神の作った式でさえ、潰せる」
「世迷言にしか聞こえねえよ」
「実際に見たほうが早い」
そういってセレンが右の拳を前に掲げた。
拳から一気に紫色の光子が燃え上がり、その直後、セレンがその拳でなにかを握りつぶすようなしぐさを見せた。
そして――
「こういうことだ」
サルマーンの体が、なにか得体の知れない力に引っ張られる。
その力は異様に強く、そこにはけっして抗えない不条理さがあった。
「ぐっ!」
セレンの目の前まで引っ張り出されたサルマーンは、セレンが高速で繰り出した蹴りをくらって横に倒れ込んだ。
すかさず頭を抑えるように降ろされたセレンの足を手で止めて、痛みにうめく。
「なに、しやがった……!」
「『空間』を握りつぶした。世界式によって規定された空間の広さを、その式ごと潰して無理やり狭めたんだ。結果、お前の体はその握りつぶされた空間にひっぱられて、こうして僕の足の下ではいつくばっている」
言われてもなお理解しがたい事象。
しかしサルマーンは自分が体感した『けっして抗えない力』によって、なんとなく理屈をつかんでいた。
「世界に……引っ張られたのか」
「そうだ。僕がお前に直接〈魔拳〉の力を使ったわけじゃない。世界式が歪んだ影響で、世界そのものに引っ張られたんだ」
――どうかしている。
「これだけの力を発揮するために、〈魔拳〉はなにを代価にしている……!」
術士は己の術素を代価にする。
式の効果を事象として起こすためには、必ず燃料が必要だ。
仮に〈魔拳〉が世界の式にまで手を加えられるとして、はたしてそこに必要なエネルギーの総量はどれほどなのか。
「――命だよ」
サルマーンはそのときふと、『すべての式はそこに繋がっている』と思った。
◆◆◆
〈魔拳〉を継承したルーサーの王族は代々短命だった。
それは戦の多かった時代性が理由でもあるし、なにより〈魔拳〉の狂気にあてられたからでもあると言われている。
しかし、実際は、
「〈魔拳〉はその燃料として継承者の命を使う」
だから彼らは代々短命だった。
「さて」
セレンがサルマーンの頭を踏んでいた足をどける。
いったいなにごとかと思っていると、今度はサルマーンの体が元いた場所へと再び引っ張られ出した。
もはやなにがなんだかわからない。
「ここは精霊が少ない。本来なら歪んだ世界式を修復するために僕が握りつぶした空間へ精霊が集まるはずだが、精霊が少ない場所では世界の〈修正式〉のほうが先に稼働する」
まるで空間を元の広さに戻すかのように、サルマーンの体もさきほどまで経っていた場所へと不条理な力で戻っていく。
「これだけのものを生み出した僕たちの始祖も、この謎の〈修正式〉だけは解明することができなかった。これこそ〈神の術式〉と呼ぶにふさわしい。この世の誰もが把握できていない、正真正銘の『謎の力』だ」
もとの場所に戻ったサルマーンはもはや事態を把握できない。
どれだけ市井にある本を読んでも得ることのできなかった知識の数々。
「……リリウムが知ったら卒倒しそうだな」
ふと脳裏に紅の髪の魔王の姿が映って、彼女が眉間にしわを寄せている顔が次に映った。
「また仲間の話か」
「悪いかよ」
サルマーンにとって、仲間はなくてはならない存在だ。
彼らの存在が自分に理性を与えてくれるし、〈魔王〉という名前の暴圧に負けてひねくれそうになる自分を、正しい道に戻してくれる。
「俺にとって、仲間は救いだ。甘いと言われたって、俺があいつらを仲間だと思ってることは絶対に変わらない」
周りをよく見ていると、いつも言われる。
見た目のわりに冷静で、現実的。
たまに魔王たちの良心と半分バカにするように言われることもある。
――違うんだ。
サルマーンは自分がそんなにできた人間でないことを知っている。
ただ、できるだけそうあろうと努めているだけだ。
よく本を読むのもその一環で、自分のどうしようもない本性を理性で叩き伏せようとしている。
「それは足かせだ、ゼウス。人は裏切るし、なにより本当の死線では弱い者を守っている余裕なんてない」
「……そうなのかもな。いや、少なくともお前の時代はそうだったんだろう」
セレン=アウナス=フォン=ルーサーは最も戦乱が激しかった時代の〈拳帝〉だ。
「でも、お前はルーサーを滅ぼして死んだじゃねえか」
同じ道を辿ってなるものか、と、もうなにもなくなった今でも、そう思ってしまう自分はやはり〈ルーサー〉なのかもしれない。
「……そうだな」
その言葉を受けて、セレンは意外にも寂しげな表情を浮かべた。
戦乱の時代を生きたにしては、傷の少ない美しい顔。
しかしその瞳の奥に、無数の傷をサルマーンは見る。
「最後だけは、油断したと思う。僕は、人の妄執の果てを見たよ」
史実では、セレンは魔拳の狂気にあてられてその力を暴走させたと言われている。
しかし、その口ぶりはどこか『正史』と異なる歴史を感じさせた。
「ゼウス」
セレンが伏せていた目を再びサルマーンに向ける。
「お前の理性が強靭であることはわかった。だが、ゼスティスを扱うのにそれは邪魔だ」
「あ? 何度も言わせ――」
「だから、その枷を僕が外してやろう」
一瞬の出来事だった。
セレンが手を横にかざす。
「サル!」「サルー!」
ぐにゃりと奇妙に歪んだ空間の向こうから、リィナとミィナが現れた。
「――」
背筋を得体の知れない悪寒が撫でる。
その瞬間にはサルマーンはすでに体を前に弾いていた。
「これが暗黒戦争時代だ」
セレンの手刀は、なんのためらいもなく振り下ろされた。
◆◆◆
この世界は腐っている。
「――」
理不尽と不条理ばかりが世界を覆っている。
――俺たちが、なにをしたっていうんだ。
小さなころ、いつも口にしていた言葉をまた思い出す。
「――」
無残に、荒野に転がって『それ』を見て、サルマーンはずっと心の底に封じ込めていた怒りを思い出した。
――そいつらが、お前に、なにかをしたのか。
自分が害した者。
戦いで、命を絶った者。
そういう者たちに関わる怨嗟は、すべからくこの身をもって受けよう。
それが、命に手を下した自分の責務だ。
――でも、それは、おかしいだろう。
「――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
込み上げた感情がある。
それは怒りと呼ぶにはあまりに無節操で、どす黒い。
「それでいい」
セレンが小さくつぶやいたが、もうサルマーンには聞こえていなかった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛――」
魔拳の紋様がずるずるとサルマーンの全身を覆っていく。
「聞いた話では、〈魔神〉メレア=メアには〈百の英霊〉が憑いているらしいな。僕が死ぬほんの少し前に東の黒国に生まれた『史上最高の術士』もその中にいると聞いた」
唯一、その号を聞いて、ほんの一瞬だけサルマーンの脳裏にあの雪白髪の友の姿が映った。
「でも、それがどうしたというんだ」
「ア゛、ア゛ア゛――」
その虹彩にいたるまで、一切の隙もなく完全に魔拳の術式紋様に覆われたサルマーンの体から、今度は弾けるように紫色の光子が噴き出した。
「そいつは人間の形をしている者の中で史上最高だっただけだ。たかだか一代でその領域に上り詰めた力量は認めよう。けれど――」
得体の知れない光が何度もサルマーンの体の周囲でキラキラとまたたき、やがて光子がさらに熱されたかのように色を変えた。
「お前は、ルーサーが何代にも渡って命を捧げ育ててきた――〈神の御子〉の継承者なんだぞ」
光炎と呼ぶにふさわしいまばゆいばかりの炎は、金色の光を放っていた。
それは、かの〈魔神〉メレア=メアが、遠くアイオースにおいて覚醒させた力とよく似た色だった。
「お前は器だ、ゼウス。〈神の御子〉を地上に顕現させるための、器なんだよ」
世界を殴りつけるようにあちらこちらに発散していた金色の光炎は、徐々にサルマーンの体に収束し、ある姿を象った。
その『怪物』には、二本の巻き角と一本の尾があった。
さらに背中に、後光を示すかのような巨大な輪が現れる。
「形態は僕と同じだな」
セレンが小奇麗な上着を脱いで荒野にほうり投げる。
直後、セレンの体からも金色の光炎が燃え上がり、サルマーンとまったく同じ二本の巻き角と一本の尾が形成された。
「さて、ここからだ。……まったく手のかかるルーサーの末子だよ、お前は」
ふと荒野を見ると、セレンに首をはねられたリィナとミィナの亡骸が見当たらない。
「ヴヴ――」
しかしすでにサルマーンには周りの状況が見えていないようで、術式紋様が刻まれた双眼はセレンだけを射殺すかのように捉えていた。
「あとは戻って来れるかだな。こればかりはお前が育てた理性に懸けよう。僕たちのような、子どものまま死んだ〈拳帝〉にはない、背伸びをして得た――大人びた理性の力に」
その日、〈魔王連合〉にもう一人の怪物が生まれた。





