218話 「お前は一人で死んでいけ」
戦乱に狂った時代を生きた英雄たちの、あまりに強大で、あまりに悲しいその力を、その日彼らは知った。
◆◆◆
――今までだって、簡単な戦いなんて一つもなかった。
それでも自分たちが、あの〈英霊の子〉メレア=メアや、そのメレアと渡り合った〈戦乱の寵児〉セリアス=ブラッド=ムーゼッグと比べて、見劣りすることも自覚してきたつもりだ。
だから自分たちが〈魔王〉と揶揄される力を、あえて鍛練することでどうにか生き抜いてきたはずだった。
「お前は本当に僕の子孫なのか」
「あいにくそうらしいぜ……」
「では、今ばかりは『あの時代』を生きたのが僕で良かったと、心の底から思うことにしよう」
それは最大の皮肉。そしてこれ以上ないほどの屈辱だった。
自分の不甲斐なさが、彼の抱いた後悔を、あろうことか安堵に変えてしまった。
これは、あってはならないことだ。
「もしあの時代を生きたのが僕ではなくお前だったら、ルーサーはもっと早くに滅びていた」
「っ」
そこはサルマーンがよく知るとある場所だった。
「悲しいな、ゼスティス。お前もそんな弱いやつのお守りは大変だろう」
砂塵の吹く荒野の中で、年端もいかない一人の少年を前に膝をつく男がひとり。
息も絶え絶えに歯を食いしばる、〈拳帝〉サルマーン=ゼウス=フォン=ルーサーだった。
「ゼウス、我らが〈拳帝〉の末裔。お前はここで死んでいくといい。それがきっと――この血の運命だ」
サルマーンと同じ砂色を髪を宿した少年は、なんのためらいもなくそう告げる。
青白い顔に乗る表情には笑みも悲しみもない。
ただ現実を無慈悲に断定する神のように、感慨なさげに少年は続けた。
「嘆いてはならない。お前は嘆くほど困難な状況にはいないし、なにより、どうしようもなく弱いのだから」
「ふざ……けんなよ……!」
立ち上がるために地についたサルマーンの拳が、小さく軋んだ。
◆◆◆
時は遡ること十分ほど。
サルマーンたちは教会での一幕を終えて、シラディスに遅れて駆け付けたエルマ、さらにアイズとも合流し、それからある場所へと向かった。
明確な目的地があったわけではない。
しかしサルマーンは自分がどこへ向かうべきなのかがわかっていた。
――魔拳が鳴く。
なにか強い力に吸い寄せられるように、拳はある方角へ進みたがった。
「サルマーン、もう少し、慎重に」
「わかってる、シラディス」
そしてもう一人、サルマーンとは別に目的地を知っている者がいる。
褐色の肌と桃色の髪を持った長身の美女、〈獣神〉シラディスである。
シラディスは急ぎがちなサルマーンを諌めるように、隣で何度かその服の裾を引っ張った。
「だが、いつ消えるのかもわからねえ」
「それはそうだけど、向こうの目的もわからない」
サルマーンの予想が当たっていれば、そこにいるのは生者ではない。
あの〈死神〉ネクロア=ベルゼルートが現界に降ろした死者だ。
であれば、芸術都市ヴァージリアでそうであったように、自分たちに敵対的である可能性が高い。
「俺はムーゼッグなんかより、あの死神のほうがよっぽど性質が悪いと最近思う」
敵対してくる相手の目的がわからないというのは、シンプルに気味が悪いものだ。
目的がわからないからといって抵抗の手を緩めるわけではないが、それでも常に得体の知れなさが胸裏に付きまとう。
見た目も不気味だが、その輪郭のはっきりしない存在の質こそが、根本的な気味の悪さをかもしだしているのだろう。
「くそ、このあたりから人が増えるな」
教会のあった区画からしばらく歩くと、上流区のメインストリートに繋がった。
ヴァージリアのような華美な衣装に身を包んだ紳士淑女が闊歩している。
清貧の国が聞いてあきれる。サルマーンは心の中で思う。
「だが、近ぇな」
「うん、もう少し」
体に緊張を敷いて、仲間たちとはぐれないように再び歩き出す。
後ろには〈盗王〉クライルートと〈刀王〉ムラサメ、そして〈剣帝〉エルマと〈天魔〉アイズ。
双子、リィナとミィナはがっちりと手を繋ぎながら彼らに守られるような形で歩いている。
サルマーンはほんの少し彼女たちのほうを振り向いて、それから〈盗王〉クライルートに目配せをした。
――いざというときは頼む。
クライルートもサルマーンの目配せには気づいたようで、小さくうなずきを見せた。
それからさらに数十秒後。
ついにサルマーンはある人影を捉える。
――いた。
後姿だ。
その人物がどんな顔をしているのかはわからない。
けれど、確信があった。
「気をつけろ」
華美な衣装を身に纏っているものが多いこのメインストリート上で、逆に目立つすり切れたローブを着ている。
フードを目深にかぶり、けれども前を向いて歩いていることがわかる。
彼の周りにはあまり人がいない。
まるで周りの人間が無意識に近づくことを避けているかのような不思議な光景だった。
「行くぞ」
意気を固め大きく前へ。
すべてはその一歩を踏みしめた瞬間に起こった。
砂色のローブの少年がわずかにこちらを振り向く。
その次の瞬間。
少年の両腕を起点に発された紫色の光子が、あたりを覆った。
◆◆◆
「くそがっ……!」
視界が開けたとき、周囲一帯が文字通り削り取られていた。
まるで超高圧の炎に溶かされたかのような削りあとを見て、サルマーンの額に汗が浮かぶ。
「無事かっ!」
サルマーンはとっさに魔拳の力を使い自分の前方に同じ光子による盾を張った。
術式とは似て非なる力だが、サルマーンの意志や想像に基づいて力を発揮する。
「なんとかな……!」
自分の後ろにいる者たちを守るように張った光子の盾のおかげで、どうにか自分の裏には影響がなかったようだった。
最初に返って来たのはエルマの声だ。
「ここにやってきて、はじめて敵意を感じた」
すると、サルマーンの前方でさきほどのすり切れたローブを着た少年がこちらを振り向いて言った。
「あんなにも慣れ親しんだはずなのに、とても、懐かしい」
敵意。
サルマーンはそこまで明確な敵意を浮かべた覚えはない。
そこにいる人物に一定の予想が立っていて、それがあの〈死神〉ネクロア=ベルゼルートに関わるものであることを察していたから、警戒はしていた。
「敏感すぎるだろ……!」
それを察知した感覚能力はもとより、それを『敵意』であると断定した判断の早さにむしろ怖気を感じる。
「敏感? それは違う。お前が鈍感なんだ。平和ボケしているな、お前」
少年がフードの下からサルマーンに視線を向ける。
はじめて目と目があった。
「――」
そしてサルマーンは確信した。
自分と同じ砂色の瞳。
砂色の髪。
唯一肌の色だけ、まるで死者のように青白いが――
「……〈セレン=アウナス=フォン=ルーサー〉」
そこにいるのが、〈第八代〉の名を冠する遠い自分の先祖であることをサルマーンは疑わなかった。
「そうか、お前が僕の末裔か」
「どうしてわかる」
「ゼスティスがそう言った」
少年――セレンはサルマーンの腕を指差す。
その瞬間、サルマーンの腕の術式紋様が意志に関係なく明滅した。
「まあ、いい。どうして僕がこんなところで、こうして肉体を得て動いているのかわからないが、お前が僕の末裔だというのなら、やることがある」
「あ?」
「……ああ、たぶん僕はそのために降ろされたんだろう」
一拍を置いてセレンが納得したように目を細めた。
「さて、それなら先に邪魔な部外者には退場してもらおう」
サルマーンが身構える。
その直後。
「ボケっとするな、サルマーン!」
サルマーンの右を猛然と走り抜ける影がひとつ。
いつのまにか〈魔剣〉クリシューラを抜いて戦闘態勢に入っていたエルマだった。
エルマはそのまま素早い身のこなしでセレンの側面に周り込み、クリシューラをなんのためらいもなく振り下ろす。
「――〈七帝器〉。そうか、この時代にもまだ〈七帝器〉は残っているのか」
その振り下ろされた魔剣を、セレンはあろうことか指で挟みこんで止める。
「――バカげてる」
剣の軌道を見てすらいなかった。
「弱すぎる。〈イース=エルイーザ〉はもっと苛烈な剣士だった。こんなあくびの出るような剣は稀に見る」
エルマがどうにか剣を引き、連続攻撃を加える。
「うるさい」
そのすべてをセレンは拳で弾いた。
そして一瞬の隙をついてエルマの懐に入り込むと、
「吹き飛べ」
押し出すような動きでエルマの腹部に触れる。
「がっ――!」
エルマの体がふわりと浮いたかと思うと、予想だにしない速度で後方へ吹き飛んだ。
「エルマッ!」
吹き飛んだ先にはさきほどの光子の爆発で抉り取られた建物の残骸。
鋭利に尖った断面が見える。
「ぐっ!」
サルマーンがとっさに魔拳の力を伸ばしてエルマを受け止めようとしたが、先にその体を〈刀王〉ムラサメが受け止めていた。
「お前には肩を並べる仲間がいるんだな」
その一連の様子を見てセレンがなにげなくこぼした。
「てめえにだっていただろう……!」
サルマーンが標的を自分に絞らせるように一歩前へ歩み出る。
「いいや、僕にはいなかった。……少なくとも、肩を並べるような人間の仲間は」
そのときひときわ強い風が吹いて、セレンが目深にかぶっていたフードをめくり上げた。
「僕にとっては唯一、〈魔拳〉だけが共に戦う仲間だった」
その砂色の瞳の中に、どこまでも広がる深い闇を見た気がした。
◆◆◆
「サルマーンッ!」
セレンがサルマーンに一歩近づいたところで再び後ろから声が上がる。
〈盗王〉クライルートのものだ。
「わかってる」
「っ」
ちらりとクライルートを見ると、その手のひらの中にちかちかと明滅するものがある。
術式陣だ。
「お前、すでにあいつの視覚を奪ってるんだろう」
クライルートもまた、エルマに負けず劣らずの早さで行動を起こしていた。
エルマが攻撃を仕掛けると同時に、その〈盗王〉としての秘術でセレンの五感のうちの一つを奪っていたのだ。
だからセレンはエルマの斬撃を見なかったし、そのうえでそれをたやすく防いだ。
エルマの『バカげている』という言葉の意味は、そういう意味だ。
「お前の字名はサルマーンというのか」
ふと、セレンが虚空を見つめながら問いかける。
「〈魔王〉の呼び名から逃れたくて、遠い地の名をみずからにつけたんだな」
「そんなんじゃねえ」
「僕が生きていたころにもぽつぽつと〈魔王〉という言葉を使った詩が流行っていた。実際に僕が〈魔王〉になったのは僕が死んだあとだが、今の時代にそれがどういう意味を持つのかは知っている」
〈死神〉ネクロア=ベルゼルートになんらかの記憶を植え付けられたか、現界に降りてきてからこのまやかしの清貧をうたう街で情報を集めたか。
いずれにせよセレンは〈魔王〉という言葉にまつわるしがらみをある程度知っている。
「だが、お前には仲間がいる。同じ〈魔王〉の名を冠する仲間が」
そう告げるセレンの表情は少し曇っていた。
「だからお前は弱いんだ」
「どういう意味だ……!」
「そのままの意味だ。〈魔神〉と出会ってしまったのが、お前の弱さの原因なんだよ」
そういってセレンがサルマーンの後ろを指差す。
また〈魔拳〉の力を借りてなにかをするつもりだ。
そう思って最大限の注意を払って後ろを振り向く。
「あ?」
振り向いたとき、そこに――
「なに、が……」
滅びたはずの祖国の風景が映っていた。
「お前は一人で死んでいけ」
さきほどまでそこにいたはずの仲間たちの姿はない。
まるで一瞬のうちに世界を飛び越えたような感覚だった。
「まともにゼスティスと対話もできないお前に、仲間を持つ資格はない」
セレンの方に向き直ると、やはりそこにはサイサリスの街並みはもうない。
どこまでも続いていそうな赤い荒野と、まっすぐな視線でサルマーンを捉えるセレンの姿があった。
「祖国ルーサーの憂いを、今ここで断ち切ろう」
サルマーンはここが死線であることを、そのとき悟った。





