213話 「死神と術神」
「――おもしろくなってきた」
サイサリス教国の中央に、異様な雰囲気を放つ城がある。
上流区の華麗さ。下流区の乱雑さ。その二つが入り混じった不可思議な様相が、無数の術式灯によって妖しげに照らされている。
「この国もなかなかワタシ好みです」
そんな城――サイサリス城の頂上に、不気味なまでに長い銀色の髪を持った死神が座っていた。
「あの少女――サイサリス教皇が良い具合にこじらせているのが見ていてとてもおもしろいのですが、アナタはどう思います?」
「……」
前髪を片手ですくうようにあげながら、死神は隣に立つもう一人に訊ねる。
「喋れますよね? 喋れるくらいには縛りを解いているはずですよ?」
その男は灰色の髪をしていた。
瞳は赤く、そこに宿る光は理知と強靭な意志を感じさせながらどこまでも深い。
男は一度だけちらりと死神に目を向けて、それから表情一つ動かさず答えた。
「答えたくないから答えなかっただけさ」
「フフ、かの〈術神〉も〈白帝〉に負けず劣らずの意地っ張りなようで」
〈術神〉フランダー=クロウ=ムーゼッグ。
かつて世界最強の術師と呼ばれ、覇国ムーゼッグに生まれながらその祖国によって魔王に認定された悲劇の英雄。
「僕は君が嫌いだ」
「そうでしょうね。誰よりも秩序を求めたアナタが、ワタシを好むわけがない」
高空の風に揺れる衣装はメレアと同じ貴族然とした白のシャツに灰のベスト。
むしろメレアを育てていたときより少し若くさえ見える容姿の〈フランダー〉は、ようやくムっとした表情で言った。
「僕は秩序なんて求めてはいない。人間に、最低限求められるべき倫理を主張しただけだ」
「それを秩序と呼ぶんですよ? 『人が人らしくあるために』。どこのだれが謳ったのかは定かではありませんが――身の毛もよだつ定義だ」
〈死神〉ネクロア=ベルゼルートは銀髪の下に妖しい笑みを作って再びフランダーを見る。
その口角は赤い三日月を模すように遠慮なくつり上がっていた。
「言葉遊びがしたくて僕の縛りを緩めたのか?」
「まさか」
ネクロアが肩をすくめる。
「それに縛りを緩めたというほどでもありません。アナタ、隙あらばワタシの秘術も反転させようとしますし。まったくおそろしい才能だ」
「……」
フランダーの足元にいくつもの魔法陣の線が走っては途中でどす黒い靄に阻まれて消えている。
何度も何度も走るその線は、回数を重ねるごとに加速していた。
「アナタたちに天での自由な時間を許したのは少し失敗でした。戦乱の時代に英雄と呼ばれたような人間の才能を、ワタシも見誤っていた」
ネクロアが指をパチンと鳴らす。
するとフランダーの足元からさきほどの黒い靄がじわじわとその体を登っていった。
「アナタの眼とその術式に関する才能は、魔王たちの秘術を秘術のままにさせておかない。もしアナタがあと数年、『毒』に耐えて生き永らえていたら、歴史は変わっていたかもしれませんね」
「歴史は変わらない。事実、僕は死んだ」
「天は二物を与えなかった、と。いや、正確には二物どころか三物も四物も与えたうえでの唯一でしょうか」
「……いい加減このつまらない問答はやめにしたらどうだい。君、そんなたいそうな形で実は寂しがり屋なのかい?」
ふとフランダーが顔に軽い笑みを浮かべて告げる。
「メレアのほうがずっと大人だね」
瞬間、二人の間に鋭い視線の応酬があった。
「……まあ、減らず口は叩けるうちはまだ使いモノになりそうですね」
ネクロアがゆっくりと立ちあがり、サイサリス城の天蓋から彼方を見つめる。
「アナタの放った魔術は、すでにずいぶんと人の命を奪ったことでしょう。あれは美しい光景だった。〈風神〉の、世界の終末を知らせる黒い風の鐘に負けずとも劣らない、まるで世界を混沌の渦に陥れる流星雨のようで」
「……」
「ですが、アナタの出番はもっとあとだ。もっともっと世界が混沌に満ちて来てから、すべてを崩壊させるきっかけに使わせていただきます」
「君は世界の終末を求めているのか?」
「――いいえ」
ネクロアはフランダーの問いに再び笑みを浮かべて振り向く。
「この素晴らしい世界が終わるなんてもったいない。そしてその世界を混沌足らしめている人間が消えるなんてもってのほかだ。ワタシはただ――」
死神は言う。
「どうしようもなく混迷とした時代を、この眼で眺めてみたいだけなんです」
その紫色の双眸に無邪気な光が宿る。
「ムーゼッグにより平定される世界も、サイサリスによって教化される世界も、ましてや――今の混沌の中心にいる魔王たちが当たり前の権利を取り戻す世界など、まったくもって無価値だ」
「……君は壊れているね」
「壊れていない人間などそういませんよ。人間などもともと不完全な生き物だ。〈暗黒戦争時代〉がそれを証明した」
それに、とネクロアは続ける。
「そのさらに前は、もっともっと壊れていた。ところが何度かそういう経験を経て、壊れていることを隠すのがうまくなってしまった。壊れていることを恥だと思う風習まで生まれた」
「それが人間の持つ理性の力だ。人は過ちを繰り返す。それでも、それは無限じゃない」
いつの間にか黒い靄に上半身まで覆われていたフランダーが、まっすぐな瞳でネクロアを見つめる。
「さあ、それもどうだか。もしかしたら未来永劫、このままかもしれない。そしてワタシは――それでいい」
そのときネクロアの眼にこれまでにはない確固とした光が宿る。
そこには今までのつかみどころのない雰囲気とは別の、あきらかな意志の表れがあった。
「……仮に、君がそうなるまでになんらかの同情の余地があったとしよう」
フランダーがそのネクロアの様子を見てふと目を伏せる。
「でも――」
そして再び目に鋭い光を宿して言った。
「もう遅い」
その瞬間だった。
「っ」
フランダーを覆っていた黒い靄が、その内側からあふれるように漏れ出た白い靄に一瞬で食い尽くされる。
「この世界に誰もが平等に享受し得る『正しい答え』はないのかもしれない。そして仮にあったとしても、僕もそれに興味はない」
フランダーが一気に晴れた靄の下から人差し指をネクロアに向ける。
その指先には青白い光が灯っていた。
「覚えているか。僕は〈魔王〉だ。己が理想のために祖国を裏切り、大勢の民の願いに反旗を翻した――魔王なんだよ」
フランダーの指先から光が走る。
それは目にも留まらぬ早さでネクロアの眉間をたやすく穿った。
「……ハッ、これはこれは、驚きました」
ネクロアは頭蓋に開いた穴を手で押さえながらゆっくりと崩れ落ちる。
「ここまで縛っても、まだ動くとは」
「……」
「次からはもう少し……丈夫な素体を用意しなければ……」
膝から崩れたネクロアの体は、またもや黒い靄に包まれる。
その靄が晴れたとき、そこにはネクロアとはまったく別の誰かの死体があった。
「――本当に、救いがたい術式だ」
フランダーはその死体を見下ろして顔をしかめる。
しかしそこに面食らった様子はない。
――死体などいくつも見てきた。
敵の死体も、味方の死体も、むごい死体も、驚くほど綺麗な死体も。
フランダー=クロウ=ムーゼッグは、戦乱の時代を生きた英雄である。
――おとぎ話の中の英雄なんて、どこにもいない。
「でも、だからこそ、こうなってまで果たしたいと思った願いは、必ず果たそう」
そのとき彼方を見つめたフランダーの姿は、いつか魔王を救おうと決めたメレアの姿と、とてもよく似ていた。
「だから君も、時が来たら僕を――」
ふ、と。
フランダーの姿が風にまぎれるように消える。
まるでなにごともなかったかのように、再びサイサリス城の高空には静寂が舞い戻った。





