212話 「空雲、青白に舞う」
蒼い空の中を、いつもより少しだけ早く雲が流れている。
「――潮時だな」
レミューゼの王城の一室。
窓辺からその雲を見上げていた〈ハーシム〉がぽつりとつぶやいた。
「西大陸の情勢が、ですか?」
部屋の中にはいつものようにハーシムの侍女〈アイシャ〉がいる。
両手を前にして、手指の先まできっちりと揃えている姿は、まさしく整然と呼ぶにふさわしい。
「まあ、そちらもだが」
ハーシムは一度だけ視線を落とし、それからゆっくりとアイシャの方を振り向いた。
「どちらかというと、南の方が、だ」
「サイサリス教国ですね」
ハーシムが執務机に座ろうとするのを見越して、アイシャが音もなく椅子を引く。
ハーシムはそれに片手で答え、どっと椅子に座り込んだ。
「ムーゼッグの手が思いのほか早い。先刻ムーランから〈海賊都市〉の話を聞いた。どうやら昨日、大戦争にでも行くのではないかという量の船が一斉に出発したらしい」
「向かう先はサイサリスの東端でしょうか」
「だろうな」
サイサリス教国は南大陸の北東端、海に面した場所に位置する。
ムーゼッグが東大陸と北大陸の間にある〈海賊都市〉を手中に収めた時点で、彼らが海を迂回し南大陸を攻めるであろうことは予想していた。
「とはいえ、ムーゼッグにしては素直ですね」
ふとアイシャが言う。
「そうだな。たしかに素直な戦略だ。西大陸勢力に対してはからめ手のような経済戦争を仕掛けたというのに」
西大陸では、鉱物資源の豊富な北大陸からの行商人が、ここのところずいぶんと多いらしい。
おそらくムーゼッグが北大陸のいくつかの国を手中に収め、そこの鉱物資源を西大陸に重点的に輸出することで、西大陸の外貨の流出――加えてムーゼッグの経済力の上昇を狙ったのだろう。
「おそらくアイオースに向かったメレアたちもそのあたりのことはつかんでいるはずだ」
あるいはそれを知って歯噛みしているだろうな、とハーシムは小さく苦笑して言った。
「圧倒的な暴力を背景に下す命令は絶大だ。鉱物資源を輸出する北大陸の諸国も、本来ならその売り上げ金を自国の足しにしたいだろうが、ムーゼッグがそれを許さない」
「戦に負けた時点で選択権はないのですね」
「どこに負けたのかにもよるがな」
力に差がありすぎれば、交渉の余地もない。
「ともあれこれは、ムーゼッグにしか取れないやり方だ。おれや、魔王連合にはできない」
だからきっと、メレアは歯噛みをする。
「もしかしたら、ハーシム様にそのあたりの対応を投げているかもしれませんね」
アイシャがおもしろそうに言った。
ハーシムはその言葉を聞いて今度はわかりやすく苦笑した。
「だろうな。まあ、それがおれと彼らとの関係だ」
利害の一致。対等な同盟関係。
無論、互いが互いに寄りかかるわけではないが、それぞれに適したやり方というものがある。
「国家単位でのムーゼッグへの牽制や対応は、おれたちの仕事だ」
「そのかわり、小さい局面での働きは彼ら魔王たちに手伝ってもらう、と」
「ザイナス戦役が小さい局面であったらそう言いきれたが、殊、物理的な戦争では大きな局面でも彼らの力を頼らざるを得ない。これが今の現実だ」
魔王連合も出会った当時と比べて徐々に大きくなってきている。
もちろん大国家の軍隊と比べれば数は少ないが、構成員が一騎当千の特異な力を持つ〈魔王〉となれば安易に数の違いだけで判断はできない。
「魔王たちの秘術は組み合わせによって足し算ではなく掛け算で力が強まる」
「〈陽神〉の陽術と〈光魔回路〉、そして〈七帝器〉の組み合わせが個人的には気になります」
「……アイシャ、おまえもなかなかえげつない考え方をするな」
「……国家を守るためです」
ハーシムの指摘に、アイシャは咳払いをしてから目を伏せる。
「まあ、そういう考え方自体は捨てたものではない」
ハーシムもそれ以上追及はせず、ひとまず話を流した。
「それで、ハーシム様。さきほどの『潮時』というのは――」
「ああ」
アイシャに促されハーシムは再び襟を正した。
その間にアイシャから差し出されたガラスのコップを受け取り、中に注がれていた香草入りの水を少し口に含む。
「メレアたちの帰りを待っていられない。海賊都市からムーゼッグの軍団が出発したというなら、こちらも兵を動かさねば後手に回ることになる」
執務机の端を指でトントンと叩きつつ、思案気な表情でハーシムは続ける。
「〈フィラルフィア〉にはすでに派兵の要請を出した」
「ファサリス陛下にですか」
「そうだ」
熊のような巨体を持つフィラルフィア王国の王、ファサリス。
ハーシムのアイオース時代の級友であり、『鉄鋼騎兵団』という速度と重厚さを兼ね備えた軍団を指揮する。
もともと鉄鋼業が盛んだったフィラルフィア王国の、いわば最大戦力だ。
「相手の戦力にもよるが、鉄鋼騎兵団であれば海からの侵略はそうたやすく許さないだろう。同盟を結んでからフィラルフィアは特に兵士の育成に力を入れていた」
「〈紺碧槍団〉を持つズーリア王国はどのように?」
「あれは攻撃の切り札だ。防御戦には向いていない。女王であるキリシカもそれをわかっているから、〈三ツ国〉としての防御はファサリスに丸投げしたようだ」
独立した国家単位ではまずありえない選択である。
それは、〈三ツ国〉という対ムーゼッグのためにややいびつな結び方をした三国だからこそなされた役割分担だった。
「ムーラン様は――」
「あいつのところは『術機』と『斥候』。一番ムーゼッグに近いという立地を利用して、ムーゼッグ勢の動向を探っている。それに、クシャナ王国の術機産業はここぞというところでしか使えない。あいつが国を挙げて作らせた『術機大砲』は持ち運びにバカみたいな時間と手間が掛かる。サイサリス付近での戦争を予想してすでに部品分けした術機大砲を持ちこんでいるようだが、それでも間に合うかわからん」
そもそも、とハーシムは続けた。
「いぜんとしておれたちは自国に対するムーゼッグからの攻撃に備えなければならない。だからどうしても後手になる」
「ファサリス様の『鉄鋼騎兵団』が動けたのも海賊都市から船団が出発した、という報告があがったからでしょうか」
「そうだ。だがこれも賭けだ。もしそれが偽装だったり、サイサリスに一部戦力を送り出してなお、おれたちを攻略できる兵力をムーゼッグが残していたら、鉄鋼騎兵団の派兵も致命傷になる」
もともと分が悪い賭け。
むしろ賭け以外の戦術を取ったことすらないかもしれない。
現状をかんがみればみるほど、ハーシムの口からは重いため息しか出なかった。
「だが、やるしかない」
一手のミスが致命傷になる。
そういう国家の情勢。
メレアたちがいなければもっと早くに滅んでいた。
「レイラス=リフ=レミューゼが残した〈碑文〉も、今なら書き換わっただろうか」
ふとハーシムはレミューゼの王城に残されたとある石碑に思いを馳せる。
それはかの〈白帝〉レイラス=リフ=レミューゼが残したと言われている代物。
「あの碑文によれば、おれはまもなく死ぬらしいからな」
そこには信じたくない未来が刻まれていた。
◆◆◆
そのころ、白国レミューゼの街中にひとりの女の姿があった。
腰を優に超える長さの白い髪。
ほっそりとした四肢と、そのわりにどこか力強さの感じられる歩き方。
少女とも美女とも言える清廉な美貌を備えたその女は、あたりを歩くレミューゼの民たちを見て、ふとこうつぶやいた。
「……希望があるのだな」
女はたぐいまれな美貌に、ほんの少しうれしげな笑みを浮かべる。
「昔と比べて、小さくなった。だが、まだ生きている」
女は再び歩き出す。
「それにしても、わたしをここへ送り込むとは、アレは趣味の悪い人間だ」
女の美貌はあきらかに周りから浮いている。
着ている衣装は旅装束のようで地味だが、それを踏まえても神々しささえ感じられる美しさだった。
しかし、誰もその姿に視線を送らない。
まるで誰にもその姿が見えていないかのごとく、女は通りを行く。
と、しばらく歩いたところで、女はある建物の前で立ち止まった。
「――〈星樹城〉」
それは魔王連合の魔王たちが住まう城。
奥を見れば美しい青と緑の光を放つ大星樹があり、さらに奥にはレミューゼの王城が見える。
「ここもまた、生きたか」
今度は満足したようにうなずく。
「フランダーにも言ってやらねばなるまいな」
腰を手をおいて胸を張るように。
すると、ちょうど女が視線を星樹城から下げたところで、その足元の影からぬっと一人の少年が姿を現した。
「じゃあ、そろそろ僕は行くよ」
「――そうか」
「それにしてもこの術式、便利だね」
影から現れた少年は、だぼついたローブを着ていた。
黒い髪に深い青の眼。それのみでは重苦しさを感じさせる色合いだが、ところどころの髪がぼさりと外跳ねしているので、不思議とその少年に威圧感は感じられなかった。
「そうか、馬鹿。おまえも行くか」
「ねえちょっと、自然に僕のこと馬鹿って言うのやめてよね」
少年は女の言葉にわかりやすくいじけて答える。
「みんな僕のこと馬鹿っていうけど、僕からすればみんなもたいがいだよ」
「およそ憧れのみで竜になろうとした馬鹿はお前くらいだぞ?」
「いやまあ、それはそうなんだけど……でも馬鹿さ加減でいえばタイラントもなかなかじゃない?」
「あれは戦のときだけ頭が回る」
「……はあ、なんだかなぁ」
少年はぼりぼりと頭を掻いてため息をつく。
「まあいいや。とにかく、僕はリンドホルム霊山に向かうから、なんかあったらうまいことやっといてよ。英霊たちの間を取り持てるのは君しかいないんだから。僕はさすがに生きてた年代が違いすぎる人たちとはフランクに話せないし……〈炎神〉とか、〈土神〉とか」
「かいかぶりだ。わたしは元が粗雑な女だから、みなそういうものだと諦めて結果的に話しやすくなってるだけだ」
「そういうのを才能っていうんだよ」
「ふむ、〈竜神〉に才能のことを言われると悪い気はしないな!」
「それはなによりだね」
半分皮肉だけど、とつけくわえて少年はほんの少し笑った。
「それにしても、どうして僕たちにはこういう自由が許されているんだろうね。この術式がこの時代に残っていることにも驚いたけど、やっぱりというか、一番わからないのは術士のほうだ」
「アレに理性的な思惑など存在しない。アレは混沌を好み、わたしたちをある程度自由にしておいたほうがより混沌が深まると考えたのだろう。とはいえまったく考えなしというわけではないだろうがな」
「というと?」
「自分が楽しみにしている混沌を収束させてしまいそうな危険分子には、十分な枷を付ける。フランダーを最も強い枷をつけ手元に置いているのがその証明だ」
「……」
ふと、女が拳を握ったのが少年にはわかった。
すぐに女はその手を後ろに隠してしまったが、少年はそれを見逃さなかった。
「――うん、そうだね。じゃあ、僕は君たちが少しでも前を向けるように、話をしてくるよ」
「ああ。……頼んだ」
そのとき女は、それまでのあっけらかんとした明るさと少しの皮肉っぽさをすべて取り払って、素直に、そしてまっすぐに、少年を見た。
「頼まれる、願われるのは〈竜〉の本分だ。はるか昔、彼らは神としてこの世にあった」
すると少年がだぼついたローブの袖をまくって腕を出す。
そこにはおびただしい量の術式が刻まれていた。おそらくそれは腕を超えて体のすべてに刻まれているだろう。そのことを容易に予想させるほどのものだった。
「じゃあ、フランダーによろしく。あと、僕の動向をうまく隠してくれている〈影神〉にも」
「伝えておく」
「たぶん、僕は彼に動きの意図を読まれたら強く縛られると思う。そうなったら満足に会話をすることもできないだろう。正直に言えば〈メレア〉が今どうなっているのかを実際に見てみたかったけど、それはほかの英霊たちに任せることにするよ」
少年はそのとき、少年ではなく『親の顔』をした。
「――彼らは元気だろうか。彼らに会うのも、久々だ」
直後。
少年の体が光に包まれる。
その光はふわりと宙に浮かび上がり、そして――
「またね、〈白帝〉」
「ああ、また天で、〈竜神〉」
レミューゼの空に深い青の鱗を持った〈天竜〉が現れた。
しかし、その圧倒的な存在感を放つ竜の姿も、通りを歩くレミューゼの民には見えていない。
唯一空を見上げていたのは白い髪の女だけ。
やがてその群青色の竜は、天竜と呼ばれるに足る大きな翼で空を打ち、彼方へと飛んでいった。
青い空の向こう。
いつもより少しだけ早く流れる雲の切れ間に、ふと、その群青色の竜とよく似ているシルエットが翔けた気がした。





