202話 「その鏡面になにを見る」
魔王たちがサイサリス教国にたどり着いた日の最初の夜。
唯一別行動を取っていたシャウ=ジュール=シャーウッドは、なぜか再び教国の外にいた。
――遠い……。
行く場所は決まっている。
景観こそ変わっているが、どの道を行けば目的の場所にたどりつくかは身体が覚えていた。
問題はその道が思った以上に険しいことである。
「おかしい……昔はもっと軽々と登っていたはずなのに……」
これが運動不足の結果か。
はたまた歳を取ったせいか。
いやしかし、ここ数か月に関してはずいぶん運動もするようになったはずだ。――主に実戦で。
加齢はどうしようもないが、まだ腰を思いやるような年齢ではない。――一応まだぎりぎり、年長者から見れば若者ということで許される範囲だ。
「ああ……」
ふと、そこでシャウはあの双子のことを思い出した。
「なるほど、子どもというのはどいつもこいつも体力の怪物なのですね」
自分がこの険しい坂道を登っていたのはずっと小さなころだ。
まだ十にも満たない年齢のころだった。
いつも隣に二人のお転婆な王女を連れて、せっせと飽きもせずこの丘を上がっていた。
「嘆きの丘、カラーリス」
サイサリス教国の東にあるちょっとした丘陵地。
鬱蒼と茂った林の中を抜け、東の大海が見える手前に位置する。
南大陸は比較的起伏のある大陸だが、その中にあってこの丘陵地は実にちょうどいい狭間にあった。
右に山、左に谷を置き、西を見ればまっすぐに日没が見えるほどである。
しかし、そんな貴重な絶景の場所であっても、今はあまり人が訪れない。
理由は明快だった。
「ここからいったいいくつの魂があの天の海に昇ったのでしょうか」
かつて、この丘で大規模な戦争が起こった。
今はない『とある国』と、北からやってきた謎の勢力との戦争。
正確にはそのとある国はサイサリスの周りにあるいくつかの都市国家と同盟を結んでいたため、単独での戦闘ではなかったが、いずれにせよその戦争が原因となってとある国は滅びたため、いまとなっては語るにむなしい。
「あの謎の勢力がどこから来た勢力だったか」
厳密には謎とされる。
しかしシャウにはシャウなりの答えがあった。
「おやおや、これはこれは、ずいぶん貧弱になったものだね、金の亡者」
と、そのときだった。
シャウが丘の上を目指して顔をあげた瞬間、上空から声が聞こえた。
とっさに空を見上げると――
「有翼獅子とは卑怯な手を使ったものですね……! なんちゃって道化師め……!」
シャウの頭の上を翼を生やした獅子が行く。
その背には控えめなメイクを施した道化師が一人。
「〈シーザー〉!」
「あはは、まだその名前で呼んでくれるんだ」
かの芸術都市ヴァージリアで魔王一行が出会った稀代の男装演者、シーザーだった。
「じゃ、ボクは先に行ってるから」
夜の闇の中、わずかな星の光に照らされた空の道を悠々と飛び去るグリフォン。
シャウはその背に乗ったシーザーに三度ほど悪態をもらしてから丘を登る足を速めた。
「昔は置いていかれて泣いてたくせに……!」
思わず口調が荒っぽくなる。
昔、まだ子どもだったころはさすがに今のような形式ばった口調ではなかった。
むしろ、今のような荒っぽい口調の方が近かった。
ほんの一瞬、シャウは自分が子どもに戻ったかのような錯覚に陥る。
――あのときはまだもう一人、いた。
いつも自分が一番に丘を登っていた。
シーザーはたいてい二番目。
彼女もなかなかの負けず嫌いで、自分に置いて行かれてよく泣いていたものだが、そんな彼女の後ろには必ずもう一つの影があった。
――ぶっちりぎりの最下位。小さくて、ひょろひょろの、体力なしのお嬢様。
ふとシャウは後ろを見る。
そこには暗闇だけが佇んでいた。
「……」
あのころならあったはずのもう一つの影は――今はもうない。
◆◆◆
「ぜえ……はあ……」
「おやおや、おやおやおや、……ぷぷっ」
「なんですそのこれみよがしにわざとらしい笑い方!? ……うえっぷ……ぜえ……はあ……ぶ、ぶっとばしたい……!!」
「やれるものなら、どうぞどうぞ」
カラーリスの丘の頂上に到達したのはそれから十分ほど経ったあとのことだった。
シャウはぜえぜえと息を切らし、先に頂上で待っていたシーザーはグリフォンの頭をなでながら悠然としている。
シーザーは芸術都市のときと変わらず美しい相貌をしていた。
衣装は芸術都市のときほど派手なものではないが、やはり男装である。
だが、かえってその派手すぎない衣装が、シーザーの持つ飛び抜けた中性的美貌を際立たせていた。
「昔はどうだったか知らないけど、今はたぶんボクの方が強いし」
「ふふ、ふふは、このシャウ=ジュール=シャーウッドを舐めてもらっては困ります! これでも一応〈魔王連合〉の一員でしてね。防衛術に関しては日々鍛えているのですよ……! ……い、いや、勝手に鍛えられているというほうが近いでしょうか……」
「誰に?」
「エルマ嬢とか……シラディス嬢とか……あとたまに三馬鹿たちに……」
「三馬鹿?」
「ああ、芸術都市には行かなかったから、あなたは知らないんでしたね」
「んー、じゃあ、どういうわけでキミが防衛術を叩き込まれているか、きっかけとなった場面をそれぞれの口調を真似して再現してみて」
シャウはそう言われ、即座に手を剣に見立てて頭から振り下ろした。
「『貴様は軟弱すぎる!! ……なに? 具体的にどのへんが? ……むむぅ……んー……その……なんだ……と、とにかく軟弱だっ!! いいから黙って鍛練しろ、鍛練!!』」
「ああー、はいはい、そのちょっと頭が筋肉で出来てそうな感じはエルマだね」
次。
「『シャウって……弱いよね。あっ、ご、ごめん、悪気があったわけじゃない……。でも、最近、アイズの方がしっかりしてる気がして……。あ、そうだ。――シャウも、鎧、着てみる?』」
「彼女、まだあのガッチガチなフルアーマーつけてるの?」
「拠点では外してますね」
「彼女、美人だし、なにより芸術都市の有名女優ですらひれ伏すようなスタイルの持ち主なんだから、もっとオープンにしていったほうがいいよね」
最後。
「『あれ、シャウさんじゃないですかー! え? 油断してたら武装商人にボコられた? あっははー! シャウさんって口はこれでもかと回るけど身体は弱いですよねー! あ、今度ララとカルトを連れて大星樹早登り大会するんですけど、シャウさんも身体鍛えるのに一緒にやります?』」
「あっ、なんかだいたいどんな感じの子たちだかわかった。キミも役者の才能あるね。あとその子、メレアに少し似てそう」
「悪いところも似てもらっては困るんですがね」
ひとしきり演じたシャウはようやく一息ついて居住まいを正す。
「それにしても――ふーん」
そんなシャウを見て、シーザーは一点の曇りもない白い肌にしわを寄せてにやにやと笑っていた。
首に巻いていた自分の長い髪をほどき、それから切れ長の目をわざとらしく弓なりにして、最後には歯を見せる。
おちょくっている、というのがこれでもかとわかる表情だった。
「キミもずいぶん魔王連合の一員に馴染んだものだねェ」
シーザーは細く長い四肢を踊るように舞わせ、くるりと回ってみせる。
丘の頂上がまるでどこかの舞台上になったかのようだった。
「……」
夜の帳の降りた舞台。
しかし月明かりと星明かりがほのかに彼女の金の髪を照らしている。
風が彼女の肢体をなでた。
服がはためく。
「あれ? もしかして見惚れた?」
シーザーが反応のないシャウを不審に思って少し苦笑しながら訊ねる。
「……はっ、まさか」
シャウはその問いを鼻で笑ってしりぞける。
――たとえ本当に見惚れていたとしても、絶対に言ってなるものか。
シャウは心の中で思って、どっと丘の頂上に腰を下ろした。
「で、シーザー。早速情報を交換したいのですが」
「はあ、キミってやつは本当にロクでもない人間になったなぁ。いやまぁ、いまさらではあるんだけど、もうちょっと感慨とかないわけ?」
「感慨?」
シャウは一度シーザーの方を見て、それから再び正面に視線を戻す。
「感慨ですか」
次いで、シャウは懐からあるものを取り出し、わずかばかりの術素をそれに通した。
「なにそれ」
「最近商会の方で術機を取扱いはじめまして。レミューゼにいると術機振興のあつい〈三ツ国〉の一つであるクシャナ王国とも取引がしやすいのですが、そこから商品用に取り寄せたものです」
『星視の鏡面』と呼ばれる術機だった。
見た目はオペラ座で高い観客席から劇を観覧するために使う遠眼鏡のようなものだ。
その遠眼鏡はシャウの術素に呼応してか、中央の留め具の間に挟み込まれた指の先ほどの鉱石をちかちかと明滅させている。
「起動するために使う術素は実に少量。私はあまり普通の術素を持ちませんが、そんな私でも容易に起動させることができるすぐれものです」
「ふーん」
興味なさげに答えながら、シーザーがシャウの隣に腰を下ろす。
「効果は? 星視っていうくらいだから、遠くを見るためのもの?」
「それも効果の一つ。しかしこの遠眼鏡がすぐれているのは、暗い夜でも遠くの景色を明るく映してくれることです。まあ、光のさじ加減が難しくて、映る景色に『まだら』ができてしまうのが瑕ですが」
「そのあたりをうまく均一化させることができたら、夜戦なんかでも活用できそうだね」
「そうですね」
そう答えつつ、シャウはいったん遠眼鏡を外しシーザーの方を振り向いた。
顔には珍しく困ったような表情がある。
「私もですけど、あなたもずいぶんと頭の中が戦色に染まっていますね」
「ああ、自分で言っていてそう思ったよ」
まったく困ったものだ、と二人してため息をつく。
「いやな世の中になったものですね」
「いまさらだね」
「そう、いまさらです」
魔王なんて言葉が恣意的に使われるようになってから、世の中なんて良くなったためしがない。
いや、それ以前。
「『暗黒戦争時代』よりはマシだと喜ぶべきでしょうか」
「過去の英霊に訊いてみるといい」
「残念ながらメレアと違って私はそこにツテがないもので」
「それは残念だ」
「『悪徳の魔王』にだったらあるんですがね」
「……」
笑えない返しだ、とシーザーがシャウの隣で三角座りをしたまま器用に頬杖をついた。
「なにが見える?」
再び遠眼鏡を使って丘の向こうを見はじめたシャウに、シーザーが訊ねる。
「実に滑稽なものが」
「そうかい」
「しかし、不思議と郷愁を誘われるものです」
「……そうかい」
「商いの国が見えます」
「……その国は栄えてるの?」
シャウの遠眼鏡の中で、光が踊っていた。
あるいは万華鏡のようにきらきらと、そしてくるくると回って、ただの光の反射の中に、あるはずのないものの輪郭が見える。
「ああ、やはりこの術機は不良品だ」
シャウは遠眼鏡をいったん外して天を仰いだ。
そのときのシャウの表情は、ほかの魔王たちがただの一度も見たことがない表情だった。
寂寥と悔恨。
シャウ=ジュール=シャーウッドという名の『金の亡者』にはけっして浮かばない顔。
かつて彼は、メレアという白い髪の魔王に名乗ったとき、こう言った。
『シャウ=ジュール=シャーウッド。――もちろん偽名ですがね!』
シャウ自身、そのときのことを思い出して少し懐かしくなった。
「ああ……」
本当に、懐かしい。
「……」
しかしこのときのシャウは、その遠眼鏡の中にもっと昔の、もっとずっと懐かしい景色を見ていた。
当分、もう見ることはないと思っていた景色。
――道化師が言った。
「〈エヴァンス=リィン=ウィンザー〉。キミはその鏡面になにを見る」
「――今は亡き、我が祖国ウィンザーを」
夜天に一筋の星が流れた。





