197話 「白と黒、天に輝く光」
「なにか言い残すことはありますか」
「……ちっ、〈魔王連合〉に所属してる魔王ってのはどいつもこいつもバケモノかよ」
「バケモノにならざるを得なかったのです。あなた方ムーゼッグのせいで」
アイオースの裏路地に二つの声が響いていた。
「わたくしたちの仲間を手にかけたこと、万死に値します。わたくしたちの仲間の家族に手を出したことも、同じく万死に値します」
感情を伴わない冷徹な声音でそう罪を数えるのは、メイド衣装に身を包んだ麗女だった。
「そして、我が主を悲しませたこと、百万回地獄に落としても足りない史上最大級の大罪に値します」
〈暴帝〉マリーザ=カタストロフ。
メレアと離れることを頑なに拒み、結局共にアイオースまでやってきた魔王の主の侍女。
そんな彼女が、今にも頭を踏みつぶしそうな形相で足の裏に跪かせているのは、あのムーゼッグの巨漢剣士、カイゼルだった。
「結局は殺すってことだろ」
「ええ、そういうことです。生かしていても意味がないですからね」
「まあ、そうだわな。やり合って、負けた。だから死ぬ。これは戦場の摂理だ」
カイゼルが伏せる地面に、おびただしい量の血液がにじんでいる。
もとよりそう長くはない。
カイゼル自身、それをわかっていた。
「苦しいですか」
「そりゃあ、苦しいだろ」
「そうですか」
「聞くだけかよ」
「できればもっと、苦しんで欲しかったのですが」
いつになくマリーザの言葉は厳しい。
表情こそ冷静であれど、その様相に似つかわしくない毒の数々が、彼女のはらわたで煮えくり返る怒りを如実に表していた。
「……はあ、結局俺もヴァネッサと同じ場所に行くのか」
「魂の天界で、せいぜいムーゼッグが打倒されるのを見ていてください」
「はっ」
カイゼルはマリーザの言葉を聞いて、思わずというふうに鼻で笑った。
「お前らがムーゼッグを打倒? おもしろい冗談だな」
「……」
「無理だよ。お前らにあの方は倒せない」
あの方。
そのフレーズはマリーザの中ですぐに〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉に置換された。
「たしかにお前らは一度、あの方を退けたのだろう。だが、あそこで息の根を止められなかったのがすべての元凶だ。あの方はあの戦を終えて城に戻られてから、修羅になった」
カイゼルはあの戦のあとから、セリアスがなにかに取りつかれたように力を求める姿を見てきた。
妄執。
あるいは狂気。
もともと比類なき天賦の才に恵まれたものが、そこから常軌を逸した執念で力を求めるとどうなるか。
「あの方は純粋だ。それゆえに手段を択ばない。今でこそ言うが、たしかにあの方は国を治めるにはちと不向きだろう」
カイゼルが血を吐きながら笑う。
顔に浮かぶ表情は、妙に慈愛に満ちていた。
「放っておけない。あの方は意外と危なっかしいんだ。崇拝、それもある。だが周りの臣下の中にあるのは、そういう危なっかしさを持つ殿下を、まるで自分の子どものように守り慈しみたい――そういう変な使命感だ」
「理解しがたいですね」
「どうかな」
「どういう意味です」
マリーザが眉間に皺を寄せる。
理解しがたいという顔だ。
「俺は、お前らが主と呼ぶあの〈魔神〉から、似たようなものを感じた。似ているんだよ、殿下とあの魔神は。そして二人を取り巻く者たちの思いも、また同じく似たようなものだ」
「唾棄すべき意見ですね」
一緒にするな、とマリーザは目で訴えた。
「いずれにせよ、殿下とあの魔神は常人とは別の次元に生きている。時代の転換期には、そういう生まれたときから違う次元に生きる人間が現れるんだ」
それを間近で感じ取ったとき、人は崇敬を抱く。
あるいは神を目の前にしたときと同じ気分を得る。
「――では、違いますね」
「ほう?」
「あの方は生まれたときから違う次元に生きていたわけではありません。あの方は、最初から強く超俗的だったわけではない」
マリーザはメレアの過去を知っている。
たしかに生まれ方は普通ではない。
けれどけっして、生まれたときから時代に台頭するべく使命を帯びていたわけではない。
英霊に育てられた。
しかし彼は自由だった。
英霊たちが思いとどまった。
その未練にまつわる使命は、彼らの口から彼に託されなかった。
「あの方は、みずからの意志で道を選んだのです」
普通だった。
しかしみずからで棘の道を選んだ。
結果として、別の次元に足を踏み入れるために血のにじむ修練を重ねた。
「肉体の才覚に関してはあなたの言うとおりかもしれません。しかし、人間を規定するのは肉体のみではない。むしろ、その精神性こそが人の在り方を定義する。だからあの方は、けっしてセリアス=ブラッド=ムーゼッグと同じではない。あなた方の主は、なにも選択していないから」
「……」
カイゼルは少し言い返そうと思った。
お前たちになにがわかる、と。
――どうだろうな。
しかしカイゼルには別に思うところがあった。
ふと、セリアスの父――現ムーゼッグの帝王〈シャイール=グラ=ムーゼッグ〉の顔が思い浮かんだ。
「がふっ」
「そろそろ限界のようですね」
「……ふー……まあ、案外悪くない人生だった」
なにか言いたいことがあった気もするが、カイゼルはそれを思い出すことをやめた。
「せいぜいもがけよ、魔王」
「言われなくとも」
「もがけばもがくほど、世界っていうのは不条理で人間を絡め取ってくる。お前たち魔王は、その最たる例だ」
「……」
「人間ってのはおそろしいな。なぜだか今は、そう思うよ」
「……」
「ああ……空が白い」
カイゼルは最後の力を振り絞って体を仰向けに倒した。
空を見る。
夜だというのに、空はやけに白く見えた。
「……」
カイゼルが目を閉じる。
マリーザはそれを合図だと悟った。
「あなたはただの人間として死ぬことを望みますか」
「……」
カイゼルが首を振った。
「俺は……最後まで……あの方の……臣下だ」
「……わかりました」
マリーザが目を瞑る。
そしてなにかを考えたあと、右手に持った短剣を構えた。
「では、ごきげんよう、ムーゼッグの戦士よ。わたくしはあなたを――敵として殺しましょう」
短剣が振り下ろされる。
血が跳ねた。
アイオースの街は、路地の片隅に落ちた命など気にする素振りもなく。
ただなされるがまま、刻々と時を刻む。
「なぜ戦とはこんなにも――虚しいのでしょうか」
マリーザは手に残る感触をたしかめながら、ふとつぶやく。
「人間というのはおそろしい。――その言葉にだけは、同意を返しましょう」
マリーザは白い頬に跳ねた血をぬぐい、踵を返す。
ふと空を見上げた。
暗いはずの夜空が、たしかに白い光に覆われていた。
それははるか天空から降り落ちてくる――術式の光だった。