196話 「誇るべき、英雄」
「ギル……バート……」
振り向けない。
振り向けば一瞬で手元の術式が霧散する。
「君は天才だ。けれど魔王の秘術は、君でも編めない。魔王の秘術というのは、君以上にある事象に特化した天才たちが、すべてを賭して生み出した血と汗の結晶だ」
「違……う。僕はそもそも……天才じゃない」
自分は〈叡智の聖典〉によって知識の流入を受けただけだ。
それを扱う技術や精神力は、本物の英雄たちと比べて一段も二段も劣る。
「いや、君は天才だよ。今〈世界記憶〉から持ち出してきたその術式を、ぶっつけ本番で編もうとしてそこまで編めてしまった。君は、やはり天才だ」
術式の一部がほつれる。
――くそっ……!
「ベナレス」
ギルバートの声が近い。
はたして彼は今どんな顔をしているのだろうか。
「ほんの短い間でも、君と友人であれたことを誇りに思う」
ふいに背中に熱を感じた。
一瞬ぞくりと悪寒を感じたベナレスだったが、その熱が誰かの手の熱であることに気づいて、またその手の感触がとても優しくて、思わず緊張がほどけそうになった。
「ギル……バート?」
「意識の伝播。その魔王の秘術の根幹を為す意味術式。……そうか、根幹を変えず、より自分の知識を伝えやすいように構成術式を改変したか。……君を見ているとつくづく気が滅入るよ。僕がそれを扱えるようになるまで、いったいどれほどの時間を費やしたと思っている」
直後、自分の背中に触れる手から身体の内へ熱が入ってくる。
それは心臓を通り、肺を越え、やがて腕に至って術式を編みこんでいる手に抜け出た。
すると、ほどけかけていた手元の術式がみるみるうちに望む形に編みこまれていく。
「最初で最後だ」
「どう、して……」
「この街でだけは、最後まで君の友人でありたい」
ベナレスの目から涙がこぼれた。
どんな言葉をかけていいのか、どうすれば彼を引きとめられるのかわからない。
〈叡智の聖典〉などというたいそうなものを持っているのに、それは肝心なときに役に立たない。
「僕がそれを編むのを手伝おう。僕はその術式の産みの親――〈戦魔〉の子だ」
夢で見たギルバートの記憶。
〈世界記憶の領域〉においてベナレスが見た彼の過去の記憶が、ベナレスの道しるべとなった。
ゆえに持ち帰れた、〈戦魔〉の秘術の知識。
「さあ、伝えるといい。僕も彼の顔は覚えておこう。きっと、またどこかで――敵として出会うだろうから」
友人でありたいと願いながら、それでもなおムーゼッグにつくことを選んだ最愛の友人。
なにが彼をそうまでさせるのか。
上っ面だけを盗み見た自分にはわからない。
ベナレスは編み上がった術式を使ってメレアに人体式に関わる知識を伝達する。
あとはもうメレアの腕に掛かっている。
すべてを送り出したあと術式が消えた。
ベナレスは力尽きたように両手を地面について倒れ込む。
息を吐き、可能なかぎり早く後ろを振り向く。
「ギル……バート……!!」
見慣れたはずの友の姿は――もうそこにはなかった。
「君の父君は、英雄だった……!」
伝えたかった。
けっして彼の父が人々に犠牲を強いただけの魔王ではなかったことを。
人のつけたレッテルは数多くあれど、そのすべてが悪感の込められたものではなかったということを。
「僕は君の父君が、伝説に残るようなほかの英雄たちと比べても、けっしてそん色ない、誇るべき英雄だったと――そう思う」
『――ありがとう』
どこかから降ってきた彼の声は、ベナレスの中にいつまでも反響して、やがて指の隙間からするりと、抜け落ちた。
◆◆◆
知識を伝えたあとのメレアの動きは早かった。
体はほとんど動いていないが、瞬く間にミラの首のあたりに新たな術式を展開し、到底理解などできそうもない難解な施術を完了させる。
「メレアッ!」
そしてメレアは気を失いリリウムの腕の中に倒れた。
「もうこんな無茶、しないで……!」
リリウムがメレアの体を支えながら涙声で言う。
次にリリウムはベナレスの目を見た。
「大丈夫、僕が確認する」
メレアがこんな状態になったのも、すべてはミラを助けるため。
リリウムの様子からメレアが一命を取り留めたことは察することができたが、それでも一番の問題は肝心のミラが息を吹き返したかどうかだ。
「……」
はたして、本当にミラが息を吹き返していて、それは手放しで喜ぶべきことなのだろうか。
一度完全に死んだ人間を蘇らせる。
あるいはあの悪名高い〈死神〉の死霊術式よりも、神に仇名す事象かもしれない。
――いや、それでも僕は……。
ぐるぐると巡る考えを振り払いながら、ベナレスはおそるおそる震える手でミラの頬に触れた。
「っ」
そこには、熱があった。
「……っ」
鼓動を、感じる。
「姉さん……!」
その鼓動を感じた瞬間、それまでベナレスの中を駆け回っていたすべての懸念は吹き飛んだ。
「生きてる……!」
それだけで、自分は神を敵に回しても一向に構わないと思えた。
「生きてる……生きてるよ、リリウム!」
「よかった……」
リリウムがメレアを抱えたまま足を崩してへたり込む。
放心したように彼女は瞬きをやめ、いくばくかの間動くことはなかった。
「リリウム様ー!」
すると、遠くから別の声が聞こえる。
見れば明るい橙色の髪を持った少女と、色素のうすいクリーム色の髪をした少年が駆けてきていた。
さらにその後ろを、不思議な光を周囲に伴わせた白肌の少年が宙をふわふわと飛ぶように駆けてきて、やがてその場に追いつく。
「ララ、サーヴィス、カルト……」
「リリウム様! 大丈夫ですか!?」
橙色の髪を持った少女――ララが即座にリリウムのもとへ跪き、様子をうかがう。
「メレアがね、また無茶をしたの……」
「う、うわ、メレア様!?」
続いてサーヴィスがメレアの状態に気づいて顔から血の気を失せさせた。
「っ、サーヴィス! あんたは周囲の安全の確保!! わたしが〈陽光〉で出来るかぎりメレア様を回復させてみるから、ほかのムーゼッグの兵士とか天塔都市の兵士とか、怪しいのが来ないか見張ってなさい!」
ララがてきぱきと指示を出す。
その姿はどこかリリウムに似ていた。
「お願い、ララ」
「はい、大丈夫です、リリウム様。わたしだって神号を持つ魔王の娘。この学園でだって無為に時間を過ごしたわけじゃありません。〈陽神〉の力を、今こそお見せします!」
ララがにこりとリリウムを安心させるように笑みを見せ、すぐに手元に術式を展開させる。
その術式は瞬く間に完成し、今度は淡く明滅する光の靄になってメレアの体を覆った。
「わたしたち〈陽神〉の一族が使う光の術式は、人の自然治癒力を高める力があります。今回はそれにわたし独自の術式理論を加えて、より回復への志向性を高めてあります。メレア様、普段からめちゃくちゃな回復力してますし、きっとすぐ治りますよ」
いつもと立場が逆だ。
メレアの体の傷がみるみる癒えていく。
顔に血色が戻り、浅かった呼吸が徐々に落ち着いていった。
「ありがとう……ララ」
リリウムはまだ手が震えている自分に不甲斐なさに感じながら、同時にララのたしかな成長の兆しを見て少し嬉しくなった。
「僕も精霊たちにお願いしてメレアの体を治してもらうよー」
ふと気づくと、メレアの体の周囲を光球がふわふわと飛んでいた。
ララの後ろにひょっこりと顔を出した銀紫の髪の少年、カルト。
「メレアの中に精がないと、自然治癒もままならないかもしれないからね」
カルトが指先で光球――おそらく精霊だろう――を撫で、次いでメレアの特に傷の深い場所にそれらを誘導していく。
「〈識者の森〉から連れてきた精霊なんだ。彼ら、メレアのことが好きみたいだから、きっと悪いようにはしないよ」
いまだに原理はわからない。
だが、リリウムたちの目にも見えるほどの強い精霊がメレアの傷口を撫でた途端、みるみると傷が癒えていくのを見てリリウムはもう何も言わなかった。
「世界式と戦って出来た傷だから、精霊たちも触れやすいみたい」
「メレア自身の人体の式のほつれ、みたいなものかしら」
リリウムがようやく正常に稼働し始めた頭でなんともなく予想を浮かべる。
「うーん、僕も難しいことはわかんないけど」
「そうね。今は別に、そういうのはいいわね」
「そうそう、メレアが良くなればいいんだよー」
いつものリリウムなら「そんな理屈もわかっていない力で」と小言の一つや二つ言ったかもしれないが、今のリリウムにはそんな気力もない。
「よし、メレア様の方は落ち着いたみたいです」
「よかった……。ミラの方は?」
リリウムが訊ねると、ララがすぐさま答えた。
「同時進行で癒してます。けど、ミラさんの方はもともと傷が塞がってましたし、呼吸も正常でした」
「――そう」
あの深い傷が、はたしてなにごともなくそんな早くに癒えるだろうか。
見れば斬り飛ばされていたはずの片足が再生している。
――再生? それとも元の位置に戻った?
周囲を見回しても斬り飛んだ足はない。
そのことが妙に、リリウムの心をざわつかせた。
「ベナレス」
リリウムはそこで、ミラの看病をしていたベナレスに声をかけた。
「ミラの様子は?」
「うん、大丈夫。――君が懸念していることを除けばいたって正常だ。ほかになにか僕たちのまかり知らないところで事が起こっていなければ、じきに目も覚ますと思う」
ベナレスもまたリリウムと同じ懸念を抱いていたようだった。
一度死に、メレアの人体式操作によって再び息を吹き返したミラに、なんらかの得体のしれない変化が起こってはいないか。
もうここまで来るとなにが起こってもおかしくない。
ただ無事に目を覚ましてくれればいいと思う傍ら、二人は目を覚ましたあとのミラがどんな顔をするのか、ほんの少しだけ、不安でもあった。