194話 「摂理反逆者」
音が無くなる。
景色が白くかすむ。
最後に自分の体の感覚が――消えた。
「――」
今目の前にあるたった一つの人体に、メレアのすべての神経が研ぎ澄まされる。
「見ろ、解け」
瞬き一つしないまま、メレアはぶつぶつとうわごとのように繰り返しはじめた。
「どこだ、どこにある」
纏っている殺気にも近い気迫とは裏腹に、優しく幼子をなでるような手つきでミラの肢体に触れる。
このときメレアの目には、ミラの人体を構成する『式』が見えていた。
人体式。
「っ――」
複雑かつ流動的で常に揺れ動くとされるそれは、すでにそのほとんどが動かなくなっていた。
「やめろ、行くな……」
ふと、そんな中でちかちかと淡く明滅しているものを見つける。
血管のように張り巡らされた式の道を、今にも消えそうな儚さで進んでいる翡翠色の光だ。
その光に、メレアは〈魂の天海〉に昇って行った英霊たちの魂の色を思い出した。
「どこへ行く」
巡り巡って、やはりその光は空へ昇るのだろうか。
それが、世界が定めた摂理なのだろうか。
「行かせて、たまるか」
メレアは人体式を解読しながら、その光の向かう先を予測する。
視覚情報と脳内の術式演算処理が直結し、メレアの中から徐々に人並みの言語能力が失われていった。
「――」
そしてメレアは光の行先を見つける。
――くち。
生気の失せた顔の方へ昇って行っている。
今は胸のあたり。
もう幾秒もせず到達する。
――とめる。
メレアはミラの首に手を伸ばした。
――しきを、かえて、みちを、つくる。
口に到達するまでの時間を稼ぐ。
その間にこの光を体内に留める方法を探す。
演算。
改変。
模索。
そのすべてをメレアは同時に行った。
唯一〈術神〉フランダー=クロウをすら凌ぐと言われたメレアの術式演算能力が、ブレーキを壊しながら稼働する。
「メレアッ!!」
と、メレアの術素の波動に吹き飛ばされたリリウムがすぐにメレアのもとへ戻ってきて、そしてまっさきにメレアの異変に気づいた。
「あ……」
目から金色の涙。
鼻と口からは血。
そして体のいたるところに次々と『得体の知れない傷』が生まれている。
なにか、見えない力によってメレアの体が押し潰されているかのようだった。
「まさか、世界式に干渉した反動が……」
メレアの育て親にしてかつての大英雄――〈風神〉ヴァン=エスターとの一戦を見ているリリウムだけがそれに気づけた。
「か――」
メレアがえづくように短い声をあげる。
「っ!」
ばしゃ、と。
メレアが口から吐いた血でアイオースの石床に赤い花が咲いた。
「メ、メレア!」
看過しがたい吐血量。
メレアの体で起こっている事態を想像してリリウムの血の気が失せた。
「り、り、う、む」
と、メレアがミラの亡骸から一切視線を切らず、瞬きすらしないままおぼつかない口の動きでリリウムの名を呼ぶ。
「っ、なに!? なにをしてほしいの!?」
リリウムの精神にはすでに莫大な負荷が掛かっていた。
ミラの死。
それを助けようとして傷ついていくメレア。
起こっている事態が理解できるからこそ、そしてなまじ目の前の事態に耐える精神力があるからこそ、どうするべきかと考え続けてリリウムの思考の糸は今にも焼き切れそうだった。
「しきが、わから、ないんだ。ここ、は、どうすれ、ば、いい、か、な。こ、こ、■■、と、■■■の、とこ、ろ」
もうメレアにはまともな思考能力が残っていない。
途中に混じった人語とは呼べない謎の言語。
おそらく術式言語だろう。
常人には理解しがたいレベルで術式を演算改変しているメレアが、まだかろうじて人語らしき言葉を発せること自体がもはや奇跡だった。
「だ、だめよ……メレア……あたしにも……それはわからないわ……」
リリウムは涙を浮かべて唇を震わせながら首を振った。
心臓が押し潰されそうだった。
どうにかしてあげたい。
でも人の体の式なんて触れたことどころか見たことすらない。
この世界でその深遠に挑んだ者がはたして何人いたか。
「どうにか、してあげたいけど……」
本当は『もうやめて』と言いたい。
このままメレアを進ませると、メレア自身になにか取り返しのつかない傷ができてしまうかもしれない。
けれど、それを言う勇気はない。
ミラの亡骸を前にして、そんなこと、言えない。
「りり、うむ」
「ううぅ……ごめん……メレア……だめ……だめなの……」
リリウムは顔を手で覆って泣き崩れる。
このときほど仲間を恋しく思ったことはない。
あのリンドホルム霊山から共にやってきた魔王たち。
サルマーンならなんと言うだろうか。
シャウならなんと言うだろうか。
エルマなら、アイズなら、ほかのみんななら、どうしただろうか。
「うう……」
時間が止まってくれればいいのに。
「僕が、手伝います」
そう思っていると、崩れ落ちたリリウムの横に膝をつく者がいた。
「ベナ、レス……」
「僕が、〈叡智の聖典〉で答えを導き出す」
ベナレス=ファルムード。
〈緑白の天才〉と呼ばれたアイオースの異端児だった。
「メレアさん」
「……」
ベナレスはメレアの視界に映るように身体を傾ける。
メレアの目はやはりミラの体からまったくブレなかったが、ベナレスの存在には気づいているようだった。
「僕にあなたが見ているものを見せることは可能ですか?」
メレアがほんの数ミリうなずいたのをベナレスは確認する。
「ではお願いします」
ベナレスはそう言ってミラに触れていない方のメレアの手を取った。
そしてわずか数瞬後。
ベナレスもまた世界の深遠を覗いた。
◆◆◆
――これが、人の式。
細かすぎて全容がつかめない。
その情報をすべて頭に入れようとすれば、まず先に自分が廃人になるだろう。
ベナレスは今メレアが干渉している部分以外の式は努めて見ないようにした。
――ここか。
首のあたり。
光がちらついている。
――なんだ……これは。
光が式の道をたどって口に向かおうとしている。
それをメレアが止めている。
首のあたりの式だけが、まるで光を口から逃がそうとしているかのように、すさまじい速さで組み代わっている。
――『摂理』だ。
その光が口から出るのが、世界が定めた摂理。
あれを魂だと仮定すると、死んだ者の体から魂が抜け出るのが必然。
だからほかの人体式は一つも動いていないのに、そこだけが『神の手』によって作り変えられている。
きっと、摂理を邪魔しようとする者に恨みごとをつぶやきながら。
――人間の踏み込める領分を超えている。
とっくに。
間違いなく。
このメレアという男は、今たった一人で神と渡り合っている。
――どこをいじればいい。
もう神との戦いはメレアに任せるしかない。
とてもではないがそこに介入できる余地はない。
自分はこの人体式を再び活性化させる術を見つける。
この動きを止めた人体式が元に戻れば、神の眼を欺けるかもしれない。
――叡智よ。
自分の中に宿った〈世界記憶〉への切符。
この世のすべての知識を集積した場所へ。
――行こう。
やり方は不思議とわかっていた。
きっとそれも姉からの贈り物だったのだろう。
そしてベナレスもまた、人の領分を超えた場所へ向かった。
神を相手にした戦いがはじまった。
【更新予定】次話:明日か明後日。