193話 「どうか、わたしの仲間たちに世界の祝福を」
「なに……これ……」
「ヴァネッサ!!」
赤い。
血。
白い。
雷。
「っ、ああ……」
なるほど、これは悪魔の手だ。
抗いようのない無慈悲な大力で、いともたやすく人の命を奪っていく。
この手の持ち主を〈魔神〉と呼ばずして、いったいなにをそう呼ぼうか。
――気づくのが三秒遅かったわね。
「……じゃあね」
ヴァネッサが諦観とともにカイゼルに投げかけた言葉は、白い雷が弾ける音にかき消された。
「くそっ!」
白い魔神――メレア=メアに心臓を握りつぶされたヴァネッサを見て、カイゼルは悪態をつく。
しかし、すぐさまその足は迷いなく後退への一歩を踏んだ。
「逃がすと思っているのか」
だが、メレアの視線は無慈悲にカイゼルの心臓に狙いを定める。
再びその身体がゆっくりと傾き、一瞬のうちに加速――
「姉さん!!」
そこで、震えた声が空気を切り裂いた。
メレアの殺意がわずかに途切れる。
声の方を肩越しに見やって――
「――」
メレアの殺意は完全に霧散した。
「ミ、ミラ……」
メレアの目に映ったのは、左足を失くし、腹部からとめどなく血を流す仲間の姿。
瞳の光は虚ろで、今にもその魂は天海へ迎えられようとしているかのよう。
「ああ……」
メレアの中でさまざまな感情が暴流のように渦巻いた。
手が震える。
足が震える。
その尽きかけの命へ、歩む意志すら折れそうだった。
「どきなさい!」
そこへ、メレアをあとから追ってきたリリウムが現れる。
埃にまみれた彼女の顔からは、いつものツンとしたすまし顔は窺えず、焦燥をたたえ、そしてどこか――今にも泣きそうな悲嘆が見え隠れしていた。
「なんて無茶をしたのっ……、あんたは!」
リリウムは血に臥したミラのもとへ駆け寄り、うろたえるしかできなかったベナレスを横に追いやって、すぐにミラの状態を確かめる。
片足のない彼女を見て、リリウムは即座に自分の衣服を破き、その布をひも状にしてミラの膝裏に強く縛り付けた。
「止血しないと……!」
気休めだ。
リリウムもそれはわかっている。
「メレア!! ボーっとしない!! あんたの血を飲ませなさい!!」
リリウムの鋭い声でメレアはハっと我に返る。
そうだ、まだ自分にできることがある。
「ベナレス!! あんたは腹の止血! 慎重に押さえなさいよ!」
リリウムの指示のもと動き出す二人。
その間にカイゼルは姿を消す。
しかしメレアにとってカイゼルを逃がすことなどどうでもよかった。
あの男を追って殺す数秒が、大切な仲間の命を散らす数秒になるかもしれない。
そうなったら、きっと後悔する。
自分が死んだら、間違いなくあのリンドホルム霊山に未練ある霊として縛られるだろうと確信できた。
「ミラッ、飲め!」
メレアはミラに駆け寄るとすぐに自分の薬指を切り、そこからあふれ出た血をミラに飲ませた。
〈薬王の薬指〉。
ここまで負傷した人間にはたしてこの血が効くかはわからなかったが、今のところ自分にはこれくらいしか差し出せるものがない。
ほかになにかを差しだしてミラが救えるのならなにを差しだしても構わないが、なにを差し出せばいいのかもわからなかった。
「止まら……ない……っ」
一方、ベナレスは剣に貫かれたミラの腹部の止血にかかっているが、一向にその血が止まる気配はない。
強く抑えれば内臓を傷つける。
かといってまったく圧迫しないでは血を止められない。
気づけば体中汗だらけで、あまりのストレスからか頭の中でガンガンとわけのわからない衝撃音が鳴っていた。
「……無理よ」
そんなとき、誰もが浮かべかけては消し、口から漏らすことを必死で避けていた言葉をつむいだのは、ミラだった。
「ミラっ!」
「泣きそうなメレアちゃんもなかなかオツなものねぇ――なんて」
ミラの目に光が戻っている。
そのことに一瞬メレアは安堵しかけた。
「たぶんこれ、神様がわたしに許してくれた最後の時間なのね」
しかし、目の光とは対照的に、みるみる血の気を失っていく彼女の顔を見て、再びメレアの心臓がすくむ。
「姉さん!」
「……ベナレス、大きくなったわねぇ」
「姉さん……姉さん……っ」
ミラは自分の傷口を泣きながら抑えるベナレスを見て、優しげに笑った。
「今までごめんね、ベナレス」
「謝るのは……僕の方だ……なんで僕は……こんな大事な姉さんのことを……今まで……」
ベナレスはいまだに『戻された』自分の記憶についていけてない。
記憶が戻った理由さえ予想こそあるものの確信はなく、戻された記憶が自分のものだという確固たる思いも抱けずにいる。
それでも今ここで血に臥しているのが大切な自分の姉だということは、確信できていた。
「お父さんとお母さんには、怒られるかもしれないわねぇ」
「父さんと母さんに言われて、姉さんは僕の記憶を持っていっていたのですか……」
「そうよ。でもそれは、わたしもそうしたいと思ってやったこと。〈知王〉としての素質は、あなたの方が高かったのよ。だから――」
ミラは自分の血に塗れた手でベナレスの頬をなでる。
「あなたから〈叡智の聖典〉の鍵と記憶を奪うことにした」
ミラ=リークイットは偽りの〈知王〉である。
しかし彼女もまた、間違いなく〈知王〉の血を引いていた。
彼女はベナレスが三歳になったとき、自分の存在意義を自分で定義する。
それはわずか六歳だった少女が抱くにはあまりに苛烈な決意であり、そしてあまりに――
「あなたは〈叡智の聖典〉に親和性が高すぎた。いずれこの鍵を使い、世界のすべてを解き明かすかもしれない。でもそれは、今のこの時代にすべきことではない。今の時代にそんなことをしようとすれば、きっとあなたは抗いきれぬ暴力に叩き潰されてしまう」
戦乱の時代。
世界のあらゆる知識を〈世界記憶〉から吸い上げられる者は、当然その力を狙われるだろう。
「わたしには〈知王〉としての素質があまりない。〈叡智の聖典〉の断片を身体に入れておくことはできても、それを使って自在に知識を引き出すことはできない。ならばわたしがどこかの国に捕まったところで、それがきっかけで世界がどうこうなることはない」
――わたしが使い殺されて、それでおしまい。
「そしてわたしが〈知王〉として死ねば、もう国家が〈叡智の聖典〉を探すことはなくなる。結果として――」
「僕が助かる……と」
「……」
無論、ベナレスはそれを望まないだろう。
そんなことはミラもわかっていた。
ベナレスは〈叡智の聖典〉を所持し、守るには、あまりに弱く、そしてあまりに――優しすぎた。
「あなたから〈叡智の聖典〉の鍵を奪った。わたしが預かっていたの。それでもあなたは〈叡智の聖典〉から無意識に知識を引き出したけど、戦に関わるであろう知識の鍵は特に綿密に引き抜いておいた。……一番は術式ね。あなたが〈世界記憶〉から導き出した術式をぽんぽんと使えば、鼻の良い獣がすぐにあなたの異様さに気づく」
「なぜ、最初から一緒にいてはくれなかったのですか……。ずっと二人で、お互いを守っていれば――」
「そんなことできると思う?」
できない。
ベナレスもわかっている。
自分たち二人では、戦乱の時代の国家に抗うことなどできなかっただろう。
「それしかなかったのよ。わたしが、〈知王〉になるしか――っ」
そこでミラが大きな血の塊を口から吐き出した。
「ミラッ!」
その様子を見てメレアが声をあげる。
「……ふふ、でもね、別に嫌でやったわけじゃないのよ。それに、わたしはこの人に出会って、またあなたに会おうという気持ちにもなった」
ミラはメレアをまっすぐに見ていた。
「この人だったら、わたしと弟を守ってくれるかもしれないって思って」
〈白神〉メレア=メア。
戦乱の時代において、たった一人で国家と渡り合う怪物。
この男に出会わなければ、ミラはまたベナレスに会おうという気にはならなかっただろう。
ここアイオースでも、うまく誘導してベナレスに関わらせないように進めるつもりだった。
「この人がいなければ、わたしはあなたの鍵と共に死ぬつもりだった。でも、出会ってしまった。わたしはもう死んでしまうけど、あなたはきっとこの人の役に立つ。そしてこの人はあなたを――意地でも守り抜く」
「……ああ、守るとも。俺が二人とも守るから……」
「ふふ、あなたならそれができるわ。なんたってわたしたち〈魔王〉の主なんだから」
と、ふいにミラの言葉が途切れる。
風が止んだ気がした。
「……ふう。本当はもっと伝えたいことがあったけど……」
「ダメだっ! ミラ!!」
「最後にあなたに抱かれたかったなぁ……」
それは彼女が〈知王〉の末裔としてではなく、一人のミラ=リークイットとして放った言葉だった。
六歳のときに〈叡智の聖典〉の守り人として生きることを決意した彼女が、安心できる居場所を見つけて、徐々に一人のミラ=リークイットとして取り戻していった自身の欲望。
しかしてその欲望は、淡い恋心と一緒に空へ昇る。
向こうに見慣れた仲間たちの姿がある。
マリーザ、サーヴィス、ララ、カルト。
今、一言も喋らずにただひたすらに自分の命を繋ぎ止めようとしている紅髪の少女、リリウム。
地面に横たわりながら見上げた空に、あの霊山から共に歩んできたほかの仲間たちの姿も見えた。
きっとここが自分の終着点。
未練がないといえば嘘になるけれど、きっとあの霊山に呼ばれるほどではないだろう。
――どうか、わたしの仲間たちに世界の祝福を。
今は、ただ彼らの行き先だけを――
「……ミラ?」
メレアに伸ばしかけていた彼女の手が、地面に落ちる。
「……ミラ、どうしたんだ」
瞳から光が消えていた。
「……まだ、俺たちの旅は終わっていないぞ」
あの霊山で決意した最初の二十二人。
誰一人かけてはならないと、いつも言っていた。
「……っ」
ダメだ、こんなのは。
こんなのは、認められない。
「メレア、もう……」
「……認めない」
絶対に。
「メレア!!」
リリウムがメレアを正気に戻そうと声を張り上げた。
しかしメレアはその制止を振り切り、『なにかを決意する』。
メレアの身体から、あの炎のような金色の術素がすさまじい勢いで燃え上がった。
「きゃっ」
質量のないはずの術素の暴圧で、リリウムとベナレスが吹き飛ばされる。
そしてただ一人、金色に染まった瞳でミラの亡骸を見下ろすメレアが、言った。
「全部、俺が元に戻す」
そして〈魔神〉は神の領域に足を踏み入れる。
モチベーションを上げて参る(葵 °д°)
いまさらですが、百魔の主6巻の書籍および電子書籍を買ってくれた人ありがとう!
これからもいろいろ頑張ります。
【追伸】ちなみに気づいたら明日誕生日でした……時が経つのは早いですね。