192話 「そして怪物がやってきた」
「ベナレスッ!!」
その女性は大きく息を切らしながら、必死の形相で駆け寄ってきていた。
――誰。
今、自分は彼女を『姉さん』と呼んだ。
頭では理解していない。
頭では思い出してなどいない。
なのに――
「姉さん……だ……」
耳が、その声を覚えている。
目が、その姿を覚えている。
心が、その優しさを覚えていた。
「あら、美人ね」
ベナレスはぎりぎりのところで意識を保ちながら、後ろでヴァネッサが楽しげな声をあげたのを聞いた。
好戦的な、嫌な声音だ。
「ダメ、だ……!」
やらせてはならない。
ベナレスは立ち上がろうとした。
「まがい物の〈知王〉――〈魔王連合〉の〈ミラ=リークイット〉か」
いつの間にか巨大な剣を背負ったムーゼッグの戦士――〈カイゼル〉も近くに寄ってきていて、彼女を見てそう口にした。
「殿下の予想は当たっていたな。大陸西部で取り逃がした〈知王〉の末裔は偽物である可能性が高いと」
「でも、一概にそうとも言い切れないんじゃない? ベナレスは記憶を忘れてしまっているようだし、その姉弟がなにか手を加えたって可能性もあるわ。たしか姉の存在が疑われていたんだったわよね」
ムーゼッグの刺客がそれぞれに剣を構える。
「ヴァネッサ、『見える』か?」
「んー……」
瞬間、ベナレスはヴァネッサからゾっとするような気配を感じ取った。
力の入らない身体を必死で傾けて、ヴァネッサの顔を見ると、そのワインレッドの瞳が淡く輝き、表面に術式紋様を浮かび上がらせている。
――透過、人体式、三重変数制御。
ベナレスの脳裏に一瞬にしてその術式の構成が浮かぶ。
自分の知らない式であるのに、なぜかベナレスにはすべてが一瞬で理解できた。
「――『あった』。頭とか心臓じゃないところに『赤の光』がある。やっぱりなにか隠してるわね、あの女」
「どのあたりだ」
カイゼルが巨剣を肩に担いで一歩前に出た。
「お腹よ。ある意味、女としては大事なところね」
カイゼルがさらに一歩前へ進む。
もういくばくもしないうちに近接する。
――まずい。
やめろ、と思った。
ベナレスはこの先にある未来の光景を、予測してしまっていた。
そしてそれは、時を置かず現実となる。
「逃げて!! 姉さん!!」
カイゼルが走ってくる女に向かって――その巨剣を目にも留まらぬ速さで突き出した。
◆◆◆
彼女は一撃目を避ける。
それでも反撃はしなかった。
目的は自分にあるようだった。
手を伸ばしてくる。
自分に触れようとしている。
触れたからどうなるのだ。
それより早くそこから逃げろ。
二撃目の巨剣が振り下ろされる。
彼女の左足が『飛んだ』。
それでも彼女は手を伸ばしてくる。
倒れ込みながら自分に触れようと。
そこへヴァネッサの長剣がおそろしく無慈悲に振り下ろされ――
彼女の腹部を背中から突き破った。
「――」
跳ねた血がベナレスの頬を赤く染める。
いつの間にか、自分が伸ばしていた手に彼女が伸ばした指先が触れた。
「ごめん……ね、ベナ……レス。あなたを……守ろうと思ってやったことが……裏目に……」
口から血を吐きながら彼女は優しげな笑みで言った。
「私は……不出来な姉……お父さんとお母さんに……あとで謝らないと……」
なぜ思い出せない。
こんなになってまで自分を守ろうとした人間を、どうして思い出せない。
「あとは……メレアちゃんと……みんなにも……」
触れた指先に、光が灯る。
そこからなにかが身体の中に入ってくる感覚を、ベナレスは覚えた。
「もともとあなたの中にあったもの。今から返すわ。返すけど……」
彼女は最後に涙を流した。
笑いながら、泣いていた。
「きっと全部思い出したらつらいから……私のことは……忘れたままでいなさい」
――ダメだ。
「嫌だッ!!」
ベナレスは彼女の手を思い切りつかんだ。
この光をすべて自分の中に入れるために。
ベナレスの身体に、力が戻ってくる。
それが目的なのか、女の腹に剣を突き刺したままのヴァネッサは動かない。
「……わがままな子」
彼女の手に触れたとき、その手がひどく冷たいのがベナレスの心臓を嫌に跳ねさせた。
どうすればいい。
彼女を救いたい。
知識が欲しい。
力が欲しい。
この意志を貫き通すための――
ベナレスが激情を抱え、立ち上がろうとする。
そのとき――
「――ミラ!! そこにいるかッ!!」
近くの隣家が粉々に吹き飛んだ。
土煙が上がる。
しかしその土煙は、吹き飛んだ家の奥からやってきた渦巻く風に吹き上げられ、瞬く間にその場から消えた。
――金色の……光。
まるで炎のような金色の光が、ベナレスの視界に映った。
「ミラッ!!」
二度目の呼びかけ。
どこかで聞いた覚えのある声だった。
しかしベナレスはこのとき――指の一本すら動かせずにいた。
なにか、得体の知れない『怪物』がやってくる。
本能が、身体を硬直させた。
「っ……」
身体が物音を立てることを拒否している。
目を、合わせてはならない。
――動け……!
しかしベナレスは、数瞬ののち、その本能的な恐怖を強靭な意志で振りほどき、ついに横の路地から姿を現した怪物へ視線を向けた。
その怪物は、『赤い眼』を宿していた。
「あれ……は……」
ベナレスは白薔薇の生徒が開いたあの夜会で、自分と同じくなぜかギルバートの精神術式に侵されていなかった一人の青年を思い出す。
あのときとひどく様子が違うが、その瞳に宿った苛烈な意志の光は、まごうことなく同じものだった。
◆◆◆
ムーゼッグ軍所属、第三特殊部隊少尉、〈ヴァネッサ=エルグランド〉は、その日はじめて〈魔神〉を真っ向から見据えた。
第一印象は『思ったよりも若い』である。
自分が仕える〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉もまた、大国の軍団を率いる将としてはだいぶ若いが、それ以上に若い印象を受けた。
――もっと見ただけでゾっとするようなタイプかと思ったけど。
優男ではないか。
たしかに服の下の肉体は鍛えられていそうだが、それだけで怪物染みているとは思わない。
「ヴァネッサ――ダメだ、退くぞ」
「は?」
ところが相棒である巨漢カイゼルを見ると、額から大粒の汗を流してじりじりと後退しようとしていた。
自分とは違う印象を〈魔神〉に受けたらしい。
「なんでよ、もう少しでベナレスに〈叡智の聖典〉が全部戻りそうなのに。見なさいよ、やっぱりこの女ベナレスに『鍵』を掛けてたのよ」
血に臥した女の指先からベナレスの身体へ光が流れている。
この女が命よりも大切にしていた『なにか』。
〈心魔の魔眼〉を持つ自分は、その人物がもっとも大切にしているものを視覚的に捉えることができる。
たいていは心臓だったり、頭だったり、そういうところに大切なものを知らせる『赤い光』が見えるものだが、この女の場合はそれが腹にあった。
結果論でしかないが、おそらくこの女は本当に〈知王〉ベナレス=ファルムードの姉で、生き別れる際になんらかの細工をベナレスに施したのだろう。
――おおむね予想はつく。
〈叡智の聖典〉を持つことでベナレスが争いに巻き込まれることを防ごうとしたのだ。
――バカな女。
「ヴァネッサ!!」
「うるっさいわね――」
一瞬女の方に少しだけ感情移入して、視線を下げた。
しかしカイゼルがあまりに大きな声をあげるもんだから、すぐに視線をあの〈魔神〉へと戻す。
「え?」
しかしそのとき、すでにあの〈魔神〉の姿はそこになかった。
「ッ――」
そしてヴァネッサ=エルグランドは次の瞬間――
「殺してやる」
自分の腹部を突き破って出てきた誰かの手を見る。
その手には白い雷がまとわれていて、耳をうがった殺意の言葉を彩るかのように、バチバチとした不穏な音色を奏でていた。