191話 「同じ夢を見てくれてありがとう」
「残念だ、ベナレス。本当に、残念だよ」
それは、こちらの台詞だ。
「君が無知のままであれば、すべてが茶番のままで終わったのに」
どうして。
「僕は僕の祖国が許せない。僕の父を〈戦魔〉と罵った連中を、このまま安穏とした平和の中で暮らさせはしない。父は祖国のためにすべてを投げ打って戦った。そんな父を、なにもしなかった無責任な人間が我が物顔で非難する。そんな人間のはびこる国は間違っている。だから僕は、再び彼らに戦火を届けることにした。すべてを灰にする戦火を」
このときベナレスは『あの悲劇的な夢』を思い出した。
自分の父が、助けたはずの民衆に罵られ、虐げられ、あげくの果てに、殺された夢。
もしかしたらあの夢は――
「君の父が、それを喜ぶとでも思っているのか」
ベナレスは意を決して振り向いた。
ヴァネッサとカイゼルというムーゼッグの刺客が近くにいるが、もうそんなものは関係ない。
今、ここでギルバートの目を、見据えなければならないと思った。
「君らしくもなくありきたりな台詞だな、ベナレス」
「君がそんなありきたりな言葉をかけられるほどの馬鹿だからだよ、ギルバート」
ギルバートの顔はわずかに笑みに彩られていた。
しかしその笑みは楽しさを感じさせるものではない。
崩れそうな表情をなんとか押し留めるために、かろうじて象ったかのようなものだ。
「本当に、それでいいのかい」
ベナレスは白緑の髪を揺らして、再度ギルバートに問う。
透明なレンズの向こう側で、ギルバートの瞳がわずかに揺れた気がした。
「いいんだ。もう僕はあとに引き下がれない」
ギルバートはベナレスの白緑の視線を遮るように、顔の前で手を振り払う。
その手に握った短剣がベナレスの喉元に突きつけられた。
「そう、あなたはもう引き下がれるようなところにはいないものね」
すると、ふいにベナレスの後ろから声が飛んでくる。
「あなたの『扇動』のせいで、すでに国が一つ滅びた。最近の西大陸の戦乱の風潮は、少なからずこの〈戦魔〉ギルバートのせい」
長剣をかついだ美貌の剣士――ヴァネッサが、ゆっくりとベナレスの方に歩いてきていた。
そのワインレッドの瞳は楽しげな色を灯して、ギルバートに向けられている。
「〈戦魔〉の精神術式は人を戦いへ誘う。かつての〈バークリーズ=ムー=シュナイゼル〉はこの術式を使って自国の兵士たちを鼓舞し、あるいは操り、すさまじいまでの戦果をあげた。人間というのは不思議なもので、その精神力が振り切れると、想像以上に強さに発揮することがある。狂気というのも捨てたものじゃない。殊、戦場なんかにおいては」
ヴァネッサが長剣をすらりと抜きながら言う。
「そしてそれはいつの時代でも変わらない。最後の最後で敗走し、嘆かわしくもその責任を問われて自国の民衆に火あぶりにされた〈バークリーズ=ムー=シュナイゼル〉から、その『英雄』たる理由を受け継いだ〈ギルバート=セム=シュナイゼル〉。哀れな〈戦魔〉の息子は、哀れな父の復讐のために戦いに燃え、気づけばもう後戻りできないところにまで来ていた」
ヴァネッサの抜き去った長剣の刀身が、不気味に光を反射してベナレスの顔を照らした。
「そうか、ギルバート、君は――」
しかしベナレスはヴァネッサの接近におもいのほか動じていなかった。
再びギルバートの方を向き、静かに言う。
「――ムーゼッグという暴虐の王国を復讐の道具に使おうとしたんだね」
ベナレスはギルバートの半生を勝手に予想し、そしてその予想に根拠のない確信を抱いた。
そしてそのときベナレスが予想したギルバートの半生は、おおむね実際の彼の半生と一致していた。
「あの国にはびこる馬鹿どもへ再度戦火を飛散させようとしたとき、こういう方法が最も手っ取り早いと思った。そして、名誉も、希望も、誇りも、なにもかもを捨てた僕には、その方法を取ることになんのためらいもなかった」
ギルバートの眼の中にふつふつと燃え盛る黒い炎が見える。
ベナレスはその黒い炎を、悲しげな瞳で見つめていた。
「嘘だね」
「嘘じゃない」
「いいや、嘘だ。君の瞳の中の炎は、いくつもの色が混ざって淀んでいる」
ベナレスの言葉にギルバートの表情がまた歪む。
最後にその顔を彩ったのは、苦笑に近い笑みだった。
「……君は本当に頑固な男だ、ベナレス。まだ僕を引き戻そうとしているのか」
「……君ほどじゃないよ、ギルバート」
ギルバートがそこで、目を伏せた。
「それでもさよならだ、ベナレス」
「……」
「僕は、君をムーゼッグに売る」
「僕を売って、君はなにを得るんだい」
「戦火の火種を」
「そうか。じゃあ僕は、その火種を消さなければならないね」
「無理だ。君は僕が今まで見てきた人間の中で一番優秀だったが、それは机上の話。君にはこの時代においてもっとも必要とされる『暴力』がない」
暴力の象徴、ムーゼッグ。
すべてを思い通りにするために、力で力を蓄える歴史をたどってきた。
なるほどたしかに、自分にはそんな強大な国家に対抗する力はない。
あと十歩もすれば近接するであろうムーゼッグの剣士を、どうにかして退ける術もない。
「でも」
ベナレスには意志があった。
その意志もまた、どうしてこんな脆弱な自分の中にあるのか不思議に思うようなものであったが、ベナレスはその心の中で燃える意志を無視することができなかった。
「僕は、僕の衝動に恥じない生き方をしたい」
ベナレスはまっすぐにギルバートを見つめて言う。
「誰かを助けたいと思った。この騒動でだって、少しくらいは誰かを助けられたかもしれない。最近のうわさに聞く『ヴァージリアの動く芸術』や、〈魔王〉を追って暴虐を尽くそうとしたムーゼッグを止めた『白い髪の魔神』と比べると、本当に小さな救済だったかもしれないけど――」
白緑の髪が風に舞った。
「僕は、僕にやれることをやりたいんだ」
ギルバートはベナレスをじっと見た。
どこか羨ましそうに。
どこか煩わしそうに。
最後にはすべてを断ち切るようにして――彼は目を閉じた。
「『友人として』、最後に君に慈悲をやろう。なぜ、君がムーゼッグに売られるのか。逆に言えば、どうして君にムーゼッグに売られるほどの『商品的価値』があるのか、教えてやる」
それはギルバートが『ギルバート』として口にする最後の言葉だった。
近づいてくるヴァネッサに聞こえないように、彼は言った。
「君はムーゼッグに〈知王〉の疑いをかけられている」
〈魔王〉だ。
ベナレスは即座に胸中に浮かべた。
「君のたぐいまれな知力には、ときどき不審な点が見えた。誰も知らないはずのことを、さも経験したかのように語るときが君にはある。無論、君は自分でそういうところがあることを把握していただろうし、ほかの人間に話すときにそういった不審点が出ないよう善処していたのだろうけど、僕はその点に確証を得た」
と、ギルバートがおもむろに手を前に掲げる。
「君にひっかけ問題を出したことがある。常人には絶対に解けない問題だ。そしてそれを、君は解いた。〈世界の記憶〉と直接繋がり、そこに集積された『生者の知識』を利用しなければ絶対に解けない問題を、君は解いたんだ」
「それは……」
「僕の父、〈戦魔〉にまつわる問題だ。僕しか答えを知らない問題。それらしく出したから君は気づかなかったのかもな」
ギルバートは最後に笑った。
「……『同じ夢を見てくれてありがとう』、ベナレス。君に会えて良かったよ」
「待っ――」
ギルバートの最後の言葉に、ベナレスは大きく反応する。
やはりあれはギルバートの夢だった。
自分の知らない、自分にまつわる力が、おそらくそれを可能にしたのだろう。
まだまだ、聞きたいことがある。
まだまだ、話したいことがある。
救いたい――友がいた。
「少し眠っててもらいましょう」
背後にヴァネッサの気配を感じた。
まずいと思って振り返るより先に、首に衝撃を受ける。
「っ!」
意識が遠のく。
――僕は、まだ……。
ベナレスはなにもできない自分を呪った。
もっと学んでおけばよかった。
もっと鍛えておけばよかった。
――ギル……。
膝が崩れ、身体が沈んでいく。
ふと、意識が途切れる間際、ギルバートのさらに後ろの方からこちらへ駆けてくる影を見た。
長い黒髪。
女にしては高い背。
その姿は――
「姉……さん……?」
唯一残る記憶の果てで、自分を優しく見守っていたあの女性に――似ていた。