190話 「意志と、決意と、茶番」
「ベナレス、いるか! 僕だ、ギルバートだ!」
ベナレス=ファルムードが自室の外からの声を聞いたのは、爆発音が鳴って数分も経たぬうちだった。
「南西から天塔都市の勢力が攻めてきた! 宣戦布告だ!」
次いで耳を打った言葉にハっと我に返り、ベナレスは自室の扉を勢いよく開けた。
扉の外には珍しく焦燥を隠しきれていないギルバートが立っていて、その表情がベナレスにこの事態の異様さを知らせる。
「天塔都市……でも、北東の方からも爆発音が……」
「そっちは僕もわからない。でも、南西から天塔都市の勢力が攻めてきたのはどうやら間違いないようだ。武器を手に走っていく『白薔薇』の学生たちに聞いた」
わずかに冷静さを取り戻したギルバートが言う。
「白薔薇……まさかあの『夜会』の……」
ベナレスは数日前のオスカーという生徒が開いた地下聖堂での夜会を思い出した。
夜会とは名ばかりの幼稚な決起会。
すでにいくつかの勢力がアイオースを奪うために暗躍しているという噂をそこで聞いた。
「憶測で決めつけるのは危険だが、その可能性は高いだろう」
正直なところ、西大陸の列強よりもムーゼッグなどの方が先に手を出してくるのではないかと思っていたが、どうやら予想は外れたらしい。
「僕たちは……」
「ここは危険だ。青薔薇の学園へ向かおう。あの学園にはこういうときに避難できるシェルターがあったはずだ。本当は重要な文化財を守るためのシェルターだが、緊急事態だ、人も入れてくれるだろう」
ギルバートの選択はおそらく正しい。
戦火に耐えうるような力を持たない自分は、今からどう動こうとも事態を変えることなどできないだろう。
ベナレスの頭の中に冷めた合理性がよぎる。
「……いや、少し待ってくれ」
しかし一方で、白緑の天才の中にはひどく不合理な欲求も渦巻いていた。
「ほかの、この愚かしい状況に辟易している生徒たちを、学園のシェルターに誘導する」
ギルバートはベナレスの答えに目を丸くした。
「そんなことを言ってる場合か!」
本当に、そう思う。
なぜいまさらになって、こんな不合理な考えが浮かぶのか。
この衝動は本当に自分の心から生まれたものなのか。
わからない。けれど、
「これは、きっと僕の意志だ」
ベナレスはもう決めていた。
「僕は、僕にできることをする」
いつかの夢の中で見た女性の影が、優しげに笑っている気がした。
◆◆◆
それからベナレスは自分の足でアイオースの中を走り回った。
学園から学園へ、できるかぎり急いで走るが、軟弱なその身体は何度も途中で膝をつきそうになる。
――もっとまじめに身体を鍛えておくんだった。
最近出会った金髪の青年、〈キリエ〉のことを思い出す。
――彼は僕と違ってすごく強そうだったなぁ。
年の頃はそう変わらないだろうに、素人目に見ても只者ではなかった。
表情は柔和、しかし身体に纏う気のようなものがえらく常人離れしていたように思う。
歩き方や仕草の一つ一つが、妙に洗練されていた。
「次、は……」
切れ切れの息を吐きながら次の目的地を定める。
赤薔薇の学園、黒薔薇の学園と回って、残るは白薔薇の学園とその他の学園。
「ずいぶん派手になってきたな」
北東でまた破砕音が響いた。
いったいどうしたらあんな巨大な音をあげられるのか。
「っ」
ふと、そうして北東の空を見上げたとき、空に『黒い鐘』が見えた。
「あ――」
あれは、まずいものだ。
あの鐘は、とても『まずいもの』だ。
「ッ!」
昔書物で読んだ神話の中の鐘によく似ていた。
たしか、世界の終末を知らせる黒い鐘。
「ベナレス!」
ふいに後ろからギルバートの声が聞こえた。
「まずいぞ!」
二手に分かれて生徒や関係者の避難誘導に奔走していたが、どうやら残された時間があまりないらしい。
「ギルバートは先に行ってくれ!」
「なにを言っている……? 君も来るんだ!」
だめだ。
まだ避難できていない住人が残っている。
できるのであれば、武器を持って南西へ向かっていった生徒たちも避難させたい。
「彼らは、被害者だ」
あの夜会での扇動がなければ、彼らはきっと素直に逃げた。
いかに自分たちが世界標準の同年代と比べて優れているとはいっても、戦を生業としている本物の戦士たちに敵わないことはわかっている。
それが彼らの優れた理性であり、その理性によって素直に逃げることが、賞賛すべき彼らの子どもらしさなのだ。
「もう遅い! すでに戦端は開かれているんだぞ!」
ギルバートの制止を振り切ってベナレスは走り出そうとした。
だが、その制止を遮る別の声が、そのとき通りに木霊した。
「あら、なかなか勇敢じゃない、〈白緑の天才〉?」
聞き覚えのある声。
たぶん、自分にとって敵になりうる者の声だから、数度聞いただけでもこれだけ脳裏に残っているのだろう。
「だが残念だな。お前はもうここからどこへも行けなくなる」
いつか、ハーメル喫茶店で出会った不気味な雰囲気の二人組が、ベナレスの視線の先に立っていた。
◆◆◆
長剣を携えた美貌の剣士。
巨剣を背負った大柄な戦士。
たしか、〈ヴァネッサ〉と〈カイゼル〉とかいう名前だっただろうか。
「残念ながら、僕はあなたたちに呼ばれた覚えはありませんが」
「ああ、たしかにあのとき、『またお前を呼ぶ』と言ったな」
ベナレスはじりじりと後ろに下がりながらあらんかぎりの皮肉を込めて言った。
「そしてお前がその呼びかけに応じなかったとき、お前の友人の一人が死ぬとも」
カイゼルの言葉を聞いて、ベナレスは自分の後ろにいるギルバートに意識を向ける。
「なら、今呼ぼう、ベナレス=ファルムード。俺たちとともに〈ムーゼッグ王国〉へ来い」
最低最悪の呼びかけだ。
ベナレスは唇を噛みながら現状の打開策を考える。
しかし、どうにもいい方法が思いつかない。
「ギルバート! 君は関係ない! すぐに逃げてくれ!」
ベナレスはギルバートを巻き込みたくなかった。
そうしてギルバートの方を一瞬だけ振り向いたベナレスは、そのときはじめて、ある違和感を覚えた。
「ギルバート?」
二人の方に視線を戻しながら、今の一瞬で脳裏に焼き付いたギルバートの表情を観察する。
「ねえ、ギルバート。茶番はもういいでしょう?」
美貌の剣士、ヴァネッサが言った。
「あなたもなかなか演技がうまいわよね」
ギルバートの顔には、表情がなかった。
焦りも、悲しみも、怒りも、なにも。
ただ、無表情だった。
そのときからふいに、ベナレスの中の繋がって欲しくないさまざまな情報が繋がっていって、ある形を作りはじめる。
――やめろ。
ベナレスはそうして出来上がったある一つの事実を、心の中で否定した。
「茶番、か」
ギルバートの声が後ろから聞こえた。
ベナレスはついに、もう一度ギルバートの方を振り向く。
「僕にとっては、命を懸けた茶番だった。そしてできれば、最後まで君には茶番だと知られたくなかった」
再びギルバートの顔を見たとき、もうベナレスは自分の中の予想を否定することができなかった。
ギルバートはいつの間にか懐から一振りの短剣を抜いて、後ろから優しくベナレスに突きつけていた。
「ギル……バート……?」
「君ならわかっているはずだ。君は優しいから、ただ君の中の予想を信じたくなかっただけだ」
そう、たぶん信じたくなかっただけだ。
そしてそういう考えが浮かぶ前に、努めて考えないようにしてきただけなのだ。
「あの白薔薇の生徒が行った『夜会』のとき、どうして『僕と君だけ』があの扇動に反応しなかったのか」
それ以上は、言わないでくれ。
「それはな――」
お願いだから、なにかの間違いであったと言ってくれ。
「僕が、あの『精神術式』の術者だからだ」
ベナレスはその日、友の一人を失った。