184話 「叡智の聖典と世界記憶」
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〈叡智の聖典〉とは『案内書』である。
それ自体にも知が宿っているが、本質は別にあった。
『メレア、お前は〈魂の天海〉を知っているか』
メレアはアカシアに訊ねられ、すぐにうなずきを返す。
――知らぬはずがない。
愛する彼らはみなその空にある大海へ昇って行った。
『あれは決しておとぎ話の中の存在ではない。実際に存在する』
アカシアは断定する。
わずかにメレアの表情が曇るが、しかしまったく信じられないわけではなかった。
メレアの中には〈魂の天海〉の存在を信じたいという気持ちもある。
『実際に見たことがあるわけでもないし、私が自身で存在を確かめたことがあるわけでもない。だが存在する。そうでなければ説明できない事象がいくつかあるのだ』
メレアはアカシアの言葉を聞いて、とっさにあの〈ネクロア〉という男のことを思い出した。
「……〈死霊術式〉」
『そうだ。それも一つではある。最も冒涜的な悪徳の魔王と呼ばれた〈死神〉の秘術、〈死霊術式〉は死者の魂の集積所の実在を前提条件にしなければ説明できない部分が多々ある。死神は、現世にいる死者の血統や繋がりの深い者が持つなんらかの要素を基に、〈魂の天海〉から死者を呼び寄せていると言われた』
「初耳だな」
『このことを知る者は少ない。そもそも常人は〈魂の天海〉の実在を疑うし、死神の術式に触れて勘付きを覚えた者は基本的にあの魔王に殺された』
アカシアは片翼をばさりと開いて軽くみじろぎする。
『つまり、この考えに至るにはある種の荒唐無稽な考えに理解を得、同時に死神と相対してなお死なない強さを持っていなければならなかった』
「誰がそこに至ったんだ」
『〈聖ベルセウス〉』
今までの話の中で何度も出てきた自分の遠縁は、自分が思っているよりずっと偉大な人物なのかもしれない。
メレアはヴァンの先祖について聞けば聞くほど、次元の違う人間の存在に畏怖を覚える。
『そういう意味で〈死霊術式〉は〈世界式〉と密接に関わっている術式でもある。あの術式は世界の摂理に干渉しているのだ』
「それと〈叡智の聖典〉がなにか関係があるの?」
メレアが訊ねる。
『〈叡智の聖典〉も似たような種類の能力なのだ。〈魂の天海〉という死者の記憶の集積所の存在を認めたとき、ならば生者の記憶もどこかに貯蔵されているのではないかと考えないか』
生者の記憶。
その集積所。
メレアには実感がない。
死者と違って生者は独立しているし、その記憶が別の場所で実は繋がっているなどと、考えたことすらなかった。
「人の集合意識のようなものか」
『そうだな。ただし生者は人には限らん。そして〈叡智の聖典〉はその生者の記憶の集積所に干渉する力がある。――いや、正確には生者の記憶に干渉する力は誰にでもある。〈叡智の聖典〉は膨大という言葉に尽きるその記憶の中から、必要なものを取り出すための案内書のようなものだということだ』
人類の総体的な記憶。
つまりその人間が知り得た知識や経験が、どこかに貯蔵されている。
『いわばそこは世界の記憶の集積所だ。すべてがそこにある。その知識を自在に引き出し操れれば、なにもかもを牛耳ることなど容易いだろう』
「これでもかというほど夢物語だ」
『この場所とて常人からしたらそう例えられるだろうよ。世界が確固たるものであるという常識を捨てろ。〈世界記憶〉はどうやら存在するらしいのだから』
メレアたちはアカシアの言葉を聞いて、それぞれに情報を整理しているようだった。
首をかしげる者、重くうなる者、様相はさまざまだ。
『だから、そこにいる〈知王〉の末裔が〈叡智の聖典〉についてなにも知らないというのも、不思議な話だ』
アカシアは訝しげに言った。
『〈叡智の聖典〉を本当に持っていればそれがどんなものだか知るのは容易いだろう』
「そもそも使い方を知らないんだから仕方ないんじゃないの?」
メレアが逆に訊ねる。
『いや、〈叡智の聖典〉に小難しい使い方などない。〈叡智の聖典〉は使う分には術式を組む必要もなければ、なにかの儀式を必要とするわけでもないのだ。むしろ意識せずとも〈叡智の聖典〉は勝手に〈世界記憶〉にアクセスする。〈知王〉にとって必要な力は、そうやって勝手に〈世界記憶〉にアクセスしてしまう〈叡智の聖典〉の力をいかに制御するか、という力だ。〈世界記憶〉からの粗雑で膨大な知識に頭を壊されてしまわないように、案内書の使い方を学ぶわけだ』
アカシアはミラをじっと見ていた。
『ゆえに、本当に〈叡智の聖典〉を使えるのであれば、私なぞに訊かなくともそれがどんなものであるのかはすぐに理解できる。〈叡智の聖典〉は持つ者の知りたいという知識欲に強く影響を受けるとも言うし、本当にその女が自分の力について知りたいと思っているのならば、とっくに自分で解決しているはずだ』
自分にそんな力が宿っていることと自覚していない者であれば、まだわかる。
しかし自分に〈叡智の聖典〉が宿っていることを知っているのであれば――
「アカシア」
するとそこでメレアがアカシアの視線を遮った。
ミラとの間に身体をすべり込ませ、首を横に振る。
「それ以上は言わないでくれ。他の誰かが踏み込んでいい領域を越える可能性がある」
自分とアカシアの間に身をすべり込ませたメレアを見て、ミラは少し目を丸くしていた。
「アカシアの言わんとすることもわかる。でも、そういうのはしかるべき順序で解決するよ」
『ふむ。まあ、その方がいいのかもな。不躾なことをした、許せ、〈知王〉の末裔』
「――いいのよぅ。別にわたし、気にしてないからー」
ミラは顔の前で手を横に振って、ほのかに笑って見せる。
『と、まあ、こんなところだな。あとは自分たちで探るしかないだろう。わたしでもアイオースに潜入しているムーゼッグの現状況についてはわからん。やつらは殊のほか情報を隠すのがうまい。わかりやすいフェイクを入れることで肝心の情報を隠している気もする』
「もう少し自分たちで動く必要があるな」
メレアは背中を伸ばしながら言った。
「早めに動こう。どっちにしろこれ以上ここにカルトを置いておきたくない」
『ああ、その方がいいだろう。あの〈精霊の子〉にかぎらず、お前たちのような普通の――ある意味では普通ではない――人間にとっても少々毒だ。人もまた身体に式を持っているからな。この土地の影響を受けて不調が出たのではわたしも申し訳が立たん』
アカシアはそう言って目を閉じた。
「アカシア」
そんなアカシアを見て、メレアが言う。
子どものような無邪気な笑みで。
「また、ここに来てもいいかな」
アカシアはメレアの言葉を受けて少し驚いたように目を開いた。
『お前、私の話を聞いていたのか?』
「それでも、たまに来る分には大丈夫だろう?」
そのときアカシアはメレアの背後に二つの幻影を見た。
ヴァンと、ベルセウスが、メレアの中に生きている気がした。
『……勝手にしろ。だが、二度目からは私も責任は取れんぞ』
「構わないよ。俺は俺の意志でここに来る」
私は私の意志でここに来る。
俺は俺の意志でここに来るんだ。
『……まったく同じことを言うやつがあるか』
アカシアは人間のように目を伏せて、感じ入るようにつぶやいた。
そしてメレアたちは一度〈識者の森〉を去る。
一行の帰りを待っていたのは、パラディオンの狂書を手に入れたリリウムたちと――
予想だにしない波乱の迎え火だった。
メレアはこのアイオースにて最も出会いたくなかった人物と出会う。
一方でそれは、最も再会を切望した人物でもあった。
『……どうか、彼らに〈識者の森〉の祝福を』
片翼の梟は魔王たちの去った森の中で小さくつぶやく。
彼に寄り添う動物たちも、また同じようになにかに祈っていた。