180話 「知の闘争」
「さて、だいぶ人も捌けた。そろそろはじめよう」
太陽が茜色に染まりはじめたころ。
学生たちのいなくなった講義室の真ん中でギルバート、ベナレス、そしてリリウムとサーヴィスが向かい合って席に座っていた。
「簡単なゲームだ。これから僕が『問題』を出す。それをすべて解けたら君の勝ち。一つでも解けないものがあったら君の負け。勝ったら狂書を渡す」
「ちなみに、わたしが負けたら?」
リリウムは若干口調を崩しながらギルバートに問いかけた。
「特になにもしない」
「……」
その答えにリリウムはわずかにムっとした。
「はは、君はずいぶん負けず嫌いのようだな。最初の妙に礼儀正しい立ち振る舞いも演技だろう。君の本質は今の表情の方にこそ表れている」
ギルバートが笑った。
「それに、君はとても賢い。今その表情を出したのだって計算ずくだ。もしかして僕との距離を縮めようと思って弱みを見せたのか? ――いや、そうに違いない。仮にゲームに負けたとき、僕から別の方法で本を借りるため、種を撒いておいた。今の幼子が見せるような無邪気な負けず嫌いさの片鱗は、いざ負けたときに僕の同情を誘うきっかけになる。たぶん君は負けたとき嘘泣きをするだろう」
すべてギルバートの言うとおりだった。
リリウムはどんな手を使ってでもこの場でパラディオンの狂書を手に入れるため、二重三重の策を仕込んでいた。
その一つは今ギルバートの言った情に訴える作戦。
「あんた、性格悪いって言われない?」
「そんなには。なぜなら僕は僕より著しく程度の低い連中とはそう多く言葉を交わさないから」
「なら、『あたし』は少しもマシってことかしらね」
「そうだな」
ギルバートは楽しそうに含み笑いを漏らす。
リリウムはすでに素の状態に戻っていた。
「まあ、あと二つか三つ、君は僕からこの本を奪うための方策を練っているのだろうが、ひとまずそちらは置いておこう。はじまる前にネタばらしをしてはおもしろくない」
「そうね、それにその方があんたの精神衛生上良いと思うわ」
リリウムは机の下で一瞬だけ〈真紅の命炎〉を指先に灯らせた。
「じゃあ、はじめよう。最初の問題だ」
そしてギルバートは手を組んでずいと身を前に乗り出す。
リリウムもまた同じように机の上に肘を立てて臨戦態勢を取った。
◆◆◆
――なんだこれ、全然わからない……。
ギルバートとリリウムの知識の闘争は、隣で聞くだけのサーヴィスの脳裏にそんな言葉を浮かばせた。
ギルバートはさまざまな分野からリリウムに問題を出した。
数学、歴史学、政治学、医学、工学、生物学、鉱物学、物理学。
さらには滅亡した民族の特異言語にかかるアクセントの問題、とある空想文学の中にしか存在しない地図の問題にいたるまで。
それは知識という武器を使った真っ向からの殴り合いであり、ときには互いの心の読み合いであり、高度な知恵の比べ合いだった。
――この人たちいったいどれだけの知識を頭の中に蓄えているんだ……!
息を呑みながらサーヴィスは闘いの行く末を見守る。
すでにその闘いはサーヴィスの頭ではついていくこともできない高度なものになってしまった。
「マーチャント=グレッグスが生み出したギルナム鉱石の研磨方法をなんという?」
「二元式水化研磨法」
「正解だ。――驚いた。まさかここまで優秀だとは思わなかった」
延々と続いた問いと答えの応酬は、ギルバートの感嘆の声とともにいったん終わりを告げた。
ギルバートは黒縁の眼鏡の奥で切れ長の目を見開き、素直に驚いた表情を見せている。
「あんたもね。最近の青薔薇は程度が落ちたってうわさだったけど、存外そうでもないのかもしれないって思いはじめたわ」
リリウムも一息をついて腰をそらす。
「……さて、なら最後の問題といこう」
すると、ギルバートがおもむろに手を開いて机の上に置いた。
「これからここにある術式を展開する」
「へえ?」
「その術式がいったいどんな術式なのか、当ててみるといい」
ギルバートの手の上に明滅する小さな円が表れた。
おそらく基礎となる術式の部分的な描写だ。
ここから幾重にも折り重なって複雑な式が描かれていくに違いない。
「ギルバート」
と、今まで二人の攻防を静観してきたベナレスがギルバートに声を掛けた。
その声の中にはわずかに鋭さが混じっている。
ギルバートはその意味をすぐに察してふっと笑いながら答えた。
「案ずるな、ベナレス。術素は通さない。描写するだけで、発動はしない」
「それならいいけど……」
ベナレスは頭の中に小円の描写からはじまる術式をいくつか思い浮かべながらうなずいた。
「すべて描写するまでに少し時間が掛かるが、途中でわかったらその時点で答えてもらって構わない」
「ええ、そうさせてもらうわ」
リリウムはギルバートの手の上で次々に描かれていく複雑な術式を観察しながらうなずいた。
◆◆◆
最終的にギルバートの手の上に描写された術式は、講義室の最前部にある巨大な黒板を軽く覆い尽くすほどの大きさにまで膨れ上がった。
眩暈がするほど膨大な術式陣だ。
完成図を見たサーヴィスは、「メレア様が使う英霊さんたちの術式と同じくらいだな……」と内心で驚きとともに思った。
「完成だ。さて、この術式がどんな術式だか君にわかるか」
「……」
リリウムはギルバートが術式陣を生成する間、顎に手をやってじっと考え込んでいた。
「一分ちょうだい。その間に答えるわ」
「いくらでも構わない」
リリウムはこの術式が『偽装』されていることに気づいていた。
というのも、このギルバートという男は、器用にも本命の術式を手の上で描写しながらまったく別の術式も同時にその場で描写していたのだ。
まるでその別の術式も本命の術式の一部であるかのごとく。
常人ならそもそもそのことに気づかなかっただろう。
「……器用なことするわね」
「青薔薇の学園で術式講義に浸かった影響さ。ちなみに、そこまで気づいているならあえて言う必要もないかもしれないが、僕が問題としているのは『大きい方』の術式だ」
「そうね。もう一個の偽装用の術式は正確には術式ではないものね。たとえ術素を通したとしても事象として効果が生じないただの『落書き』」
この複雑膨大な術式陣の中から効力を為すであろう術式を見極め、そしてその効果を計算しなければならない。
さすがのリリウムも今回の問題には熟慮を要した。
それでもリリウムの頭脳は、最後の言葉からおよそ十五秒後、ギルバートが生み出した術式の効力をはじき出す。
「――わかった」
リリウムは瞬き一つしないまま口を開いた。
「これは一種の爆発術式ね」
リリウムは人差し指で宙に円を描きながら続ける。
「加速された術素同士が正確無比に真正面から衝突することによって、その瞬間に強力なエネルギーの発散を起こす。術素にも術式陣の中を通っている間に加工がなされるようになってる。コーティングと、形の研磨。術素を真球状にするのね。そうすることで衝突時に力の拡散が起こらないようにしてるんだわ」
リリウムがついにギルバートの目を真っ向から見据えて言った。
ギルバートはリリウムの言葉を噛みしめるように二度うなずき、
「――正解だ。よく解けたな。これには素直な称賛を送る」
そう言われ、ようやくリリウムが大きな息を吐いた。
今まで一滴も流れていなかった汗が噴き出し、彼女の頬を艶やかに流れる。
「よくやるわね、あんたも」
「僕は相手が誰であろうと勝負には本気で挑む主義だ」
「そうに違いないわ。あんたの問題を考えながらあんたからパラディオンの狂書を奪うための方法をあと二個くらい考えてたけど、どうにも成功率は低そうだったから、途中で切り替えたわよ」
「そういう君も相当だ。ベナレス以外にこれほどの智者がいるとは思わなかった」
ギルバートは眼鏡の位置を指で直しながら姿勢を崩す。
「やりましたね! リリウム様!」
するとサーヴィスが両手をあげて喜びを露わにした。
「様……?」
「あっ、いや――」
「気にしないで。この子はあたしの弟子みたいなものなの。妙にへりくだるところがあって、たまにあたしのことをそういう敬称で呼ぶのよ」
ギルバートとベナレスが首をかしげたのを見てリリウムがとっさにフォローする。
さらにすかさず話題を今の術式問題に戻した。
「でも、今の術式ってたとえ術素を通したとしてもうまく発動しないわよね」
「ほう、よくわかったな」
ギルバートがまた感心したようにうなずいた。
「途中、術素の通る回路がどうしても別の回路に遮られるところがあるもの。あたしも頭の中で別の理論を応用してなんとか回路を完成させようとしたけど、少なくともあたしが知る理論じゃどれを使ってもどこかしらで術素の通り道が別の式に遮られてしまう。もし抜け道があったとしたら、この術式はとんでもない術式になるけどね」
「そう、この術式はすさまじい効率性を秘めている。通した術素が回路内で莫大な速度に加速され、完璧な角度で衝突したとき、どんな精緻な術式よりも強大なエネルギーを発する可能性を秘めているんだ」
「でも、現存する理論では絶対に完成することがない」
「二重の意味で、夢の術式だ」
「〈クロウリー=クラウンの矛盾術式〉」
「ぐうの音もでない完璧な答えだよ」
リリウムの言ったこの術式理論の名に、ギルバートは肩をすくめて反応してみせた。
「これは〈クロウリー=クラウンの矛盾術式〉に僕なりの改良を加えた作品だ。まあ、結局のところこの矛盾を解消するには至らなかったが、ほんの少し、完成には近づいたと思う」
「そうね、学会に出せば手放しで賞賛されるくらいの改良よ、これ」
リリウムは遠回しにギルバートを讃えた。
こと学術に関してはあまり人を褒めることのないリリウムが、ここまで相手を褒めることにサーヴィスは驚いたが、一方でそれくらいギルバートの頭脳が優れているのだと畏怖に近いものを覚えた。
しかしそんなサーヴィスも、このとき二人とはまったく別の思考回路でその術式を捉えていた。
そしてそのサーヴィスの発想と手段が、今まさに――
『この街を地図上から消し飛ばそうとしていた』。
「あの、でもこれって、ここの回路をいったんこんなふうに切って、そのあとうまく曲げてから繋げれば――」
サーヴィスはギルバートが維持していた矛盾術式に手を伸ばし、その『中指』で明滅する一本の線を『切り』、さらに『人差し指』で術式線を『曲げて』、最後に『薬指』で切れた線同士を『繋げ』ようと――
「ッ!! やめなさい!! サーヴィスッ!!」
瞬間、講義室を震わせんばかりのリリウムの怒号があがった。





