177話 「再会と際会」
「よろしかったのですか? リリウムたちの別行動を許してしまって」
「構わないよ。一緒の方が良かっただろうとは思うけど、どうしても一緒じゃきゃダメなわけじゃないから。それにあそこまでリリウムに断固とした態度を取られちゃったら俺もなにも言えない。俺、基本的にリリウムには頭が上がらないし……」
メレアたちはアイオースの北東部にある〈識者の森〉に向かっていた。
その途中、メレアの隣をいつものメイドの格好で歩いていたマリーザが訊ねる。
「しかし珍しいですね、リリウムがあそこまで断固とした態度を取るなんて」
「そうかもね。なんか思うところがあったんじゃないかな」
「たとえば?」
「昔の恋人を見つけたとか」
メレアが茶目っ気を含ませて言うと、
「それはないわねぇ」
後ろを歩いていたミラが即座に否定した。
「あの子、今ほかの男に目移りする余裕なんてないからぁ。たとえそれが昔の男でもぉ」
「そうなの?」
メレアがミラの方を軽く振り向いて小首をかしげる。
「ねえ、マリーザちゃん?」
「わたくしに振らないでください」
「えー、恋敵としてあなただってよくわかってるはずじゃない?」
「ちょっと、いい加減にしてください」
二人のやり取りにまた深く首をかしげながら、メレアは前を行く。
「まあ、そもそもあの子が学生時代に男作ってたなんてこと、ないと思うけどねぇ」
「そうなの?」
「わたしの目に狂いはないわぁ」
「ミラが言うとそんな気がしてくるのが怖いな。……まあ、〈炎帝〉の末裔だって隠して潜伏してたんじゃそんな余裕はなかったかもね」
いくばくか会話をしていると、遠くに青い森が見えた。
「あれか」
「そのようですね。どことなく気味が悪い森です」
「でもあそこ、昔は聖なる森って言われてたんでしょ? 神聖な生き物が集まるって」
「特別知能が高かった獣や、独自の進化を遂げた生き物が『逃げ込む』場所でもあったとか。どこの世もはみ出し者は追いやられるものなのですね」
「でもそんな彼らに理解があった人間もいるって言うし」
「〈聖ベルセウス〉ですね。神話にまでなった人間は数えるほどしかいないものですが、そんな聖人の中でも特に著名なのが聖ベルセウスです。古代、神話上にしか存在しない〈龍〉を退治したことがあるとか。たしかメレア様の使う術式の中にその名がありましたね」
「うん。その人ヴァンの祖先だよ」
「えっ」
メレアが軽く言うと、マリーザが珍しく目を丸くして呆けた声をあげた。
「ヴァンの〈聖ベルセウスの黒龍〉はその祖先の神話から取ったって言ってた。ヴァンの使う術式は基本神話になぞらえているんだけど、中でも〈黒龍〉は思い入れが強いらしい。その理由がモチーフとなった龍が先祖にまつわる存在だったから、ってわけ」
「いや、あの、……え? 聖ベルセウスの家系って本当に存在したんですか?」
「ん? そうだよ? あれ、マリーザも言ったじゃん、聖ベルセウスは人間が神話になったって。ならあくまでベルセウスだって普通の人間だったわけでしょ?」
「いや、まあ、そうなんですが……いざ実在したと言われると頭を抱えたくなるたぐいの神話でして……」
マリーザがぶつぶつとなにかを唱えながら狼狽えるさまを、メレアは楽しそうに見ていた。
「ともあれ、そうなるとやっぱり〈識者の森〉とヴァンは関係があったのかもね。ヴァンは西大陸出身だし、昔辺鄙な森に住んでたこともあるって言ってたから」
「メレア様、ほかになにか隠していることはございませんか? もうこれ以上なにもないですよね? いざというときに言われると狼狽えかねないのでなにかあるなら今のうちにおっしゃってくださいね?」
「う、うん」
メレアはいろいろと思いついたが、マリーザの鬼気迫る感じを見てあえて言うのをやめた。
と、そんな会話をしているうちに、一行は〈識者の森〉に踏み込む。
その青い森は鬱蒼としていたが、一方でどこか清らかな空気も感じられた。
◆◆◆
「リリウム様、良かったんですか?」
「なにが?」
「メレア様たちと一緒に〈識者の森〉に行かなくて」
「たしかに気にはなるんだけどね。メレアも一緒に行こうって言ってたし。――でも、思い出したのよ」
「なにをです?」
「〈パラディオンの狂書〉の在り処」
「えっ!?」
時を遡ること数分。
リリウムは必死で黒く塗りつぶした髪を揺らしながら〈青薔薇の学園〉の廊下を歩いていた。
「あれがそうだったかの確信はないんだけど、昔、ちらっと『読めない本』を見かけたことがあるの」
「ほうほう」
リリウムの隣を歩くのはサーヴィスである。
「奇妙なことに、その本、いつも誰かが借りてたのよね。青薔薇の学園の蔵書室にあった本は片っ端から読んだんだけど、あの本だけはじっくりと読むことができなかった」
「その誰かのせいで?」
「そう」
「でも、読めないってわかったなら、一度は目を通したことがあるってことですよね?」
「ええ。いつかの講義のとき、蔵書室所蔵の記号が刻まれていながら、まったく見たことのない本を持ってるやつがいて。そいつがいない間にちょっとだけ盗み見たのよ」
「なかなか思いきりましたね。さすがリリウム様」
「褒めてんの?」
「褒めてます!」
サーヴィスは「しまった」というふうに一瞬顔をこわばらせながらも、すぐに背筋を伸ばして断言した。
そうしないと横腹をつねられそうで。
「ちなみに、誰がその本を持ってたんです?」
「セリアス=ブラッド=ムーゼッグ」
「えっ」
さらりと言い放たれた名前に、サーヴィスはまたも表情をこわばらせる。
「だから余計に嫌な予感がするの。そのことを思い出したらいてもたってもいられなくなって」
「なるほど。だからあそこまで断固とした態度を取ったんですね」
「メレアには悪いと思ってるわよ」
「でも今回の選択もすべてメレア様のため――いでででで!」
リリウムが視線を向けないまま的確な動作でサーヴィスの横腹をつねる。
「なに?」
「なんでもないです!」
そうこうしているうちに青薔薇の学園の中のとある部屋の前にたどり着いた。
生徒の姿はほとんどない。
その部屋の扉は年季が入っていて、歴史を感じさせるこの学園の中でも一等雰囲気のある扉だった。
「あれ、こんなにさびれてたっけ」
「蔵書室ですか? なんかさっき通りすがりに聞こえたんですけど、今度新しい蔵書室ができたから古い方は近々取り壊すみたいですね」
「……そうなんだ」
リリウムはその言葉を聞いて少しだけ寂しげに表情を曇らせた。
「まあいいわ。まずはこっちから見てみましょ。あれがまだこの学園にあるなら、どうせ誰も読まないだろうし、古い方の蔵書室にある可能性が高いわ」
「そうですね」
「堂々としてなさい。潜入の基本は『普段どおり』でいること。あの『クード』が言うんだから間違いないわ」
そしてリリウムは扉の取っ手に手をかけた。
「あのー」
◆◆◆
ベナレスは最初、入室してきた少女を見て素直に可憐だと思った。
そして次に彼女の目を見て――なんとなくここの学生ではないのだろうと思った。
彼女の紅い瞳の中には、今のアイオースには似つかわしくない強靭な意志の光があったから。
「まだやってますよ」
彼女の問いにケイオーンが一向に答えなかったので、ベナレスが代わりに答えた。
「じゃあ、少しお邪魔しますね」
そう言って少女がまた一歩中へ入ってくる。
彼女の後ろにはクリーム色の巻き毛を持った少年がくっついていて、まるで彼女の護衛でもするかのようだったが、その様子にはまだどこか子どもっぽさもあった。
と、そのあたりになってベナレスはケイオーンの異変に気づく。
「アウス……バルト嬢」
彼女には聞こえなかっただろう。
それくらい小さな声だった。
しかしベナレスはたしかにケイオーンのつぶやきを聞く。
その声は今まで聞いたこともないような、弱々しく、それでいてあらんかぎりの感情が詰まった声だった。
「ケイオーンさん?」
ややあってベナレスが首をかしげながら名前を呼ぶと、ケイオーンはハっと我に返って手に持っていた本を司書机に置く。
「いや、なんでもない」
ケイオーンはそう言ってまるで彼女から隠れるようにカウンターの奥へ一歩退いた。
「ベナレス少年、彼女に『今の』蔵書室の並びを教えてやるといい。――最近は蔵書の移動もあって本の並びがめちゃくちゃじゃからな」
「そうですね。そうしましょう」
ケイオーンの言葉に変なところはなかった。
理由も妥当だ。
だからベナレスに気づく余地はない。
『今の』という言葉の中にどんな意味が含まれていたか。
「もし借りたい本があると言ったらまたわしを呼べ」
「あれ、でも今ここの蔵書は貸出禁止じゃありませんでしたっけ。新しい蔵書室に移動させるかもしれないから――」
「構うな、いろいろと理由があるんじゃ。――これは天がわしに許した最後の罪滅ぼしの機会なのじゃよ」
蔵書室の主が言うのならそれでいいのだろうか。
ベナレスは「わかりました」とうなずいて司書室の奥へ消えていく彼の小さな背を見送った。
それからベナレスは少女に近づき、できるだけ柔和な雰囲気を醸して声をかけた。
少女はすかすかになった本棚の中を覗き込んでいるところだった。
「はじめまして。ベナレス=ファルムードと言います。なにかお探しですか?」
「ええ、ちょっとね」
少女は紅い瞳をちらりとベナレスに向けて、それからまたすぐに本棚の方へ視線を戻す。
「あたしはリリウム。最近〈青薔薇〉に来たからあんまり内情に詳しくなくて。なんだかここの蔵書室は本の数が少ないようだけど、なにかあったの?」
「新しい蔵書室ができたのでそちらに順次本を移動しているんです。主要な蔵書はもうほとんど移動したあとですから、あまりめぼしいものはないかもしれません」
「そっか」
「新しい方の蔵書室は見てみましたか?」
「いいえ。でもあたしが探してる本はとんちんかんな本だから、今言った主要な本の中には入ってないかもしれないわね」
「なるほど。なら一緒に探しましょう。自慢じゃないですけど僕はとんちんかんな本にはわりとくわしい方ですから」
そう言うと、また少女――リリウムがベナレスの方を見た。
『自分が観察されている』という感覚が、わずかにベナレスの中に芽生える。
「ホント? じゃあ聞こうかしら」
「――なんなりと」
しかしその感覚も一瞬で、すぐにリリウムの目の中から値踏みするような色は消えた。
その対応の速さで、ベナレスは彼女の頭の良さを察した。
「〈パラディオンの狂書〉って知ってる?」
ベナレスはその出会いが自分の人生を大きく変えるものになることをまだ知らない。
あの夜会で不意にメレアとすれ違ったことを除けば、これがベナレスの、〈魔王連合〉と接触した最初の出来事だった。