171話 「魔女の微笑み」
『百魔の主4巻』ついに本日発売です!
書店で見かけた際にはぜひ手に取って見てください。
――メイド服を脱いで街を歩くのはいつぶりのことでしょうか。
マリーザ=カタストロフはその日、赤薔薇の学生街の一角で普段は身に着けないような紫のドレスを身に纏って歩いていた。
「似合ってるわよぅ、マリーザちゃん」
「わたくしとしては羞恥に耐えない状態です」
どこの街にも夜にだけ開くような、やや蠱惑的な店がある。
いかにアイオースが若者の街だとは言っても、まったく大人が存在していないわけではない。
そういう店へ引っかかりなく潜入するのに、メイド衣装というのはさすがに悪目立ちする。
「えー、もったいないなぁ。今度そのドレスを着てメレアちゃんに迫ってみればいいのにぃ」
隣には痴女が一人。――否、肩書的には一応知女だ。
自分以上に胸元の開いた黒のドレスを身に纏い、通りすがる純情な男たちの視線を一身に集めている女。
〈知王〉ミラ。
「その案は多少考慮に値しますね」
「でしょう? メレアちゃん、意外とこういうのに弱いと思うのよねぇ」
太ももの横のあたりがスースーする。
なぜこんなスリットの大きなドレスを着なければならないのか。
着飾るにしてもほかの選択肢がもっとあったように思う。
「メレア様にならいくら見られても構いませんが、ほかの男に見られるのは気持ちが悪いですね」
「慣れよ慣れぇ。マリーザちゃんすっごい美人なんだから、こういうときくらいその強みを使っていかないとぉ」
なぜ夜の店に踏み込むのか。
理由は明解だ。
情報収集のためである。
「はあ。で、あなたがあれだけ強く提案したんですから、なにか宛てはあるんでしょうね、ミラ」
「んー?」
ミラは艶めかしい身体を揺らしながら、マリーザの方を笑みで見る。
「あんまりないかもぉ」
「あなたね……」
「でもぉ、大抵そういうところに情報って集まるものなのよぅ。これは経験則だけどねぇ? 夜のお店でお酒が回ったりすると、人ってどうしようもなく口が軽くなるのぉ」
あながち言っていることが的外れではないのが気に食わない。
「ならミラ一人で行けばいいでしょう」
「だめよぅ。マリーザちゃん、メレアちゃんにわたしの護衛するように言われてるでしょー?」
「くっ……」
そうなのだ。だから仕方なくこうしている。
ときたまあの第一主人はごく自然な成り行きで自分を過酷な任務へ遣わせることがある。
朴念仁なのだ。
「わたくしはメレア様以外に肌を見せるつもりなどないのに……」
「いつも思うけど、マリーザちゃんって純情なのか狂人なのかわからなくなるときがあるわよねぇ」
「わたくしは純粋です。純粋にメレア様のメイドです」
「シャウちゃんの言葉を借りるけど、あなたは一度メイドの一般的な概念を調べ直した方がいいと思うわぁ」
ミラがホっと色っぽい仕草でため息をついてそんなことを言った。
「あ、見えてきたわねぇ」
「どこですか」
ふと、ミラが遠くを指差す。
目を凝らした先に、華美な術式灯に彩られた一件の酒場があった。
「あそこ、学園の研究者とかがよく集まるお店らしいわよぅ」
ぱっと見るかぎり普通の酒場だ。
――いえ、学生街に酒場があること自体がおかしいのでしょうか。
アイオースという若者の街に、本来あるべきでないものが置いてある。
虐げられるように隅に追いやられたあの酒場が、この街では少数派たる年長者の憩いの場なのだろう。
「はあ。気が重い」
「まあまあ。面倒そうなのはわたしが全部引き受けるから、マリーザちゃんはそのこわーい目で怪しい人を探してちょうだいねぇ」
頼りになるのか頼りにならないのか。
たぶんこういう情報収集ではミラの方が上手だとは思う。
それでも完璧なメイドとしての矜持があって、マリーザは彼女の言葉に少し語気を強めて答えた。
「舐めないでください。メレア様のためならこれくらいこなしてみせます」
「頼もしいわぁ」
ミラが長い黒髪を手で払って楽しげな笑みを浮かべた。
不覚にもマリーザはその笑みに見とれる。
女ながら彼女の艶やかさには背筋をぞわりとさせられる瞬間があった。
「では、参りましょう」
「ええ、楽しい飲み会よぉ」
この女、実は自分が酒を飲みたかっただけなのではないか。
一瞬マリーザはそんなことを思って、思わずこぼれるため息をそっとアイオースの空に浮かばせた。
◆◆◆
〈テレーゼの酒場〉と銘打たれたその建物の中には、大人と見られるような年長者以外にも、不思議なことに学生らしき者たちがいた。
マリーザは酒場に入るやいなや、彼らの視線が自分の姿態に突き刺さったのを感じる。
ミラにかぎってはすでに入口近くにいた男に言い寄られていた。
――天性の男たらしですね……。
ものの数秒でこれとは、ある意味怪物だ。
マリーザはそんなミラを差し置いて、酒場のバーカウンターに腰を下ろした。
はてさて、ここからどうしたものか。
「こんばんは、お嬢さん。とてもお綺麗ですね」
するとマリーザは数秒もしないうちにとある男性客に声を掛けられる。
齢は同じころだろうか。
胸元に青い薔薇飾りがついていた。――青薔薇の学園の生徒だ。
「こんばんは」
「ああ、つれない返事も魅力的だ。声にもその切れ長の眼と同じような魅惑的な鋭さがある」
どうかしているのではないか。
マリーザは思わず口走りそうになった。
「君もここの学生かい? それともこの街に商売に来た遊女?」
「しがないメイドでございます」
「メイド?」
これだけは譲れない。
自分が敬愛するあの主のメイドであるということだけは、いついかなるときであろうとも偽ることはできない。
「珍しいね。どこかの貴族の専属メイドかな。アイオースにいてメイドの帯同が許されている者はそんなに多くないけど」
「そうですね。わたくしの主人はとても高貴なお方です」
「へえ、興味があるな」
じり、と隣に座った青年が若干距離を詰めてきた。
――その金髪を今すぐ引きちぎってやりたい。
「でも、そんな高貴な人のメイドである君がこんな酒場に来るってことは、もしかして少し疲れちゃったのかな? ――そうだよね、いかに高貴だとは言っても、そいつが身分を鼻に掛けたわがまま小僧だったりしたら疲れちゃうよね。君も大変なんだね」
この男はそもそもなにかを勘違いしている。
マリーザは衝動的にこの男の鼻っ柱を再生不可能なまでに折りたくなった。
「僕、この街では結構名の知れた美容師なんだ。学生をやる傍ら、この街に住んでいる女の子たちを綺麗にすることを使命にしてる」
「ほう、見上げたものですね。わたくしもあなたの顔面を綺麗にして差し上げたいです」
顔面の凹凸をすべて剃り上げて真っ平らにしてやりたい。
きっと綺麗になることだろう。
「え? そう? じゃあ早速僕の部屋に来て君を綺麗にさせてよ」
直後、男の手が髪に触れた。
その瞬間マリーザの中の我慢の糸がみちりと千切れかけた。
「……」
「あれ? どうしたの?」
おそらく一般的には美形とされるであろう男の顔が不思議そうな表情に彩られる。
「もしかして緊張してる?」
している。
主に拳が。
緊張のあまり思わずこの拳で目の前の男の顔面を平らにしたくなるほどだ。
「大丈夫、変なことはしないから――」
男の手があろうことか太ももに乗せられる。
――そうだ、殺そう。
マリーザは至極冷静に判断を下した。
「あらぁ、坊やぁ、積極的なのは見上げたものだけど、わたしの連れにそういうのはダメよぉ」
が、直後に男の背後から声が鳴った。
見ればミラが顔に妖艶な微笑を浮かべたまま自分の太ももに回った男の手をつかんでいる。
「それにぃ、これ以上やっちゃうとあなたぁ――いなくなっちゃうからねぇ」
いなくなっちゃう。
かぎりなくボカした表現。
だがなぜかその形容には不気味さが漂っていた。
「え? いや、その――」
男は突然ミラに手をつかまれて慌てたふうだ。
「もしこの子が気に入ったならぁ、あなたこの子の主人と真っ向から勝負してみるといいわぁ。それであなたが勝ったなら、この子も喜んであなたのところに行くわよぅ?」
「ほ、ほう」
男はミラの提案に妙に感心したようだった。
「たしかに、その方が後腐れなくていいな。こんな綺麗な女性を疲れさせるような主人より、きっと僕の方が格は上だろうし」
「……そうねぇ。そうだといいわねぇ」
いや、そうに決まっている。男は盛大な勘違いをしたまま得心し、大きくうなずいた。
「じゃあ、早速その主人とやらに会いに行こう。彼女を救うのは早ければ早い方が良い」
「あはは。行動が早いのは良いことよぉ。――でも、その前にあなたにもなにか賭けてもらわないとねぇ」
「賭ける?」
男は首をかしげた。
ミラはそんな男の頬に細長い指を添えて、艶やかに紡ぐ。
「そうよぉ? だってぇ、その主人はこの子の主人としての権利を賭けるのに、あなたがなにも賭けないなんて男らしくないじゃないー?」
「む、むう……それはそうだが……」
「見たところあなたぁ、とっても物知りそうねぇ」
ミラは男の頬を艶めかしく撫でながら告げる。
長い前髪の隙間から、ミラの切れ長の目が妖しげな光を放っていた。
「そうとも。僕はこの街について結構くわしい。おしゃべりな女の子たちがいろいろ教えてくれるからね」
「あはは、あなたモテるのねぇ。たしかに顔は悪くないわぁ」
ミラに褒められて男はまんざらでもなさそうだった。
「じゃあ、あなたが負けたらぁ、そのあなたが持っているっていうこの街の話、いろいろ聞かせて欲しいわぁ」
「ああ、いいとも。街の平穏が引っくり返るような秘密の話まで、洗いざらい話そうじゃないか。――まあ、そもそも僕が負けることなんてないわけだけど」
「約束よぉ?」
「ああ、約束だ」
男は力強くうなずいて、白い歯を覗かせた。
「じゃあ、案内してあげる。その子の――」
大好きな――
「主人のところへ」
学術の街の華美な夜が幕を開ける。
彼にとってはもしかしたら――悪夢の幕開けだったかもしれない。
P.S 電子書籍版も紙書籍と同じく本日発売です。
また、紙書籍の方には購入特典のSSリーフレット等もあるので、気になる方は活動報告または公式HPをご覧ください。