165話 「記憶の果てに立つ者は」
ベナレスは紙面の文章を読んで、とっさに後ろを振り向こうとした。
それは衝動である。
外敵から身を守ろうとする、動物的な本能。
「――」
しかしその本能を、理性が制した。
一瞬の内に、ベナレスの中でこれまでの経緯が反芻されていた。
「よく、わかりません」
さらに一瞬遅れて、ベナレスの思考は目の前の二人の意図を明確に暴き出す。
――僕がこの文章を読めるかどうかを試している。
紙面に書かれている文章は明らかに普通の文章ではない。
素人目に見ても三つ以上の言語が混ぜられて書かれている。
「あら」
意外とでもいうような顔で、ヴァネッサが眉をあげた。
「やっぱり読めないのかしら」
否。ベナレスは何故かそれを読解できた。
しかし、あえて読めないふりをした。
念を押すようなカイゼルの前置きと、自分を事細かに観察しようとする二人の鋭い視線がベナレスの中で引っかかっていた。
「ふーん、珍しく殿下の予想が外れたわね。アレの持ち主なら十中八九振り向くだろうっておっしゃってたけど」
ヴァネッサが残念そうに鼻で息を吐く。
「いや、まだそうと決まったわけじゃねえ」
安心しかけたベナレスの心臓を、カイゼルの言葉が再びノックした。
「なによ、この子振り向かなかったじゃない」
「そうだが、なにか引っかかる」
「なにがよ」
「知らねえ。だが俺の勘が判断を下すには早えって言ってやがる」
額にある大きな切り傷を指でなぞりながら、カイゼルが言った。
「ベナレス、お前はなかなか用心深いようだな」
「なんのことでしょう」
ベナレスは内心で冷や汗をかきながら、見せ得るかぎりの平静さを装ってカイゼルの目を見据えた。
カイゼルの目の中には獣が獲物を観察するときのような鋭い眼光がちらついている。
こういう視線はあまり好きではない。こちらからは何も読めないくせに、自分の内心は一方的に見抜かれている気がしてくる。
「……まあ、いいだろう。なにも俺たちの試験はこれだけじゃない」
カイゼルは額の切り傷をなぞるのをやめて、椅子の背に深くもたれかかった。
ベナレスは微動だにせずその顔の動きを追う。
「ヴァネッサ、今日は帰るぞ。殿下に報告はしておけ」
「なに勝手に決めてるのよ、まだ帰るのは早くない?」
「いいから大人しく従えよ。どうせこいつはこのやり方じゃ尻尾は出さねえ」
カイゼルが椅子に立てかけてあった鉄塊のような大剣を取って立ちあがった。
いざ立ちあがるとその身体の大きさが如実にわかる。
熊のような巨体だ。
「ベナレス、そのうちまたお前を呼ぼう。そのときは来てくれるな?」
「……」
できれば来たくはない。ロクなことにならないのは目に見えている。
だが一方で、自分が来ざるを得ないことにもなんとなく気づいていた。
この手の輩はえてして相手を力づくで誘導することに巧みだ。
「来たくなけりゃそれでもいいが、そのときはお前の友人が一人死ぬ」
「……友人?」
「たしか――」
カイゼルがわざともったいぶるように間を置いてから言った。
「ギルバートとか言ったか。黒縁の眼鏡をかけた小僧だ」
ほらみろ。ベナレスの中の冷めた理性が言った。
「……あなたたちの目的はなんなんですか」
「それを教える義理はねえ」
「一方的ですね」
「そうだ、世の中ってのは強者に都合よくできてる。そして現時点で俺とお前では俺の方が強者だ」
カイゼルが大剣を肩に背負って見下ろす。
「長い間惰弱な発想に溺れてきたアイオースの中にいるお前には、端的に言って力がない。ここは良くも悪くも平和だからな。まあ、その平和も実際のところは偶然が積み重なって出来上がったものだが――」
知ってる。
ベナレスは心の中でうなずいた。
「アイオースは体の良い言い訳を掲げて世界から逃げてきただけだ。自分たちも世界の一員であることを忘れ、さも自分たちは特別であるかのように虚飾を重ね、ここまで来た。アイオースの統括議会はそもそも勘違いをしている」
そう、彼らは自分たちの崇高な理念がこの街を守っていると本気で思っている。
彼らは今の世界がどういう状態にあるのか正確に理解していない。
「アイオースは生かされてるだけだ。自分たちの力で生き残ってるわけじゃねえ」
まさしく。
この都市はたまたま生き残ってきた。
他国家、有力貴族、重要商会、そういう者たちの利害の一致や度重なる牽制の果てに、うまいことを難を逃れてきただけ。
学術の発展のため、争いの種となるようなしがらみは街から追い出す。その崇高な理念によって、アイオースは中立的平和を保っていると本気で思っている者がこの都市の上層部には少なくない。
――そんなもの、圧倒的な力の前には幼子の駄々と変わりないというのに。
「だが、そうしたツケの支払期限がすぐそこまで迫ってきている」
カイゼルの言葉にベナレスはハっと我に返った。
「この都市が戦乱に巻き込まれるとでも?」
「ああ、巻き込まれる」
カイゼルの声には確信がこもっている。
そう断言するに足る材料が、この男の中にはあるのだ。
「カイゼル、喋りすぎよ」
「わかってる。これ以上は言わねえよ」
ヴァネッサが長い細身の剣を背中に差し直しながら立ち上がった。
「それじゃあね、ベナレス。また会いましょう」
二人の男が立ち去る。
ベナレスは彼らの背を眺めていることしかできなかった。
自分には力がない。
なにをしても無駄だ。
そう冷静に判断を下してしまう自分が、ベナレスは嫌いだった。
◆◆◆
「ベナレス」
「……ギルバート」
ベナレスは二人からやや遅れてハーメル喫茶店を出た。
そこであの黒縁眼鏡の青年、ギルバートに再会する。
「どうしてここへ?」
「あのあと少し後悔をした。僕も感情的になっていたらしい。冷静に考えて、君を大人しく彼らのもとへ案内する必要はなかったと思った」
ベナレスはギルバートの遠回しな言い方が嫌いではなかった。
この男はその整いすぎた性格と見た目から堅物だなんだと同年代の生徒たちに馬鹿にされるが、言うほどお堅いものではない。
一度や二度の接触ではその人形的な無感情さが拭えないかもしれないが、話してみると彼は彼なりに優しいところがある。
「大丈夫だったか」
「――うん、なにも問題ないよ。ちょっとした昔の知人でね」
ベナレスは微笑を浮かべて言った。
「……そうか」
ギルバートは指で眼鏡の位置を直しながら、わずかに視線を斜め下に向けて物憂げな表情を浮かべた。
「なら、深くは訊かない。個人の事情に踏み込むのも悪いからな」
「そうしてくれると助かるよ」
ベナレスは一瞬、ギルバートにすべてを話したい衝動に駆られた。
頭の良い彼なら助けになってくれるかもしれない。
「――」
しかし、ベナレスは口を開けなかった。
――これ以上巻き込んじゃだめだ。
理性はいつだって自分の衝動を止める。
「じゃあ僕はそろそろ家に帰るよ」
「そうか」
「君に負けないように少しは勉強しないとね」
「よく言う。講義の内容なんて復習したこともないくせに」
ギルバートがふっと笑って踵を返した。
「忘れるなよ。次の試験では僕が勝つ」
「うん、忘れないよ」
「だから君は――その日まで無事でいなければならない」
ふいにギルバートが言った。
「君には僕が君を超える瞬間をしっかりと見てもらわなければならないんだ」
まったくもってこの男は不器用だ。
「――うん、わかってる」
「ならいい。それじゃあ僕も家に帰る」
ギルバートは緩やかな坂を登りはじめる。
彼の住む寮は青薔薇区画の上の方にあった。
ただこれだけのためにこんな下層まで来たのだ。
「本当に、話したくなる」
ぽつりとその場に残ったベナレスは小さくこぼした。
――でも、これ以上君をこの輪の中に巻き込むのは良くないことだ。
ただでさえあの二人に人質に取られている。
彼には平穏な日常を送ってほしい。
「僕は、そろそろ自分が何者であるのかを命がけで調べなければならないみたいだ」
ベナレス=ファルムードは自分が何者なのかを知らない。
知識はあるが記憶に欠落がある。
自分がどこから来たのかも知らない。
しかし、ベナレスには確信がある。
この記憶の欠落が自然的なものではないこと。
そして欠落した記憶の中に自分の普通ではない正体が隠れていること。
「あなたは僕に何をしたのですか――姉さん」
唯一記憶の中に残っている姉の影が、のっぺらぼうな顔でこちらを振り向いていた。
終:【第十三幕】【青い薔薇の学び舎より】
始:【第十四幕】【世界が動き出す日】
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