164話 「黒い薔薇の香り」
「ベナレス、君に来客だ」
術式構造学の講義を終え、資料を整えて再び蔵書室へと戻ろうとしたベナレスに、ふと声が掛かった。
「来客?」
こげ茶色の長机を三つほど挟んだ向かい側に、同じく暗い茶髪を綺麗に撫でつけている青年が一人立っている。
黒縁の眼鏡と切れ長の目が、どこか冷徹そうな印象を醸している青年だ。
「僕に来客なんて珍しいね」
「僕もそう思う。しかし実際に本人からそう言伝されたのだから間違いはない。君が僕をうそつきだとみなさないかぎりは」
「僕に君を疑う理由なんてないよ、ギルバート」
ベナレスは先日の術式実践学で作った術式紙をまとめて鞄の中にしまい込んで、椅子から立ち上がる。
「本当にそうかな。周囲の生徒曰く、君と僕は犬猿の仲だとのうわさだから」
「それはただのうわさだ。僕は君のことが嫌いじゃない」
ベナレスは黒縁眼鏡の青年の方へ歩み寄り、柔和な笑みを見せた。
そのまま手の届く距離まで近づいて、彼の肩をぽんと叩く。
「伝言をありがとう、ギルバート。それで、そのお客さんはどこにいるんだい」
「南門を出てずっとまっすぐ。〈黒薔薇区画〉の〈ハーメル喫茶店〉にいると言っていた」
「ハーメル喫茶店か。わかった。身なりになにか特徴はあったかな?」
「見ればすぐわかる」
「……ん?」
ギルバートが眼鏡の位置を指先で直して、小さくため息をつきながら言った。
「この街に似つかわしくない格好と雰囲気の人間だったから」
「……」
学生の多いこの街は、都市全体の平均年齢自体が低い。ともすればその客は学生ではなくて、高齢なのだろうか。ベナレスはなんともなく思った。
「年齢的な問題じゃない。この街にああいう物騒な人間は稀だ」
そういうことか、と納得する一方で、ベナレスは内心に少々の不安を抱いた。
「いったい君は何をやらかしたんだ」
何も。
何もしていない。
いっそのこと何かできるならしてもいいくらいの気持ちだ。
「僕は何も」
「……まあ、せいぜい気をつけることだな。――ああ、それと」
ギルバートがベナレスとは反対の方向に歩き出そうとして、なにかを思い出したように動きを止めた。
彼は再びベナレスの方を見て、真面目な顔で言う。
「次の試験では僕が勝つ。せいぜい首を洗って待っていろ」
ベナレスは彼の直線的な物言いが好きだった。
先日行われた各種講義の知識試験。
ベナレスは〈青薔薇の学園〉内で一位を取り、ギルバートは二位だった。
これが定位置。
まだ一度も覆ったことのない順位表。
「うん、期待してる」
「その余裕の表情を突き崩してやる」
ベナレスの言葉は周りからすると皮肉に捉えられる。
しかしベナレスは皮肉で言っているわけではない。
困ったふうな苦笑も、期待しているという言葉も、本心から言っている。
――君のような優秀で頑張り屋な人間が、一番になるべきだ。
ベナレスは自分の能力が借りものであることを自覚している。
だからいつもギルバートに勝つたびに内心で申し訳なく思っていた。
「僕も手を抜かないよ」
「当たり前だ。そうでないと意味がない」
しかし、だからといってわざと低い点を取ることもしない。
ギルバートがそういう小賢しい真似を嫌うことも知っていた。
「じゃあ僕は行くね」
「ああ、せいぜい道中気をつけるんだな。君は通り道に小さな石ころが置いてあっても絶妙にそれに蹴躓いてコケる男だ」
ギルバートの皮肉をまた苦笑で受け取って、ベナレスは教室を出た。
◆◆◆
〈青薔薇の学園〉の南門を出て人通りの激しい学生街に出る。
アイオースはその都市の敷地が段差上になっていて、自然の防壁である〈識者の森〉を背にした最も高い位置に〈青薔薇の学園〉があった。
〈赤薔薇の学園〉や〈黒薔薇の学園〉は、この南門を出て都市の正門へと続く中央通りをいくばくか歩いた先にある。
「ハーメル喫茶店は……っと」
そのため、青薔薇の学園を出て中央通りを歩いていけばいくほど、学生の数は多くなる。
階段を一つ下りて一段下の区画に入れば、そこには胸ポケットに赤い薔薇を差した〈赤薔薇の学園〉の学生たちがひしめいていた。
さらに階段を下りれば、今度は黒い薔薇を差した学生たち。
「最近〈白薔薇〉の学生を見かけないな」
ほかにもこの通りから左右に分かれた区画に、いくつかの学園がある。
しかしここのところ、彼らの姿はあまり見ない。
生活圏が区画として区切られているから仕方がないのかもしれないが、前はもっと多彩な学園の学生が入り乱れて、喫茶店の軒下でサロンなどを開いていたものだ。
それからしばらく黒薔薇区画を歩いて、ようやくベナレスは例の〈ハーメル喫茶店〉を見つけた。
「相変わらず不気味だなぁ」
前に何度か来たことがあった。
この区画内にある学園――〈黒薔薇の学園〉には、いわゆる鬼才や奇才と呼ばれるような特化した才能を持つ人種が多く集まっている。
そのため、彼らが縄張りとする黒薔薇区画も、ほかの区画と比べてどこか奇抜だ。
ハーメル喫茶店もその例にもれず、曲がりくねったオブジェが所狭しと飾られている魔女の館のようなところだった。
「お邪魔します」
ベナレスは一言挨拶をして、大きな鈴のついた扉を開けた。カランコロン、と小気味いい音が耳をつつく。
「あれ? ……店主がいない」
自分の記憶が正しければ扉を開けるとすぐに店主が声を掛けてきたはずだ。
古めかしいバーのようなテーブルの奥で、色とりどりのガラスコップをせっせと磨いている中年の男性。
その店主の姿が今日は見当たらなかった。
「まあいいか」
ベナレスはそっと扉を閉めて、店の中へ踏み込む。店主の姿は見えなかったが、人の気配はたしかにあった。
バーテーブルをぐるりと回って通り過ぎ、奥の四角いテーブルのある部屋へ進む。
学生が四方に椅子を並べて議論を重ねるにはうってつけな場所。
そこへ大きな一歩で入り込んで、
――しくじった。
ベナレスは次の瞬間、自分がよくない場所に誘いこまれたことを悟った。
「あら、なかなか綺麗な子じゃない」
「ハッ、ひょろひょろのガキじゃねえか。ミハイの小僧とよく似てる」
奥のテーブルには、この場所に似つかわしくない武具をたずさえた二人の人物が、座っていた。
◆◆◆
すらりと伸びた体躯に、中性的な美貌。艶のある赤紫の巻き毛を長く伸ばしていて、長いまつげが特徴的。
手前に座っていたその男は、口調も仕草もどこか女っぽかった。
「あら、固まってる。あんたが血なまぐさいせいで警戒モードに入っちゃったじゃない」
「俺のせいじゃねえ。てめえがくねくねして気色わりぃからだ」
「なによ失敬ね」
その美貌の男が座っている椅子の背もたれには、ひどく刃渡りの長い美しい装飾が施された剣が立てかけられている。
「ひとまずそこに座ったらどう?」
するとその男が再びベナレスの方を見ながら言った。
声は男のそれだが、顔には美女顔負けの妖艶な笑みがある。
――結構です。
ベナレスは心の中で言うが、実際に口にしたところで断れそうにもない。その美貌の男の隣に座るいかにも武人然とした男が、逃がすまいとでも言わんばかりの鋭い視線を送ってきている。
同じく椅子の背もたれに立てかけている――こちらは刃渡りだけでなく刀身そのものが分厚い――巨大な剣がものものしさを助長させていた。
「私たち、ちょっとあなたと話したいことがあるのよね」
「そうなんですか? 僕たち、会うのは今日が初めてですよね」
「ええ、そうよ。でも私たちはあなたのうわさを聞いてここにやってきたの。だから、私たちの方は一方的にあなたのことを知ってる。〈白緑の天才〉と呼ばれるあなたのことを」
またその名か。
思いながらベナレスは仕方なく二人の対面の椅子に腰を下ろした。
どうにも生きた心地がしない。
「いいからさっさとあれをやれよ、レオナール」
「ちょっと、その名前で呼ぶなっていっつも言ってるじゃない。男っぽくて嫌なのよ。〈ヴァネッサ〉って呼びなさい」
「めんどくせえな」
美貌の男――ヴァネッサの隣に座っていた大柄な男がため息をつきながら頭をかいた。
「よう、俺は〈カイゼル〉って言うんだ。で、まずはお前も名前を名乗れよ。俺たちゃ〈白緑の天才〉っていうお前の通称は知ってるんだが、実のところ名前は知らねえんだ」
大柄な男――カイゼルが言った。
「――ベナレス」
「姓は?」
「……ファルムード」
答えながら、ベナレスはまた嫌な予感を増幅させる。
往々にして自分の通称名だけを知って近づいてくる輩にはろくな者がいない。
たいてい、なにかしらの問題を運んでくる。
「そうか、ベナレス。名前は見た目と違って強そうだな」
「よく言われます」
「それでだ、ベナレス。早速で悪いんだが、これを見てくれ」
すると、カイゼルがふいにヴァネッサの方に目配せをした。
ヴァネッサはその合図を受けて「少しくらい美少年との会話を楽しませなさいよ」とため息をつきながら、丸められた一枚の羊皮紙を取り出す。
羊皮紙がヴァネッサの細長い指によって開かれると、その紙面に妙な形の文字らしきものが書かれているのがベナレスの目に映った。
「ここに書かれていることは真実だ」
前置きのようにカイゼルが言う。
「読んでみろ」
そのときヴァネッサとカイゼルの目が異様な鋭さを放ったことにベナレスは気づいていた。
ベナレスはそれに気づきながら、慎重に紙面の文章を読む。
『お前の 後ろに 敵がいる』
そこには、規則性のない文章でそう書かれていた。