163話 「託される力」
〈水帝〉ミール=ミュールが魔王たちの前から消えたあと、彼らはリンドホルム霊山の頂上にもう一つ墓を立てた。
誰が何を話すわけでもなく。
かつて百の英霊たちの墓を作ったときと同じように、彼らは彼女の生きた証をそこに刻んだ。
◆◆◆
そうしていくばくかして、魔王たちは後ろ髪を引かれながらも、アイオースへの旅路へ再び発つ。
彼女の言葉と思いを裏切らないためにも、彼らは立ち止まるわけにはいかなかった。
「行こう」
誰よりも最初に踵を返したのはメレアだった。
「メレア様……」
踵を返す前、メレアが目蓋を強く閉じて、悲痛な表情をしていたことにマリーザは気づいていた。
しかし、一度振り向いたメレアの顔にはもうその表情はない。
むしろ、来るときよりも強い決意に満ちた表情がそこにはあった。
「ミールの励ましは優しかった。けれど、だからこそ、その優しさに甘えるわけにはいかない」
「……はい」
すでにその言葉と行動でこの世界にいる魔王たちを救っている。
彼女はそう言った。
だがメレアには、それでよしとするつもりは毛頭ない。
メレアに続いてマリーザも踵を返す。
さらにほかの魔王たちが続々と続いて、最後にリリウムがミールの墓の前に残った。
「……無駄にはしないわ、あなたの思い」
リリウムは真面目な顔でミールの墓に声をかけていた。
すると、リリウムはおもむろに自分の首にかけていた翡翠のペンダントに手を掛ける。
メレアからプレゼントとしてもらったものだ。
「……墓だけじゃ寂しいもの。これで慰めになるかわからないけど」
リリウムはペンダントを外し、そっと墓石にかけようとした。
(待って、お姉ちゃん)
声と呼ぶにはあまりにかすかな音が聞こえたのは、そのときだった。
「え?」
かすかでも、それはまごうことなき彼女の声だった。
◆◆◆
「ミール……?」
(そう。ちょっとだけあの人たちに時間をもらったの。伝え忘れてたことがあって)
まるで頭の中に直接響いて来るかのような声に、リリウムは驚いて目を丸くした。
「待ってなさい! 今メレアを――」
(違うの。あの人には全部伝えたわ。わたしが伝え忘れたのはあなたに対して。〈炎帝〉の末裔である、あなたに)
リリウムはペンダントを持っていた手を止めて、空を見上げた。
「どういうこと?」
(あなたは知らないかもしれないけど、たぶん、わたしたちは従姉妹みたいなものなの。わたしたちの間にはずっと多くの先祖がいるけど、号上の始祖である〈炎帝〉と〈水帝〉は姉弟だったみたいだから)
初耳だった。
(わたしもよく知らなかったけど、『今』ならわかるわ。――聞いてきたから)
「……」
(そうなると、わたしが妹で、あなたがお姉ちゃん。だから、わたしはあなたのことをお姉ちゃんと呼ぶわ。いいよね?)
突然の言葉に驚きながらも、リリウムはうなずいた。
「いい、けど――」
(じゃあ、お姉ちゃんも良かったらわたしのことをミールと呼んで。わたし、お姉ちゃんが出来たらずっとそう呼んでほしかったの。なにげなく、軽い調子で、ミールって。かえってその方が親しげだもの)
嬉しげな笑い声がかすかに混じる。
(それと、ダメよ、お姉ちゃん。そのペンダントはお姉ちゃんがあの人からもらったもの。お姉ちゃんがあの人のために頑張ったご褒美。だから、それはお姉ちゃんが持ってなきゃだめ)
「っ」
ペンダントを持っていた手がびくりと震える。
「でも……」
(優しいのね。だけど、その気持ちだけでいいの)
「……」
(お姉ちゃん、今からわたしの命の力をお姉ちゃんに託すわ。実は、わたしの命を連れてきた水蛇にはまだわたしの『命力術素』が残っている)
「あんた……」
(あのままおしゃべりに費やしてたってしかたないもの。あの人に伝えたいことは伝えた。あの人がこのことを知ったら『それで生きられるところまで生きろ』なんて言いそうだから、あえて黙ってたけど)
リリウムは墓石の裏側に気配を感じて、とっさに裏に回り込んだ。
墓石の裏には、ミールとともに消えたはずの瑠璃色の蛇が、とぐろを巻いて座っていた。
(〈真紅の命炎〉と〈琉璃の命水〉。わたしたちは同じ秘術を使う。――命を司る秘術。お互いに根本になっているのは特殊な製法で作られる固有術素、『命力』。だからお姉ちゃんには、わたしの力が使える。こんなことを言われたら使いづらいかもしれないけど、でも、わかって。わたしはあの人のためになりたい。この命力を使ってあの人の傍にのうのうと居座るんじゃなくて、この力であの人を助けてあげたい。まともな身体のないわたしにはもうそれができないから、代わりにお姉ちゃん、わたしの力をあの人のために使って)
「――」
リリウムは言葉が出なかった。
この少女の愛は本物だ。
それほどに彼女にとってメレアは救いだったのだ。
――本当は、自分で使いたかったろうに。
「……わかった」
(ありがとう)
墓石の裏に座っていた水蛇が首を立たせ、リリウムの足元に近づいた。
リリウムは水蛇を両手で優しく救いあげ、胸に抱く。
水蛇は光の珠になって、リリウムの胸の中に吸い込まれていった。
(あともう一つ)
「え?」
(ほかの女に負けちゃだめよ。わたし、お姉ちゃんにあの人を取られるのなら我慢できるけど、ほかの女に取られるのは嫌だからね。じゃ、がんばってね――リリウムお姉ちゃん)
リリウムは身体に暖かな温もりを感じながら、また空を見上げる。
「……最後の最後に難題を提示するのね、あんた。メレアの周りにいるほかの女を知らないからそんなことが言えるのよ。一回見てみなさいよ。それで、自分で口説きなさいよ。きっと、苦労、するん……だから……」
声が震える。
リリウムは空を見ていられなかった。
誰にも見られないように、仲間たちから背を向けて、一人、両手で顔を覆った。
指の隙間から流れ落ちた涙は、彼女の墓石にぽつりと落ちて、優しくその壁面をなぞった。
◆◆◆
魔王たちは再びノエルの背に乗り、リンドホルム霊山を一気に下った。
世界の中央を横断する行商街道に踏み入り、そこからさらに外れて、人の通れそうにない険しい道を行く。
道中、魔王たちの口数は少なかった。
麓の森林地帯を抜け、険しい渓谷地帯に差しかかる。
メレアはノエルの首元に居座り、ノエルと竜語で会話しながら渓谷の踏破ルートを相談しているところだった。
そのほかの魔王たちはノエルの跳躍に備えて、それぞれ荷物の装着具合をチェックしている。
リリウムもまた、一人後ろ足の方に寄って荷物の紐を締め直していた。
するとそこへ、
「リリウムちゃん」
「ミラ……」
一人の妖女が近づく。
相変わらず胸元が大きくはだけている衣装に身を包んだ、〈知王〉ミラだった。
「浮かない顔ね?」
「そりゃそうでしょ。あんたはあのあとで笑えなんて言うの」
「そんなこと言わないわよ。でも、こうは言うわ」
ミラはひらひらと着物の袖を舞わせながら、リリウムにずいと近づいた。
そのまま手を伸ばし、リリウムの顎に指を添える。
「うつむいちゃだめよ」
くい、と。ミラはリリウムの顎を上げさせた。
リリウムはミラに手を添えられた段階でムッとしていたので、意図的に身体を強張らせていたのだが、ミラの指にはそれを無理やりに動かすほどの力が入っていた。
力の強さに驚いたリリウムはミラの顔に視線を移す。
見たこともないほど真剣な彼女の表情が、そこにはあった。
「リリウムちゃん、あなたがすごく悲しんでいるのはわかるけど、それでもうつむくのは許さないわ。なんでかわかる?」
「わ、わからないわよ」
普段ちゃらんぽらんとしている彼女に、こんな強い語調で迫られたことがあっただろうか。
リリウムは内心の驚きを抑えきれないまま、半ば投げやりに答えた。
「なら、今わかりなさい」
ミラはもう一方の手でノエルの首のあたりを指差した。
ここからでは姿が見えないが、きっとメレアのことを指差したのだろう。
「メレアが何よ」
「リリウムちゃん。今、メレアちゃんはあなた以上に悲しんでいるわ。人の悲しみを誰かの尺度で測るのは愚かなことかもしれないけれど、今回だけは別」
なぜか。
「メレアちゃんの方が苦しいって、リリウムちゃん自身が理解しているから」
「っ」
「悲しむな、なんて言ってないのよ。でも、メレアちゃんがああして前を向いている中で、先にうつむいちゃだめ。メレアちゃんはわたしたちの柱。それを支えるのがわたしたちの役目。だから、支えるはずのわたしたちが先にうつむくのは許さない。メレアちゃんが許しても、わたしが許さないわ」
この女は、いつもふざけているようで、しかしもっとも大切なことを誰よりもよく理解している。
「いつだって一番つらいのはメレアちゃん。そんなこと、あなただってわかっているでしょう? わたしたち『最初の二十一人』は、あの人の決意のときから一緒にいる魔王なんだから」
「……珍しいわね、あんたがここまではっきり言うなんて」
リリウムはやや平静さを取り戻して言った。
「うーん、まあ、今回だけはね」
ミラはリリウムの顎から手を放して、ひらひらと長い袖を左右に振ってみせた。
「金の亡者ちゃんと、サルちゃんがいないから」
「……」
なんとなく、意味はわかる気がした。
「あの二人は、メレアちゃんの『男友達』だから。亡者ちゃんの方はちょっとアレだけど、それでもメレアちゃんの内心と、こういうときの男としての接し方というのは知ってる。実際にそうするか否かは置いておいて、頭では一応理解している、という感じね」
「そうかもね」
リリウムはうなずいた。
「で、大きいのはサルちゃんの方。サルちゃんはメレアちゃんの男としての支え方をよく知ってる。サルちゃんはよく周りを見てるし、メレアちゃんのこともよく見てる。あと、巨大な責任を背負っている人間のことをよく知ってるって感じ。――あ、それは亡者ちゃんの方も同じかぁ。いまさらだけど、あの二人は前にメレアちゃんと同じような立場にいたのかもね。これはわたしの勝手な予想だけど」
言われてみれば、とリリウムは内心で妙に納得した。
あの二人が実務的にも精神的にもメレアの片腕になっていることは疑うべくもない。
彼らはメレアの内心を正確に見抜き、そして的確に支える。
それは彼らがメレアの立っている『魔王の主』という立ち位置と、そこに立っているがゆえに起こる悩みに理解が及んでいるからだろう。
上に立ったことのない人間に、そんなことができるわけがない。
「ともかく、今わたしたちがうつむいちゃだめ。あなたがメレアちゃんを想っているのなら、今この場では悲しみを忘れなさい。自分の感情を隠しなさい。それで、メレアちゃんを支えることだけを考えなさい。想い人が傷ついているとき、それを『無理をしていると悟られずに』支えることこそが、良い女の条件よ」
「……難しいこというのね」
「マリーザちゃんはやってるわ?」
ミラが右側を振り向いた。
リリウムもそれにならって視線を移すと、渓谷の崖際に立って地形を羊皮紙にメモしているメイド服の女が見えた。
「わたし、リリウムちゃんほど有能じゃないし、頭も悪いけど、女としての経験はたぶん上よ。伊達にあなたより長く生きてないから」
ミラがリリウムの方を見直って言う。
「だから、男の、女としての支え方はあなたよりちょっとだけよく知ってる」
でも、それが大きな違い。
ミラは自分自身を茶化すようにつけ加える。
「あたしにアドバイスしてくれるってわけ?」
「おせっかいかしら」
再度、ミラが珍しい表情を見せる。
眉尻を下げた、困ったような笑み。
「……そんなことないわ。知識として、それを知っておくのは必要かもしれないから」
「リリウムちゃんらしい答えね」
ミラは「あはは」と、今度は嬉しそうに笑った。
「ていうか、あんたはそれでいいの」
「どういう意味?」
「い、いや、その――」
リリウムは自分で言っておきながら、あたふたとして次の言葉をぼかした。
「アハハ、意地悪しちゃった」
ミラはその様子を見て楽しげに笑う。
それから少し真面目な表情を浮かべて、言った。
「いいのよ、わたしは。今はいいの。アイオースに行くとなったときから、わたしにはほかに考えるべきことができちゃったから。意中の男をオとすには全力をかけるのが礼儀だけど、今のわたしには生憎それだけの余裕がない」
「それってどういう――」
「リリウム! ミラ! そろそろ行くよ!」
リリウムがくわしく訊ねようとしたところで、メレアの声が聞こえた。
「はーい! 今行くわぁ! ――ってことで、その話はまた今度」
「あっ、ちょっ」
ぴょんぴょんと楽しげに、それでいてどこか艶めかしくメレアのもとへ駆けていくミラを、リリウムは呆然として眺める。
最後に彼女が浮かべた物憂げな表情が、リリウムの目に焼き付いて離れなかった。





