162話 「琉璃色の蛇に誓う」
腹で雪を削りながらやってくる青い蛇に、メレアもほんの数秒遅れて気づいた。
「あれは――」
琉璃色の水で出来ているかのような、半透明の蛇。
メレアの赤い眼は、その蛇が普通の蛇でないことを即座に暴き出す。
〈術神の魔眼〉には、蛇の身体を構成する複雑な術式が映っていた。
◆◆◆
琉璃色の蛇は、疲れ果てたような鈍さでメレアへ近づいていく。
もたげていた首が垂れ下がり、雪をかき分ける身体はよく見ると土にまみれていた。
ここに来るまでに二転も三転もしたかのような身体。
「メレア様、おさがりください」
同じくその存在に気づいたマリーザが、メレアの前に立った。
すでに腰から短剣を引き抜いている。
「待って、マリーザ」
だが、そうして前に立ち塞がったマリーザをメレアが手で制する。
「彼女に敵意はない」
なぜ彼女と言ったのか、メレアにもわからない。
ただ、一目見た瞬間から、彼女が女であることがわかった。
――目が熱い。
だが、その異変などそのときのメレアにとってはどうでもよかった。
一刻も早く彼女を救い上げなければならない。
身体の底から震えが来ている。
何の震えなのかも、メレアにはわからなかった。
『やっと会えた。わたしの王子様』
メレアが駆けだしたとき、瑠璃色の蛇から声があがった。
その場にいた魔王たちは、得体の知れない蛇と、その蛇から可視化された執念のごとく燃え上がる術素の存在感に、息を呑む。
それはきらきらと光る、命の輝きのようだった。
「っ、死ぬなッ!」
瑠璃色の蛇に駆け寄ったメレアの叫びが、その異常な光景に呑まれていた魔王たちの正気を叩き起こした。
◆◆◆
『あはは、せっかく会えたのに、すぐには死なないよ、王子様。――それにしても、わたしの想像以上だなぁ。実物は思ってたよりずっとかっこいいのね』
琉璃色の蛇はメレアの手の中に倒れ込む。
心なしか、その姿が薄くなっていた。
「どうした、何があった」
『意外と驚かないんだね。わたしはこんな身体で、そして今出会ったばかりなのに』
メレアが瑠璃色の蛇を抱え上げて、懐で暖めるように包んだ。
瑠璃色の蛇は心地よさそうに目を細めている。
「俺にもよくわからない。でも、君がとてもつらそうなのはわかる」
メレアの言葉は半分嘘だった。
メレアにはなぜか、彼女がどういう道筋を辿ってここまで来たのかがわかった。
瑠璃色の蛇の中に内包される『術式』を目視したとき、視覚から脳に直接流入するように、彼女の『記憶』が見えたのだ。
『もうつらさなんてないよ。あなたに会えただけで、全部チャラ。まあ、ちょっとだけ疲れたけど』
「名前を、教えてくれ」
若干の落ち着きを取り戻したメレアが、蛇に訊ねた。
『そうだね。まずは名前からか』
蛇はそう言って目を開ける。
そのころにはメレアの周りに仲間たちが駆け寄ってきていた。
そして彼女は言った。
『わたしの名前は〈ミール=ミュール〉。〈水帝〉と呼ばれた、〈魔王〉の末裔だよ』
メレアたちはその日、自分たちの手が届かなかった命に出会う。
メレアの手は――震えていた。
◆◆◆
〈水帝〉ミール=ミュール。
先祖は、かの〈転換期〉に魔王になった英雄の一人。
つまり彼女も、〈魔王連合〉に在籍するほとんどの魔王たちと同じ生まれである。
彼女は、メレアたちがザイナス荒野にてセリアス=ブラッド=ムーゼッグと対峙していたあの日、メレアに導かれた魔王たちに少し遅れてリンドホルム霊山を登っていた。
そこで、運悪くムーゼッグ軍の別働隊に捕まる。
リンドホルム霊山の追加調査に来ていた軍隊だった。
彼女はムーゼッグに連れ去られ、手傷を負ったセリアス=ブラッド=ムーゼッグが回復するまで、ムーゼッグ城の地下に幽閉される。
動きがあったのはつい先日。
セリアスの快癒と同時に、謁見の間に呼び出された。
そこで行われたのは、弱りに弱った彼女の必死の反抗劇。
セリアスから見れば、ただの秘術の捕食。
最終的に彼女は、黒く巨大な手に潰されて死んだ。
――はずだった。
『わたしだって魔王の末裔。ただで死ぬなんて無様は見せられない。だから、わたしなりのやり方で、抗った』
その結果がこの瑠璃色の蛇。
彼女は〈水帝〉の家系に伝わる秘術式〈琉璃の命水〉を使って、自分の命の力をとある一匹の蛇に詰め込んだ。
『最後に使った〈水蛇〉はブラフみたいなものよ。あんまり手を抜くとバレると思ったから、それなりに本気ではあったけど。でも、本命はとっくにムーゼッグ城の地下から排水路とかを通って脱出していた』
しかしそれは、彼女が死を覚悟していたからこそできる芸当だった。
そのことを、メレアではなくリリウムが実は一番よく知っている。
「あんた、それじゃあ――」
『そう。たとえわたしの本体がセリアス=ブラッド=ムーゼッグの気まぐれで生き残ったとしても、一週間もしないうちに寿命で死んだ。あの身体には、もう命の力が残ってなかったから。全部この蛇に入れて、すっからかん』
正気の沙汰じゃない。
そんな言葉をリリウムは呑みこむ。
『でも、やっぱり難しいね。蛇の身体には、人間の身体に入っていた命の力のすべてを入れることはできなかった。入れることができたのはほんの一部。だから今、わたしは消えかけてる』
「あとどれくらい生きていられる」
メレアが言う。
『あと五分も難しいかな』
「そん……な……」
『そんな顔をしないで、王子様。わたしはこれでも満足してるの』
瑠璃色の蛇はメレアの腕に絡まって嬉しげに言った。
『最後の最後に、あなたに会えた。そしてわたしは、あなたに誓った自分の信念を曲げずにいられた。わたしは抗ったの。最後まで、抗えたの』
満足。
そんなわけがない。
その場にいた魔王たちは、彼女の精一杯の強がりに気づいていた。
気づかずにいられるほど、彼らは同じ境遇にいた彼女に対して鈍感ではない。
『ねえ、改めてあなたから名前を聞かせて。いつまでも王子様って、少し変だもの』
「……メレア=メア」
『メレアって呼んでもいい?』
「ああ、もちろんだ」
『ねえ、メレア』
ふと、瑠璃色の蛇はメレアの腕から離れて、みずから地面に下りた。
それからメレアの方を見上げて、続ける。
『あなたの夢を聞かせて?』
「俺の、夢……?」
『そう、あなたの夢』
メレアは少し面食らった様子で停止したが、ややあってから答える。
「魔王という名の意味を、変える」
『うん』
「その前に……虐げられ、救いを求めている魔王を助ける」
『うん』
「あと――」
メレアの言葉が詰まる。
メレアにとって、目の前に彼女を置いての宣言は、胸を締め付けられるようだった。
そんなメレアをじっと見ていた瑠璃色の蛇は、ふっと優しげな声音で言う。
『あなたは強くて優しい人。こうしてわたしを前にして、それでもその夢を語った。それはあなたの強さを表している。そして一方で、わたしを前にして言葉を詰まらせたのは、わたしを救えなかったことを悔いているから。今でもなお、わたしをどうにかして救おうと苦悩しているから。あなた、やっぱりわたしの王子様だった』
「っ、ち、違う! 俺はッ――!!」
ついに、メレアが押さえこんでいた自分への怒りを発奮するように両手を地面に叩き付けた。
「君をっ……! 救えなかった……!」
叩き付けた握りこぶしの内側から、血が滲み出す。
『違うよ。わたしはあなたに救われてる。これはあなたへの気遣いから来る言葉じゃない』
瑠璃色の蛇が、メレアの手の内から滲み出す血を舌ですくい取って言った。
『あなたは今でも、わたし以外のここにいない魔王たちを救っている。あなたの言葉と行動は、少なからず世界の魔王たちの心を勇気づけている』
「でも、死んだらだめだ。死んだら、すべて終わってしまうじゃないか」
『とてもムーゼッグを相手に真正面から戦いを挑んだ人とは思えない言葉よ、メレア』
蛇は笑った。
『人はいつか死ぬ。でも、その死に当人が満足できたとき、それは安穏とした生以上の輝きをもたらしてくれることもあるの』
「それでも、死んだらだめだ」
『あはは、頑固なのね。子どもみたい。でも、そんなところも好き』
と、不意に蛇の身体がまた薄くなった。
『ああ、そろそろこの身体もダメみたい』
「待って、待ってくれ」
蛇の身体が光に包まれる。
その身体は細かな粒子になって、ふわふわと浮いた。
すると、
『最後に、人の形であなたを抱きしめさせて』
光の粒が、人型を象る。
それは少女の姿。
彼女の最初で最後の柔らかな笑みを、メレアは目に焼き付けた。
そして彼女は、そのままメレアを両腕で優しく包み込む。
『あったかい』
「ミール……」
メレアは震える唇で、彼女の名を呼んだ。
赤い瞳には涙が浮かんでいた。
『嗚呼、空におとぎ話の中の英雄たちが見えるの』
瑠璃色の光に包まれた少女は、メレアを抱きしめたまま空を見ていた。
『みんな、とても優しそうよ』
「……」
『こっちに手を振ってるの』
「……ああ」
『わたし、あの人たちと一緒に空からあなたを見ているから』
「…………ああ」
『大丈夫。あなたは前に進める』
「……うん」
彼女の身体が薄くなる。
光がぱちぱちと弾けながら、一つ、また一つと姿を消した。
そして――
『それじゃ、さようなら、メレア』
「――」
彼女は再び光の粒になって、空に昇る。
その光景は、メレアの中でかつて見た英霊たちの消えざまと重なった。
伸ばした手は決して届かないとわかっている。
それでもメレアはまた――
「――」
その手を伸ばした。
「俺は……」
自分が救えなかった魔王。
彼女の姿も、柔らかな笑みも、そしてその言葉も。
「絶対に、君を忘れない」
だからどうか――
そしてせめて――
「――安らかに」
メレアは伸ばした手を握る。
何かを決意するように、その手を胸に抱いた。
彼女が〈魂の天海〉で安らかに笑えることを、ただ一心に、願っていた。