158話 「英霊の子と白鈴旅団」
「じゃあ、そのときは任せた、シャウ」
「御意のままに」
ちょうどリリウムがミラと会話をしているとき、メレアはシャウの部屋で机の上の地図とにらめっこをしながらそんな言葉を発していた。
「それにしてもこの飲み物おいしいな。甘くてまろやかだ。とろとろした触感も独特でくせになる」
メレアが片手に持った金色のカップからは、湯気が立ち昇っている。
「〈シーラの樹〉という樹木から取れる実を、砂糖と一緒にすりつぶしてお湯で割ったものです。〈シーラ・ミルク〉と呼ばれる南大陸の都市国家の名産ですね。今はあまり流通していませんが」
「仕入れてきたの?」
「交易品とはまた別です。――まあ、一応この城の魔王たちにもお土産をと思いまして。私はだいぶ自由に動かせてもらっていますからね。せっかく外に出ているのですから、中にいることの多い――あるいはいなければならない――者たちの娯楽にと思いまして」
シャウがわずかに口角をあげて言った。
「正直に言うけど、シャウにしては珍しいな」
「ハハ、これもまた金のためです。というのも、彼らが娯楽を得ることによって気分が紛れれば、結果的に生産性は増すでしょうからね。適度な休息と気晴らしの娯楽は、労働生産性の向上に繋がるのです。これは私がまがりなりにも商会というものを率いてきた経験則ですが」
「不思議と含蓄のある言葉だ。覚えておこう」
メレアはまた一口シーラ・ミルクを口に含んだ。
それからカップを机に置き、再度引き締めた表情を浮かべる。
「実際のところ、サイサリスを説得することはできるかな」
メレアの問いに、シャウは足を組みながら椅子の背にもたれかかって答えた。
「どうでしょう。どういう説得をするのかにもよりますが、今のサイサリス教皇が私の想像以上に偏屈になっているとすれば、苦労はするでしょうね。新派サイサリスが誕生してからなんだかんだと時間が経っていますが、今の教皇はどうにも新派サイサリス勃興期の教皇より性質の悪いものに思えてならない」
「勃興期の教皇は偏屈だったの?」
「……」
シャウはそのメレアの問いにわずかに眉をしかめた。
それから小さく息を吐いて、しかたないというふうに言う。
「メレア、今さらなんですけど、あなたは私が何かしらサイサリスと関係があると思っていますよね」
「うん。今はどうかわからないけど、昔に何かしら関係があったんだろうなぁ、とは思ってる」
即答である。
「一応、みんなには言わないようにしてるけど」
「もしかして今回私をサイサリス班に置いたのも、そのあたりの事情が絡んでます?」
「うん」
隠すつもりなど毛頭ないと言わんばかりの即答。
「……おかしい。これでもそれなりに真面目に隠してきたつもりなんですが」
「そうなの? シャウは結構わかりやすいよ。『金が絡んでいないとき』は」
「――」
シャウ自身メレアにそんなことを言われて、驚いたようだった。
そういうことか、と自分をまざまざ客観視するように、今度はじっと動きを止める。
「でも、ほかのみんなは気づいてないんじゃないかな。……いや、もしかしたらサルマーンは気づいてるかも。一緒にヴァージリアに行ってるし、行きの馬車内での会話とかから勘付いてる可能性がある」
「ああー……、サルくんは鋭いですからねえ」
シャウはヴァージリアでサルマーンと真っ向から視線を交わしたときのことを思い出す。
メレアがジュリアナ救出のために動いている傍ら、近くのくたびれたカフェで少しやり合った。
あのときのサルマーンの目は、シャウには少しおそろしかった。
本能的に、まるで獣のように、目の中の本心を見抜かれるかのような視線。
数少ない『金でどうにもならないもの』のうちの一つが、あの男のまっすぐな目だ。
「でも、すべては訊かないよ。シャウから言わないかぎりは」
そしてもう一つ、この男の目。
こちらを一つも疑っていないまっすぐな目。
自分ですら自分のことを怪しい男だと思うのに、なおその怪しさをすら呑みこむ深い赤の瞳。
「……いつかは言おうと思っています。たぶん、そのことにある程度のケリがついたらになると思いますが」
「それでも構わない。ただ、もしケリをつけるのに俺の手が必要なときは言ってくれ。たぶんシャウは一人でケリをつけようとしているんだろうけど、それでシャウの身が危うくなるようなら、そのときはごめん――俺は無理やりにシャウの秘密へ踏み込むよ。サルマーンもそうすると思う」
「そうならないように善処します」
まったくもって敵わない。
ここの魔王たちは、本当におせっかいが多い。
「じゃ、ともかくサイサリス側のかじ取りはある程度シャウに任せる。サルマーンもそれでいいと言っていた」
「わかりました」
「ちなみに〈シーザー〉とは連絡取れそう?」
ふと、メレアが彼女の名を口に乗せる。
芸術都市ヴァージリアで、あの逃走劇をともにした妖艶の道化師。
「どうでしょう。現時点ではなんとも。シーザーがサイサリス教国内でどういう立ち位置にいるのか、私もくわしくは知りませんから」
「そっか。無事だといいな……」
メレアは物憂げな視線を部屋の窓へ向ける。
外は快晴だが、メレアはそこに明るい景色以外のものを見ているようだった。
「大丈夫でしょう。彼女は世渡りがうまいですから」
「俺よりずっとね」
メレアが少し嬉しそうにうなずく。
「では、私もそろそろ準備に取り掛かります。〈黒鈴旅団〉の方にも声をかけなければ」
そこまで言って、シャウは自分の言葉を否定するように首を振った。
「いえ、今は〈白鈴旅団〉でしたね」
ヴァージリアから戻ってくる途中に出会った野盗の集団。
ハーシムによって〈魔王連合〉の手足となることを言い渡された彼らは、その象徴たる黒い鈴を捨てた。
黒鈴旅団の長であるアーカム=シュトラウスが、なによりも捨てたがっていた鈴である。
あの黒い鈴は、今色を変え、まったく別の象徴として、彼らの腰ひもに結ばれていた。
「アーカムは『良い転機になった』と言っていたよ」
「彼らにまた会ったのですか?」
「そりゃあね。夜になると地下から生きた屍のようなうめき声が聞こえてくるから。『もう書類を見たくない……』『数字が頭から離れない……』『紙の束に殺されるぅ……』って……」
「ハハ、彼らにはまずお勉強をしてもらわねばなりませんからね。今は地下のお勉強部屋でいろいろなことを覚えてもらっています」
シャウが楽しげな笑みで言った。
「せっかく百人もの元気いっぱいな駒が手に入ったのですから、今のうちにさまざまな仕事に対応できるようしっかり鍛えなければ。まずは事務仕事の基礎。ここのところは商取引の書類を教材にしてそのあたりを叩きこんでいます」
「俺は間違っても巻き込まれたくないな……」
メレアがげんなりとした表情で言う。
「〈商会〉単位の話だと、拠点とする地域や構成民族の違いによって、扱う書類にもさまざまな様式の違いがあります。実のところこれは国家間の書類のやり取りでも同じことですが、基本的にそういう細かいところを相手に合わせるのが礼儀にもなる。ここを甘く見ると、商談というものは簡単に破断します。信用を得る余地がなくなるのです」
メレアは手の指で両のこめかみをぐりぐり押しながら話に聞き入る。興味こそありそうだが、どことなく辛そうだ。
もしかしたらその様式を覚えるという作業を想像して、気が滅入ったのかもしれない。
「なので彼らには世界中のめぼしい商会の取引様式を覚えてもらいます。そのあとで政治的なセンスのある者に、同じく政治的な文書の様式を覚えてもらいます。これらの処理を能動的に行えるようになると、魔王連合単体で動ける範囲が大きく広がります。そのほかにも交易物品の処理の仕方、情報の整理術、実地で情報を得るためのノウハウと、長距離飛脚の訓練。いやぁ、覚えてもらうことはいろいろありますね」
メレアが「うわぁ……」とヒき気味に顔をしかめた。
「今回の事件を機に、彼らもまともな人生を歩もうとしているようですから、私もそのお手伝いをと思いましてね」
「忙殺して洗脳しようとしているようにしか見えない」
「何言ってるんですか、そんな悪辣なことはしませんよ。そもそも洗脳する必要なんてありません。彼らの中には望んでメレアの役に立とうとしている者もいたくらいですから」
「ん? どういうこと?」
「あなたが〈風神〉の術式を使ったことが、意外と大きな要因になっているようですよ」
いまいち意味がわからない。
メレアは首をかしげた。
「〈風神〉はかつて西大陸でいくつかの国を救ったと言われています。そして〈白鈴旅団〉の構成員には、その西大陸出身の者が多いんです。彼らは野盗で、ある意味普通の世俗とは違う価値観の中を生きてきましたから、〈魔王〉に対する偏見もさほど強くはない。まあ、このあたりは今にはじまったことではないので、まったくないとは言いませんが、近頃のムーゼッグによる情報誘導等の影響はあまり受けていません」
「つまり?」
「彼らにとって、特にかつて〈風神〉によって救われた国の出身である者たちにとって、あなたは〈英雄〉のように見なされているのです。――いえ、正確には『英雄の生まれ変わり』、でしょうか。子どものころに憧れた書物の中の英雄が、目の前に現れたような感覚なのでしょうね。たしかにあの〈黒風〉の術式は、〈風神〉のほかに誰かが使ったという話を聞いたことがありません」
シャウの言葉に、メレアはきょとんとした。
「とはいえ一番大きな要因になったのは、やはり個々人の感情にまつわるものでしょうか。たぶんあのアーカム=シュトラウス以外にも、野盗であることに疲れていた者は多くいたのでしょう。そんな彼らにきっかけを与えたあなたは、ある意味『心の救世主』でもある。――ああいう裏の稼業から五体満足に足を洗うのは意外と難しいものです。さらにこうしてまともな住居まで得られた。おそらく彼らのみでハーシム陛下に頼み込んだとしてもこうはならなかったでしょう」
「そうかなぁ」
「そうです。私たちという中立的な組織がちょうどよく内部に存在していなければ、ハーシム陛下といえどレミューゼの民に直接的な害をなした彼らをそのまま登用したりはしなかったでしょう。民を前にして無視できない建前がある。はっきり言って彼らは――『運が良かった』。そしてそのことを彼ら自身が一番良く理解している」
「……まいったな、ずいぶん都合よく解釈されてる気がする」
苦笑しながらつぶやいたあと、メレアは大きく息を吐いた。
「まあ、そう思ってくれることは素直に嬉しいと思う反面、ヴァンに弱みを一つ握られた気がしてどうにもそわそわする」
「そうなのですか?」
今度はシャウが不思議そうに訊ねた。
「うん。ヴァンはこういうとき、『お前、まんまと俺の手柄を利用したな?』って悪戯っぽく俺のことを突っついてくるタイプだから」
「なるほど。なんだかあなたに似ている気もしますね。子どもっぽさが」
「俺はフランダーの次にヴァンとも多く話をしていた。だから似ちゃったところもあるのかもしれない」
その言葉にシャウはまた一つうなずく。
「彼らにはまだあなたのその不思議な話を信じる余裕はないかもしれません。しかし、いずれ話してあげると喜ぶでしょう。西大陸の人間は義理に篤いものが多い。先祖代々伝え聞いた〈風神〉の英雄像を、今でもなお信奉している者はいる」
「いいタイミングを見つけたらいずれそうしよう。今の彼らは書類に殺されないようにするのに精いっぱいみたいだからね」
そう言ってついにメレアが席を立った。
「じゃあ、サルマーンのところに行ってくる。そしたら今日は晩餐会だ。〈白鈴旅団〉のみんなにも、隣室を使って食事をするよう伝えてくれ」
「御意のままに」
「最近それ多いね」
メレアは踵を返す間際、シャウの言葉遣いを笑いながら指摘した。
「――昔、聞くことが多かったもので」
意味深な言葉を返し、シャウもまた楽しげに笑った。