156話 「再動の寵児」
セリアス=ブラッド=ムーゼッグは、玉座に深く座ったまま、眼下で潰れた肉塊をぼうっと眺めていた。
半ばで身体のちぎれた瑠璃色の蛇が、肉塊の傍で虚しくもがいているのが見える。
健気なものだと、他人ごとのように思った。
「殿下、〈水帝〉の秘術の方は――」
「『見た』。やはり〈炎帝〉の〈真紅の命炎〉とよく似たものだ。理論は使えないこともないが、固有術素を必要とする。おそらく〈命力術素〉だろう。――〈炎帝〉と〈水帝〉は姉弟であったという説があるが、あながち本当だったのかもしれんな」
「では、〈琉璃の命水〉は外れですか」
「命力術素の生成方法がわからん。おそらくこの娘もそれだけは死んでも口を割らなかっただろう。秘術式を奪われるところまでは覚悟していたようだが、肝心なところは守った。――無駄にできた女だ」
セリアスは玉座の上でフードを剥いだ。
灰色の髪がさらりと舞う。
「まあいい。〈悪神の左腕〉はよく動いた。それをひとまずの収穫としよう」
セリアスは左上の『空間の穴』から伸びている巨大な黒い腕を一瞥して、言った。
直後、その禍々しい腕は再び空間の穴に引っ込んでいく。
まるでそれ自体が意志を持って動いているかのようだった。
さらにセリアスは、マントに隠れていた自分の左腕を掲げ、まじまじと見る。
「我ながら気味の悪い腕だな」
セリアスのその左腕は、真っ黒だった。
おびただしい量の術式言語が刻まれ、それが淡く明滅している。
それは少なくとも人の腕には見えなかった。
「右腕の所在はわかったか?」
同じくその腕を見て訝しげな表情を浮かべていたミハイに、セリアスが訊ねる。
「いえ、まだ情報はありません。その左腕の方も、奇跡的に黒い競売にかけられていたのを見つけただけなので……」
「探せ。できるかぎり多くの部位を。〈悪神〉の身体は武器になる。史上最悪の怪物になったと言われている最古の悪徳の魔王の力は、戦乱の時代にこそ輝く」
「……殿下、私は〈悪神〉の方もですが、眼の方も気になります」
するとミハイが、珍しくセリアスの問いに即答せず、逆に訊ねた。
ミハイは青く染まったセリアスの眼を見ていた。
「『これ』か。……案ずるな、ミハイ。この眼は私によく馴染む。これは奪ったものではないからな」
セリアスは両のまぶたをまだ肌色を保っている右手で軽く撫でた。
再びセリアスが目を開いたとき、その青い瞳には術式紋様が浮かんでいた。
「もう〈術神〉の眼に焦がれる必要はなくなった」
その術式紋様は、メレアの持つ〈術神の魔眼〉の紋様とよく似ていた。
「それは片づけておけ。もう必要ない」
「殿下、ではアレはワタシが頂いてもよろしいでしょうか」
セリアスの問いに答えたのは、ミハイではなく〈死神〉ネクロア=ベルゼルートだった。
ネクロアは血の匂いが漂いはじめた中でも、顔色ひとつ変えず楽しげな様子である。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
ネクロアは深々と一礼して、玉座の階段を下りていった。
肉塊の傍によると、片手で術式を描いてあの翡翠色の霊体骸骨を呼びだす。
続々と現れる骸骨たちは、肉塊になった〈水帝〉の身体を一つ一つ拾い上げていった。
「気味の悪い光景だ。〈腐敗の森〉の忌むべき〈死体拾い〉どもを思い出す」
ミハイがその光景を見て顔をしかめながら吐き捨てた。
「〈死体拾い〉か。あの異形どもも使いようによっては戦力になるかもな」
「殿下、ご冗談を。あれは人間の形をしていますが、本質はまったく別のものです。人語すら解しない下等な生き物ですよ」
「だからいいのだ。余計なことを考えない。やつらはただ死体を貪る。あるいは、死体になりかけのものを。敵の疲弊した戦力にとどめを指すには存外有用かもしれん」
「ムーゼッグの品位に関わります」
「ハハ、珍しく私の意見にはっきりと否定の意を示したな、ミハイ。それほど嫌だということか」
ミハイはばつの悪そうな顔でうつむいた。
「――わかっている。私もまだそれほど品性は捨てていない。さすがの私も、〈暗黒戦争時代〉の二の舞は御免だからな。戦が無秩序になれば、ムーゼッグにとってはかえって悪影響になる」
セリアスに言われて、ミハイは心底安心したようにホっと息を吐いた。
「ミハイ、ネクロアがあれを片づけたら高位武官たちを呼べ。『例の作戦』の打ち合わせをする」
「は、御意に」
「そのあとで父のところへ参上するぞ。今回は父も大々的に動くゆえ、より万全な準備が必要だ。ひとまず面会のための正装を用意しておけ。私とお前の分だ。選択は任せる」
「かしこまりました」
久々にセリアスの正装が見れる。
近頃は動きやすさを重視した服装ばかりで、王族らしい服を着ていなかった。それでも十分に高貴かつ雅やかではあったのだが、やはりどこか物足りない。加えて、このフードのついた黒いマントをよく羽織るようになった。そのフードを目深にかぶって、目元や表情を隠すことが増えた気がする。
ともあれ、ミハイはセリアスの言葉に浮足立った。
弾むような歩調で、階段を下りていく。
「……お前は私こそを魔王だと言うのだろうな。――メレア=メア」
しかしミハイが肉塊の傍を過ろうとしたとき、不意にセリアスの方から小さくそんな言葉が聞こえた気がして、少し、心が重くなった。





