155話 「とある少女の夢」
わたしの一生は、たぶん世間一般的な人の一生と比較すると、それなりに悲惨なものであっただろう。
わたしの一生を大いに彩ったさまざまな不幸が、わたし自身の行いによって招かれたものであるのなら、まだ納得はできたが、その大半は、世の事情と自分ではどうすることもできない生まれゆえにやってくるものだった。
――でも、最近はやっと、この一生を愛せるかもしれないと思えるようになっていた。
父と母の思い。
祖父母の願い。
遠い先祖たちの矜持。
今の時代では重荷になってしまうそれらを憎むこともあったけれど、彼らには彼らの考えがあったのだ。
わたしは世界の歴史というものを学ぶにつれて、憎しみしか抱かなかった彼らの高潔な矜持に、誇りを持てるようになった。
――かつて英雄と呼ばれた者たちの行いを、決して間違っていなかったと、『あの人』が言ってくれたから。
きっかけは、東大陸で起こった〈ザイナス戦役〉にある。
亡国間近だったレミューゼ王国が、今やもっとも世界の覇者に近いと言われるムーゼッグ王国に抗った戦争。
〈ザイナス荒野〉が幾多の戦士たちの血で赤く染まったあの日、わたしはリンドホルム霊山の外縁を歩いていた。
――かつての英雄たちの墓が、あの山の天辺にあるって。
誰が言ったのだろうか。
うわさ話だ。
わたしには仲の良い友人もいないから、そういう与太話を聞くには街に出て耳をそばだてるしかない。
ともあれ、そんな真偽も不確かな話を聞いて、わたしはリンドホルム霊山に登ってみようと思った。
霊の住まう山に登ったからといって、何か答えが得られるわけではないだろうと冷めた頭で言い聞かせていたが、身体の方はそこに何かを求めるように、一歩を踏み出していたのだ。
――あそこですぐにレミューゼ王国へ向かえば良かった。
ザイナス戦役の情報が世界に広まってまもなく、〈白神〉という号が耳に入った。
なんでも、ザイナス戦役でレミューゼ側について、かの国に勝利をもたらした〈魔王〉であるらしい。
白い髪に赤い瞳。
その人はリンドホルム霊山から黄金の船とともに下りてきて、魔王を虐げる世界を作り上げたムーゼッグに対抗した。
まるで、かつての時代の英雄たちが、今の歪んだ世界を正すために使者を送り込んだかのよう。
――どんな顔をしていたのかな。
きっと格好いいに違いない。
わたしはずっと、その人に会いたかった。
彼がムーゼッグの王子――〈時代の寵児〉と呼ばれる〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉に、〈魔王〉であることを臆面もなく誇ったという話を聞いてから、ずっとずっと、会いたかった。
――彼ならきっと、わたしのこれからの一生を、もっと誇れるように彩ってくれただろう。
だからわたしも、そんな彼のために、力を貸したいと思っていた。
たぶんわたしは――まだ見ぬ彼に恋をしていたのだ。
でも――
「顔を上げろ、〈水帝〉。殿下の許しが出た」
きっとわたしの恋は、ここで終わる。
◆◆◆
黒を基調とした荘厳な広間。
高い天井に、金の刺繍が施された巨大な赤カーテンが垂れている壁。
広間の床には同じく豪奢な絨毯が敷かれていて、それが奥――階段の上に鎮座する玉座のような椅子まで繋がっている。
その椅子の裏側には、ムーゼッグ王国の紋章が刻まれた黒い垂れ幕が吊り下がっていた。
「ケハッ、死んだら綺麗になりそうな顔ですねぇ」
顔をあげると、最初に玉座の手前の階段の中段に立っている銀髪の男が映った。
不気味なまでに白い顔と、腰にまで届きそうな長髪。
長い前髪の隙間からのぞく目は、ひどく生気が薄い。
「貴様の玩具じゃない。黙ってろ、〈死神〉」
すると、その男より二段高い場所に立っていたもう一人の男が、わずらわしそうに言った。
こちらは高貴な空気が漂うものの、銀長髪の男よりずっと人間らしい。
歳もまだ若く、少年に近い印象を受けた。
「おや、コワイコワイ」
「ヴァージリアでの一件を忘れるなよ。殿下の寛大な許しがなかったら貴様こそ死んでいるんだぞ」
金糸のような髪を持った少年は、妖しく笑う銀長髪の男を睨む。
その目はとても味方を見るような目ではなかった。
「いい、ミハイ」
「――は、失礼いたしました」
すると最後に、玉座のあたりから声が聞こえた。
目線をあげると、黒い宝石のようなもので作られた玉座の上に、フード付きのマントを羽織った男が悠然と座っているのが見える。
フードを目深にかぶっていて、表情は窺えない。
わずかにフードの隙間から垂れる髪は、灰色だった。
「〈水帝〉。お前はなぜ自分がここに呼ばれたか知っているか」
フードの奥から、また声が来た。
「――わたしを殺すため」
「違うな。間違ってはいないが、正解でもない」
玉座の上の男は言った。
「お前の術式を喰ったあとで、殺すためだ」
「さして違いはないじゃない」
「いや、大いに違う。お前を殺すだけが目的なら、とっくに殺していた」
フードの奥から眼光がのぞいた。
ひどく冷たい青の光が見える。
不覚にも、その光を美しいと思った。
「つまり、貴様が少しでも長くこの世に生きていられたのは、私がそういう選択をしたからだ」
「……何が言いたいの」
「人の命はかくも軽い。尊厳もまた同じく」
そう言ったときのその男の目は、どこか虚ろだった。
見間違いでなければ、たぶん。
「だが、そういう儚く脆いものに、人は夢を見る。理想的な偶像や虚像に、夢を乗せる。ただの一人の人間の命など、こんなにも脆いものだというのに」
「たしかに命は脆い。けど、脆いからといって軽く扱われていいものじゃない」
そんな脆い命が、されどほかの人を照らす。
脆いからといって、人は何もできないわけではない。
ほかの誰かを、幸せにできる力がある。
「〈魔王〉らしくない言葉だ」
男は言った。
その意味は、なんとなく理解できた。
〈魔王〉は、人に絶望しやすいから。
「なら、足掻いて見せろ。人の命が軽く扱われるべきものではないと、証明して見せろ」
言われなくても。
わたしは足掻くつもりだ。
あの人の言葉を又聞きしたときから、そうしようと決めていた。
「わたしはあなたに噛みつく」
せめてほんの少しでも、あの人の役に立ちたい。
たとえ敵わないとわかっていても。
ここでただ諦めて死ぬのは、今のわたしには耐えられない。
だから――
「行きなさい、〈水蛇〉!」
床に術式を展開する。
無数の半透明な蛇が、床から湧き出た。
瑠璃色の水で造形された蛇。
それらは本当に生きているかのような動きで床を這い、玉座の上からこちらを見下ろすあの男に迫る。
わたしはあの男――〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉を見上げた。
「――」
直後。
「『用済み』だ」
水の蛇たちは、わたしもろとも、その男の左上の空間から突如出現した赤黒い巨手に――
「――あ」
潰された。
「――」
――人の命は、かくも軽い。
意識が途切れる間際、嘆くような彼の声が――聴こえた気がした。