151話 「パラディオンの狂書」
それから間もなくして、星樹城内にいた魔王たちがサーヴィスたちに連れられて大広間にやってくる。
魔王たちは大広間に入るやいなや、中の空気が微妙に重いことに気づいて小首をかしげた。
「どうしたよ」
最初に大広間へ足を踏み入れて、玉座の下の階段にどっと腰を下ろしたサルマーンが言った。
サルマーンは二人の〈トウオウ〉をちらと見たが、そのあたりの事情はあらかじめサーヴィスたちから聞いていたのか、さして大きな反応は見せなかった。
「ある意味、私たちがここに来て一番大きな問題が起こったのよ」
「大きな問題?」
サルマーンはリリウムの言葉を受けてまた首をかしげる。
それからわざとらしく指を折ってこれまでに起こった問題を数えるが、結局両手の指がすべて塞がったので、ため息とともにその仕草をやめた。
「俺たちが抱えてる問題の数々は優に俺の両の指を超えるわけだが」
「そういうものを全部ひっくるめても、今回のは最大級なのよ」
「ほう。聞きてえような、聞きたくねえような」
聞かねえわけにはいかねえんだがな、と付け加えて、ついにサルマーンは真面目な表情でリリウムを見た。
そのころにはほかの魔王たちもぞろぞろと大広間に入ってきて、各々適当な場所に座りはじめる。
ほんの一部、国外に遠征に出ている〈知識〉の面子と〈財布〉の面子を除けば、そのほとんどが大広間に集まっていた。
「で、何があった」
魔王が揃ったことを確認して、サルマーンがリリウムに訊ねた。
「……メレアに異変が起こったのよ。たぶん、当人すら予想だにしない変化が」
リリウムが重い声で言う。
サルマーンが玉座にいたたまれない表情で座っているメレアを見上げた。
「メレア自身が予想だにしない変化ってことは――」
サルマーンがメレアから視線を切りながら言う。
「かの〈英霊〉たちも予想してなかった変化か」
「たぶんね」
英霊、という言葉にメレアが眉をあげる。
自分より先にその言葉を使ったサルマーンやリリウムに、少し驚いているようでもあった。
「なに目ぇ丸くしてんだ。いいか、お前の親である英霊たちはな、たしかに鍛練やらではかなり厳しかったようだが、だからといって息子に関する危機を放っておくやつらじゃねえ。ていうかぶっちゃけ過保護だ。必要に際して厳しくはなるが、根底にあるのはお前に対するあり余る愛情だ。お前の話を聞いてりゃ誰だってそう思う」
サルマーンが「やれやれ」と肩をすくめながら続ける。
「特に〈術神〉なんかはな。お前から話を聞いてるだけなのに、それがありありと伝わってくるくらいに〈術神〉は過保護だ。だから、そんな英霊たちが、リリウムが『これはヤバい』と思うような危機をあえて黙って放っておいたわけがねえ」
サルマーンの言葉に、リリウムがうなずいた。
「英霊たちは俺たちよりよっぽど頭が切れただろう。未来に起こり得るお前の身体の異変も、ある程度予想はできていたと思う。だから、今回のその変化ってやつに、メレア自身思い当たる節がねえってんなら、それは英霊たちですら予想してなかった異変ってことになる。――つまるところ一番ヤバい異変だな」
そのあたりで、サルマーンはようやく事態の重さを実感しはじめたように片手で額を押さえた。
「あー、くそ、なるほどな。すごすぎてもダメってことか。お前はどんな病にもかからねえし、大抵の傷ならすぐ治る。だからそういう体調の悪化に関しての心配はさほどしてなかった。でも逆だ。お前は現在進行形で『進化』する。進化の過程で何かしらの問題が起こることもあるってわけだ。完全に失念してたぜ」
すると、そのあたりで別の魔王が声をあげた。
「理屈はいい。まずはメレアに何が起こったかを聞かせてくれ」
〈剣帝〉エルマだ。
エルマはサルマーンとリリウムの会話をきょとんとして聞いていたが、徐々にサルマーンの言葉から事態の重さを把握して、表情を険しくさせていた。
「……メレアの眼から、『金色の涙』が流れたわ」
「金色の涙?」
「そう。それと――」
リリウムが言おうとして、今度はメレアが自身で説明を加えた。
「視界に入るものすべてに、〈術式〉が見えた」
「術、式」
視界に入るすべて。
エルマは術式をほとんど使えない。ゆえに術式に関する知識は術師である魔王たちより薄い。
それでもその状態がいかにすさまじいものだかは理解ができた。
次のメレアの言葉が決め手だった。
「人間にも」
「――」
人間に式がある。
その事実にまずエルマは衝撃を受けた。
世の事象はすべて式で表現される。それはこの世界の術師がまず前提として叩きこまれる世界の摂理であるが、まさか人間という存在にまでおよぶ言葉だとはさすがに予想していなかった。
「俺にとっても衝撃だったから、一瞬しか見なかったけど、たしかに人間に式があった。ただ、すぐに解読できるようなものでもない。英霊たちの大術式と比べても、あれはあまりに複雑だった」
「それに、常に変動しているようにも見えた」メレアはそう付け加えて、力なく笑った。
「もともと生き物を司る術式はかなり複雑なのよ。私の〈命炎〉もそうだけど、意思とか、流動性のある身体だとか、そういうものを式で表現しようとすると変数式が膨大になる。それが人間ともなれば命炎とは比較にならない複雑さを持つでしょうね」
リリウムが補足した。
「でも、メレアならもしかしたら多少解読できる部分もあったかもしれない。メレアは英霊たちに莫大な量の術式を読ませられてきたから」
ふと、リリウムが玉座に座るメレアを見上げた。
「だからあんたは目をそむけた。見てはならない内側を見てしまうような気がして」
「……」
メレアはリリウムのその言葉に目を瞑った。――それが答えだった。
「あれは見てはならないものだ。見ていてとても気持ちが悪くなるものだった」
「今さらだけど、私は似たような術師を見たことがある。見たことがあるっていうと語弊があるけど、そういうことをしようとした術師を知っている。――書物の中で」
それもまた夢物語にたぐいされるものだった。
「昔から世界の真理だとか、神の実存だとかを追い求める術師はある一定数存在していた。世の事象のすべては式で表現できる、なんて言葉が太古からずっと残っているくらいだから、当然そういうものに目をつける術師はいる。術師は基本的に知に貪欲だからね。ただ、そういうものを思い求めるのが禁忌とされた時代も多い。特に、神に拠り所を強く求めた時代はそうだった」
たとえば暗黒戦争時代。
世が荒れている時代は、人間はとかく絶対的な何かに心の拠り所を求めたがった。
そうでもしなければ心が壊れてしまいそうだった。
「一方で、合間合間の平和な時代にはそういう『馬鹿なこと』に全力を注いだ術師がいた。たしか――」
リリウムが頭の中の古い書庫を開くような仕草を見せる。目を瞑って、深く考え込むように頭をもたげた。
「〈パラディオンの狂書〉だったかしら。当時の、特に奇人とされた術師の預言書みたいなものね。かなり言語レベルが怪しい書物だったけど、その中に人間の式を求めたっていう記述があった気がするわ」
「それにはなんて書いてあったの?」
メレアが興味深そうにリリウムに訊ねた。
しかしリリウムはその問いに首を振った。
「あたしもあんまり覚えてないのよ。さっきも言ったけど、そもそも言語が怪しくてね。標準語で書かれているはずなんだけど、単語とか文法がとにかくめちゃくちゃで。だから狂書なんて呼ばれてるんだけど」
「誰も解読できてないの?」
「一部の物好きのおかげで多少は解読されてるわ。でもそもそもの内容が馬鹿みたいなものだから、物好きにもあんまり人気がなくてね。何が書かれているのかってことに関しても、実際のところはほとんど解読が進んでない。解読されてる部分はどうでもいい日記とか、そういう部分だけ」
「そっかぁ」
メレアは少し残念そうに息を吐いた。
「でも、人間の式を求めた術師たちの中では、パラディオンが一番それらしいかもしれない。ほかの術師は狂ってるふうを装ってる目立ちたがり屋だとか、いかにも世の真理を求めてるふうを装いたい気取り屋ばっかりだから。書いてあることはいたって平々凡々なことばかりだったわ」
「リリウムはそういう本も読んだんだ?」
「一応よ、一応。……暇な術式講義とかあったから」
悪戯っぽく訊ねたメレアに、リリウムは少し口を尖がらせて答える。
「ん、てことはそういう書物はアイオースにあったんだ?」
「そういうこと。――で、ここからが本題」
リリウムが人差し指を立てた。
「なんだかえらく脱線しちゃったけど、もうあたしが言いたいことはわかるわよね?」
「まあ――なんとなくね」
言いつつ、メレアはわかっていた。
なぜリリウムがここに来て〈パラディオンの狂書〉などという代物を持ち出してきたのか。
なぜそれがアイオースにあることを言葉の端に匂わせたのか。
まったくもってリリウムは頭が良い。
このやり口がすべて計算されたものであることをメレアは疑わなかった。
「俺に、アイオースに行けと言うんだろう」
メレアは彼女の提案を理解しながら、それでもまだ迷っていた。





